第1話 氷晶核

 少女は言の葉を夜風になびかせると、あえかな微笑を頬にのせた。


「地につるもの、やがて空よりかえる」


 年の頃は、十五、六だろうか。無数の燈火とうかを星の如くにともした、王都ヴァルベールが少女の大きな瞳に映りこむ。


 大地のことわりに逆らい、高きそらへと浮かんだ少女は、澄んだ薄墨うすずみ色の瞳を悪戯いたずらげにまたたかせると、かたわららの存在に問うた。


「さて、なんのことでしょう?」

「雨だ。――やはり、行かれるか」

「ねぇ、銀のまだら。ここにいる私はだと思う?」

 

 謎解きリドルの解を教えず、少女は問いを重ねる。


 少女の隣には一体の竜がいた。

 星空に黒々と巨体を浮かべ星明かりを反照はんしょうした鱗を銀鼠ぎんねずに輝かせている。頭部には雄々しい角、首元と前腕にあたる部位には艶やかな毛並みを持つ見事な雄竜だ。

 

 竜と少女は何かを待つように、ただ静かに空にった。不思議と彼らの存在を悟るものはいない。薄い雲が頭上をよぎり、少女の白い顔に秘密めかした影が落ちた。

 

「我らにとっては、あなたは唯一で、もうるものなのだよ。愛しき姫」


 謎々の続きかと思われた少女の奇妙な言葉に、竜は重々しくもなめらかな声で答えた。彼らには耳慣れたやり取りのようだ。

 

 少女はくるりと身をひるがえし、竜の巨大な鼻面に小さなてのひらをあてるとぽつりと呟いた。


「冷たい」

上空ここは少々冷えるからな」

 

 息を吸えば肺が冷え、手を当てれば心臓の鼓動が感じられる。なるほど、肉体は今ここにあると接触――衝突と言い換えてもいい――は教えてくれる。

 

 観測かんそくとは光の衝突、衝突は瞬間。ならば、この朦朧もうろうとした軽すぎる存在を、世界に繫ぎ留めるものは何か。


 少女はしばし思索にふける。


(存在するはいくつかの可能性。衝突の瞬間にはじめて、状態は唯一に固定される)

 

 ただの仮定しかし、と深考しんこうしていた少女は気遣わしげな竜の視線でふと我に返り、照れたように笑みを浮かべる。

 

「そんな顔しないで。ふふ、銀のまだらは本当に心配性なのだから。ほら、当たって砕けろというではありませんか」


「ふぅ、あまり不吉な言葉を使ってくれるな」

 

 竜は鼻腔びくうふくらませると、長々と白い蒸気を吐いた。

 

 世界に奇跡を与えた女神は消え果てた。しかしなお不完全に奇跡は残り、ゆえに女神の不在は証明されていない。


 楕円軌道を永久に巡る天空のティーポットのように。


 このゆがみに何か不都合があるだろうか。人はもう慣れてしまい、大して奇妙でもないことのように捉えている。しかし、見えぬところでおりは溜まり続けているのだ。


 それは世界を確実に終末の袋小路ふくろこうじへと導いている。


 先刻より何かを期待するように地上へ目と向けていた少女が、嬉しげな声をあげた。


「来た……っ!」


 不意に地上から立ち上がった金の光が、あい色の夜の静寂しじまを裂いた。光の柱はたて続けに地から天へと何本も打ち上がり、宇宙そらへと至る道のように天を穿うがつ。


「かえるの、雲のように雨のように」


 月光色の髪の少女は、夜を貫く光条こうじょうの一本に身を踊らせた。


 黄金きんに染まった少女は星の重力を無視し、ほとばしる閃光の中をゆっくりと舞い落ちる花弁のように地上に降りていく。




 目に見えぬほどの氷晶核ひしょうかくは雲の種子となり、やがて雨へと変わる。

 小さなしずくは波紋を生みながら、一途いっとに海を目指すだろう。

 



琥珀こはくの姫天よりち」

 

 少女を見送り終えた竜は翼を黒々と広げた。巨大な羽搏はばたきが星明かりをさえぎる。やがて竜は飛び去った。


 星空を模したかのような王都へと言葉を落として。


「――王よ、なんじ何を望む」

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