マキとゆめみる映写機
小山田きり
マキとゆめみる映写機
アクション。
サスペンス。
ラブストーリー。
細切れに映し出される、さまざまな世界。
近いうちに上映が始まる映画の予告。
万華鏡から世界を覗いたようなこの瞬間を通り抜けると、私はもう、私じゃない。
§
主人公が家を追われて、怪しげなカフェに店員として転がり込む。するとユウの心もまた、カフェで精一杯働き始める。
ユウは、座席でココアを一口飲む。映画の主人公はココアなんて飲んでいなかったけれど、お腹が鳴って現実に引き戻されるよりは、スクリーンから目を離さずにココアを飲む方がよっぽどましだった。
照明を落とした劇場で、映像と、緑の誘導灯と、私だけ。そこはもうほとんど、映画の中の世界。
転がり込んだカフェで、主人公は恋人と出会い、友人と和解する。私の胸も、まるで自分に恋人ができたみたいに愛しさで溢れる。主人公はやがてチャンスを掴んで黒幕を捕らえ、愛すべき人々とともに穏やかな日常へと帰っていく。ユウも温かな気持ちになって、カップの中のココアを飲み干す。
そしてスクリーンは、真っ黒になる。
一番幸せで、一番苦しい瞬間。
——映画がエンディングを迎え、現実のことを思い出す瞬間。
ユウは、ふう、と息を吐いて、じわりと明るくなった劇場の天井を見上げた。
板張りの、一目で年季が入っているとわかる天井。その天井は、妙に座面が沈み込む座席や、少しよれて見えるスクリーン脇の幕たちとともに、この小さな映画館を構成していた。
しばらくそうしてから、ユウは席を立つ。少し後ろの列の中央の、いつもの席。もっと前の列の方が、他の人が視界に入りにくいから映画に集中できるかも、と考えたこともあったけれど、ユウが映画を観るときはいつも観客は数人しかいなくて、特に今日みたいにユウ一人しかいない日なんかは、そんな考えは全くの杞憂だった。
「ねえ、きみ」
誰もいないと思っていた背後から呼ぶ声に、心臓が跳ねる。きゅっと縮こまったユウの両手は空になったカップを取り落として、こーん、と気の抜けた音が劇場の中に響いた。
反射的に後ろを振り返ると、映写室から降りるはしごに手をかけた女の子が、こちらを見てにやりとした。
「映画館の幽霊だと思った? 違うよ、あたしマキ。映写技師やってんの」
マキと名乗ったその女の子は、赤っぽく染めた長い髪をポニーテールにしていた。大学に入ったばかりのユウと変わらないくらいの歳に見えるけれど、少し色素の薄い茶色の瞳のせいで大人びているようにも幼いようにも見えてくる子だった。
「いつも観に来てくれてるよね。今日みたいに他にお客さんいない日も」
ユウは少し恥ずかしい気持ちになった。いつもほとんど観客が入っていない劇場だから、受付を過ぎたら誰もユウのことなんて気にも留めていないだろうと思っていたのに、ユウの席のもっと後ろ、劇場の一番後ろの映写室から、この子にいつも見られていたのだ。
「どうだった? 今の映画」
マキが他に観客のいない座席を見回しながら、言う。
ユウはおそるおそる、答える。
「良かった、です。みんなもっと、観に来ればいいのにって思います」
「それは良かった。映画は良いけど、うちがボロいからかな」
そう言ってマキは苦笑した。その表情はなんだか、この劇場を自虐するというより、本当はもっと評価されるべき一本の映画のことを案じているような、そんな表情だった。
マキがまた、口を開いた。
「じゃあさ、きみはなんでこの映画を良いって思ったの?」
「……きみ、じゃなくてユウです。ええと——」
唐突な問いかけに、ユウは少し考える。怪しげだけど匿ってくれるカフェが素敵で。主人公が居場所を取り戻すところも嬉しくて。
でも、一番は最後の黒いスクリーンを見て『終わってほしくない』と思ったから。あのときユウは、現実に戻りたくないと思った。映画が終わってしまったことで、私はこの映画が好きだとはっきり気づいたような、そんな気がした。
考え込んでいると、もう一歩踏み込むようにマキが言う。
「ユウは映画が終わったとき、どう思った?」
まるで自分の心の中を見透かしているようなマキの言葉に、私はどきりとする。またこわごわと、言う。
「終わってほしくない、って思いました。ずっと映画の中にいたいって」
「そっか、そっか」
マキがどことなく満足そうに、うんうんと頷く。
「じゃあ、観た後に現実に戻りたくなくなる映画と、現実に戻る勇気をくれる映画なら、どっちが良い映画だと思う?」
それは不意打ちの、哲学的だとも、しかし言葉遊びだともいえる問いかけだった。マキの薄い茶色の瞳が、私の目を覗き込んでいる。
「……それは、その人とその映画によると思います。その人が求める映画と、そのときに観た作品の組み合わせってだけで」
そのユウの答えに、マキは静かな笑みを浮かべた。
「それじゃあユウは、その世界の中にずっといられる映画を観たいってことだよね。そうなんじゃないかと思ってた」
マキはくるりと後ろへ振り返り、赤っぽいポニーテールが揺れる。彼女は映写室へと続くはしごに足をかけた。
「ついてきて。中、見せたげる」
映写室の中は、思っていた以上に狭かった。部屋自体の狭さ以上に、物が多い。
手前では二台の映写機が小窓越しにスクリーンを覗いていて、その奥の方では円盤状のきっとフィルムが入っていそうな物体が積み上げられている。
壁際では巨大な二つのリールが回転しながらフィルムを受け渡していて、もしかしたらさっきまで自分が観ていた映画なのかな、と思った。
「ちょっと待っててね。これが巻き終わるまでその辺見てていいから」
マキはそう言って椅子に座り、小さな机に向かう。奥の方に積まれていたのと同じ円盤状のケースを開けて、マキが取り出したのはやっぱりフィルムだった。
「それ、何してるんですか」
ユウが机の上を指して聞くと、マキは「フィルムを繋いでるの」と答えた。
「フィルムは短い状態で届くから、繋いであげればその分手で掛け替えなくて済むでしょ」
ユウの口から、へええ、と感心の声が漏れた。上映される映画は誰かがフィルムを操作しているのだとは思っていたけれど、映写技師の仕事を知ったのは初めてだった。
「映画って、撮る人だけじゃないんですね」
そうだね、と言ったマキは、少し嬉しそうだった。
その辺を見てていい、と言われていたけれど、ユウはフィルムを繋げるマキの手元とその真剣な表情を、ずっと見つめていた。
ユウが時間を忘れ始めた頃、ふいにカサカサ、と音が鳴って心臓がどきりと跳ねた。音の方向を見ると、巻かれ切ったフィルムの端が、回転し続けるリールに振り回されている。
「お、終わったね。それじゃあ始めようか」
そう言いながら、マキがリールを片方の映写機にセットする。
「あの、始めるって何を」
ユウの問いに、マキがにやりと笑った。
「ユウのための映画をだよ」
マキが映写機を操作しながら、続ける。
「さっき、ずっと映画の中にいたいって言ったよね。もしもそれが叶うなら、どうする?」
え、とユウは固まる。ずっと映画の中にいられる、というのがどういう意味なのか、考えてしまう。
「その通りの意味だよ。映画の中の世界に入って、ずっとそのままでいられる」
その通りの意味、と言われても、マキの言葉が理解できない。
「どういうことですか」
「うちの映写機、ボロいだけじゃなくて特別なの。劇場の中に緑の誘導灯があるでしょ——」
ユウは映写室の小窓から劇場内を覗く。年季の入った書体で『非常口』と書かれた誘導灯が、扉の上で緑色に光っている。
「——あれを消してからこの映写機を使うと、映画の中の世界に連れていってくれる」
信じられなかった。そんなユウの顔を見て、マキは「一度やってみようか」と、ユウを映写室の外へと促した。
さっきまで座っていた、劇場のいつもの席に座る。照明が落ちる。さっきとは違って誘導灯まで消えてしまって、劇場の中が一段と深い闇に包まれる。
次の瞬間、ユウは知らない町角に立っていた。
でもすぐに、そうじゃないことに気づく。来たことがない町。でも知っている町。
ユウの背後の家の窓を覗き込むと、その見覚えのある家の中に、さっきまで観ていた映画の主人公が座っていた。
えっ、と声が出そうになったけれど、すぐに一つのことを思い出す。これがもしも、マキの言った通りに映画の中の世界なら、主人公の家にはこの後、黒幕の策略で警察がやってきて、主人公は家を追われる。だとすれば、慌てているユウが警察と鉢合わせて面倒なことになるんじゃないか、と想像できた。
急いで曲がり角に隠れて、息を殺す。大きな事件が、私の目の前で動き始めている。感じたことのない緊張感で、反対の腕を掴んだ手に力が入る。そうしているうちに家のチャイムが鳴り、揉めている声の後にドアが勢いよく開く音が聞こえた。
ユウが少しだけ覗くと、主人公が苦しげな表情をして逃げていくのが見えた。そのつらそうな表情に、不格好な走り方に、胸がぎゅっと苦しくなる。また曲がり角に身を隠し、まぶたを閉じて、大丈夫、あなたは最後に素敵な結末を迎えるから、と祈るように主人公を応援した。
「なんとなくわかってきたかな?」
そう耳元で囁く声がして、ユウは叫びそうになった。
声の主が、おっと、と言ってユウの口を手で塞ぐ。映画館で見たままの姿の、赤っぽい髪をポニーテールにしたマキだった。
「叫んじゃだめだよ。捕まりたいの?」
そう言っておどけてみせるマキに、あなたが驚かせるから、と文句を言うと、マキは前髪が触れあいそうなほどに顔を近づけて囁いた。
「意外な方が、映画っぽくていいでしょ」
そして気づくと、ユウとマキは今度は薄暗いカフェの店内に向かい合わせで座っていた。はっとしてカウンターに目を向けると、さっき家を飛び出してきた主人公が、うさんくさそうなマスターにいびられながら懸命に働いている。ユウは心の中で、その人、本当はいい人だよ、と主人公に念を送った。
店内をゆっくりと見回す。薄暗いカフェの中は、アンティークなのかガラクタなのかわからない小物がたくさん置いてある不思議な空間だったけれど、その小物たちは私やマキ、主人公のことを受け入れてくれているような気がして、なんだか落ち着けた。ふと天井を見上げると、レトロな装飾のぼんやりとした照明が、ユウとマキを穏やかに照らしていた。
「照明、こんな感じだったんだね」
ユウがぼそりと呟いた言葉に、マキが胸の前で両手の指を組んで、笑う。
「いいでしょ。映画の世界に入れるっていうのも」
マキの口調は、カフェの雰囲気に合わせたように少し優しかった。ユウはマキの細めた目を見て、うん、と微笑み返した。
「お待たせしました。ココアがお二つですね」
ユウたちにそう声をかけてきたのは主人公で、少し緊張した。だけど、主人公がこれからも頑張るのを知っているから、ありがとうございます、と自然に声が出た。
「ねえ、もしも私がお話を邪魔しちゃったらどうなるの……?」
小声でユウが尋ねると、マキはうーんと考えた。
「あたしはやってみたことないけど、おすすめしないな。主人公が必死にどうにかしてくれるはずの事件が解決されなかったら、近くにいるあたしたちまで大変じゃない?」
確かにそうかも、と思うと、自然と少し背筋が伸びた。ユウたちがやるべきことは、お話を邪魔しない程度に、映画の世界を楽しむこと。
ユウはココアを一口飲んでみた。劇場の自動販売機から出てくるココアも好きだったけれど、マスターが手鍋で作ってくれたであろうココアは、牛乳の風味が口にとろりと広がって、甘く美味しかった。
ユウがココアを飲み終えると、それを待っていたようにマキが口を開いた。
「それで、この映画はユウがずっといたいと思える世界だったかな?」
ずっと。映画の中に少し入ってみる、じゃなくて、ずっといる。
この映画の世界は、素敵で、主人公にも優しい結末が待っている。
——私のあんな現実にも、もう二度と戻らなくてもいい。
だけど、確かにこの映画の中にずっといるというのも私にとっては甘い選択だったけれど、マキのその問いは、まるで『今日観た映画は人生で一番好きな映画になりますか?』と問われるような、難しい質問だった。
「もう少し、考えてみたい。他の映画にも入ったりできるの?」
ユウのその言葉に、マキは待ってましたと言わんばかりに手を叩いて、きらきらと目を輝かせた。
そこから二人で、いろんな映画を観て、そのひとつひとつの世界の中に入った。
魔法の傘で空を飛ぶファンタジー映画。時間を巻き戻して大切な人を救いに行くSF映画。ホラー映画は流石にやめておいたけれど、観て、その中に入ってみた映画はどれも魅力的に思えて、『ずっと中にいる』一本を決めるのは、想像以上に難しい。
マキはときどき、作品やシーンについてユウがどう思ったかを聞いてきて、ユウがそれに答えると、やっぱりそうだよね、とか、あたしはこう思ったけどなあ、とか、マキの感想も教えてくれた。
そうしていると少しずつ、マキがどんな子なのかわかってくる。登場人物の感情を読むのが上手くて、サスペンスな場面は意外と苦手。ユウから顔を逸らしているのは、ちょっと泣きそうになっているときだ。
そういえば、ユウが映画を選んだ後は、マキはどうするのだろうか。ユウが入るための映画を探しているだけなのに、こんなに一緒に観てくれるというのは、マキも、そのうちマキ自身が入る映画を探しているとか、そういうことなのだろうか。
マキの本心まではまだ、わからない。だけど少なくとも言えるのは、マキはやっぱり映画が好きなのだ。
「今観たやつで、うちに今あるフィルムは大体全部だね」
マキの言葉に、ユウはうーんとうなりながら、映画のチラシを見比べる。さっきのファンタジー映画も良かったし、山奥の民宿でただただ癒やされる映画も良かった。好きなものに順番を付けてひとつを選ぶというのは、とても悩ましいものだった。
ユウがそうやって迷っていると、マキが少し考え込んでから、よし、と何かを決心したように手を叩いた。
「ユウのために、とっておきのフィルムを見せてあげる」
古い、海外の映画だった。
優しい主人公の人生を、振り返っていくお話。
青年時代の主人公は、世界中を飛び回る夢を抱いていて、旅行鞄を選ぶ表情が輝いているのが、ショーウィンドウ越しの私にもわかった。
でもその主人公は、不運と優しさゆえに夢を絶たれ、生まれた町に囚われ、身動きがとれないまま、こんなはずじゃなかった人生に傷ついていく。
——私を見つけたと思った。
主人公の青年は私よりずっと優しいし、私よりもずっと大きなものと戦っている。でも、最後まで観なくてもわかった。
これは私のための映画だ、と。
「これにする——私、この映画の中にいる」
主人公を見てそう言ってからマキに視線を向けると、マキはユウの方を向かずに言った。
「そっか、良い映画だもんね」
とある夜、主人公が町に帰ってきた女性と再会する。きっとこの二人は結ばれるのだろうな、と思う。
ユウとマキは、静かな住宅街の中に佇んでいた。
「ねえ、なんで私に声をかけてくれたの」
その問いに、マキは月の浮かんだ夜空を見上げて答える。
「ユウってさ、いつも映画が終わった後、混んでるわけでもないのにしばらく席に座ったままだから。きっとこの子も、ずっと映画の中にいたいんだろうなって」
「この子も、って、マキもそうなの?」
ユウがそう尋ねるとマキは、そうだね、と言って、少し寂しげに笑った。
「主人公を救ってくれる優しい結末なんて、現実にはないもんね」
マキのその言葉が、私の心を震わせた気がした。
映画の中にずっといたいと、あのどうにもならない現実から映画の中へ逃げてしまいたいと、私だけじゃなく、目の前のこの子もそう思っている。私のことを、マキが一緒だと思ってくれている。
同じ映画を観て、同じ目線で同じ思いを抱いてくれる。それはまるで、本来交わることのない別々の人生が混ざり合うような、そういう奇跡みたいな出来事じゃないだろうか。そんな奇跡を分かち合える子と、出会えていたのだ。
そしてマキがそうしようと思えば、私のことなんて気にせずにひとりで映画の世界に行って、それっきり帰ってこないということもできたんじゃないかと思う。なのにそうしなかったのは——一緒に映画の中に行ける人を探していたんじゃないか。
私の心できらりと光った希望が、瞳からこぼれた。
「ねえ、マキ。お願いがあるの。私、マキにこの映画の世界で、ずっと一緒にいてほしい」
同じ気持ちのあなたとなら、一緒に生きていけると思うの。
マキは、その薄い茶色の目を見開いて、私を見た。そして、ふいに表情を崩して、笑った。
「嬉しい。あたしもユウと映画の中に行きたかった。あなたと出会ってお話しできて、本当に良かった」
マキはまた月を見上げて、そして、そっと目を閉じた。
「でも、ごめんね。この映画の中で幸せに生きていくのはあなただけ」
——あたしはもう、戻らなきゃ。
どうして、と声が出る。私の顔の辺りが、氷水でもかけられたみたいに、さあっと冷たくなっていく。
「私と一緒に行くのは、やっぱり嫌……?」
ユウの言葉にマキは、違うよ、と穏やかに首を振った。
「この映画のフィルムのこと、とっておきって言ったでしょう。素材が違う、古いフィルムなの。もうほとんど残っていない素材のフィルム——劣化すると火が出ることがあって、しかも簡単には消火できない」
ナイトレートフィルムっていうの、と続けるマキの声が、夜の闇へと溶けていくような気がした。
「だから私は、ユウが映画を観てくれた劇場を守るよ」
——嫌だ、と何よりも先に思った。
マキが戻らなきゃいけないのも嫌だ。マキが一生懸命働いていた映画館が燃えてしまうのも嫌だ。自分だけが現実に戻ることになると知っていたのに、一緒にいたいと思っていた相手に『とっておき』を見せてくれるようなマキの優しさが、嫌だ。
マキの表情は、笑っていた。笑っているのに、泣いていた。
「さよなら、ユウ。あなたと一緒に映画を観られて、本当に嬉しかった」
マキが背中を向けて、歩き出そうとする。
マキの次の一歩が地面に触れたら、その姿が消えてしまうのだと直感的に悟って、ユウは、マキの腕を掴んだ。
「待って」
気づけば、二人は雪の降り積もる街にいた。
白い雪が、とめどなく、全てを包んでしまうくらいに降っている。マキへと伸ばしたユウの腕に、こちらを向かないマキの赤い髪の上に、その一瞬だけで、白い雪が降り積もる。
「私、現実の世界にいてもいい。マキと一緒にいられるなら、映画の中より、そっちがいい」
あなたのいない人生なんて考えられない。
また一緒に、私と映画を観てほしい。
ゆっくりとユウのことを振り返るマキの瞳が、ユウの目を見る。ユウは目を離さずに、マキの瞳を見返す。
マキの表情が、くしゃりと歪んで、でも今度こそ、笑っていた。
「映画の中よりあたしといたいなんて、そんなの、一番幸せな台詞だね」
ユウの瞳にじわりと涙が浮かんできて、まばたきをすると、マキの髪の上の雪は消えていた。
そこはもう、いつもの小さな映画館の中。ユウがスクリーンに目を向けると、ボロボロで雪まみれで、それでも幸せそうな主人公が映し出されている。
スクリーンを見ていたユウの視界が、赤い髪で覆われる。
ユウのことを抱き締めてきたマキのことを、ユウはぎゅっと抱き締め返した。
そうして私は、現実の世界、映画の外の世界で、いつまでもマキと一緒にいられた。
その映画の中では。
§
マキとユウの姿が、エンドロールに押し流されて、私の視界からいなくなる。
私はもう知っている。あれがマキの、ラストシーン。
そしてスクリーンは真っ黒になる。
一番幸せで、一番苦しい瞬間。
——映画がエンディングを迎え、現実のことを思い出す瞬間。
そのまま、じわりと辺りが明るくなって、映画館の景色が帰ってくる。
新しくて広いシネコンの劇場。立ち上がりたくなくなる座り心地のいい座席。
上映中には消えていた非常口の誘導灯が、点く。
きっと映写機も、デジタルフィルム用なのだろう。
冷めてしまったコーヒーを飲み干した。
苦いなあ、と思った。
マキと一緒に過ごす時間が、『マキとゆめみる映写機』を観ている時間があまりにもまばゆくて、観たのはこれで四度目なのに、気持ちだけが映画の中から抜け出せずにいる。
私が現実に戻っても、マキは映画の中から出てきてはくれない。そんなことはもう、絶望的に知っている。ただでさえ思い出したくないような現実なのに、そこにマキがいないのなら、もう、いらない。
私だって、マキとずっと一緒にいたかった。
もし、ラストシーンの続きがあるなら、マキとユウは、どんな映画を一緒に観て、どんな話をしただろう。マキはどんな言葉を口にして、どんなふうに笑ってくれたのだろう。
そんな想像が私の中から溢れてしまいそうになって、咄嗟に上を向いたけれど、じわりと滲んだ視界の外へとこぼれる涙は、止められなかった。
そのとき、横から声がした。
「お姉さん、いつもこの映画観てますよね」
びくりと声の方向を向いた私は、ひどい顔をしていただろうと思う。
私の方を向いていたのは、同じ列に座った女の子だった。黒いショートヘアの、よくいる高校生という感じの子。
——だけどその子も、目元が赤い。
「私も三回目なんです」
いつもこの子にひどい顔を見られていたんじゃないかと思うと恥ずかしくて——けれどそれよりも、この子にどうしても聞いてみたい、という気持ちが沸いてくる。
「——あなたは、この映画を観てどう思ったの?」
女の子が、一瞬ぽかんとした表情になる。けれど次の瞬間、少し寂しげに微笑んで、言う。
「私もマキちゃんと一緒にいたかったなあ、って」
その言葉に、私の思考が一瞬止まる。目を見開く。そして——この子も私と同じなのだと、ようやくやっと、理解する。
こわばった心に、優しく触れられた気がした。
私が女の子に微笑むと、女の子も一度目を見開いて、私に微笑み返す。それだけでもう、同じ映画を観ていたこの子に、全部伝わったのだとわかった。
そうだよね、と私が言う。
すると、そうですよね、と女の子が返す。
そう、そうなんだよ、と言い合いながら、気づけば互いに、笑っていた。
ひとしきり笑い合って、そうしてから、それぞれのバッグを抱えた。
女の子が、席を立つ。段差の小さな階段を、その足で、一段一段踏みしめながら降りていく。女の子が出口へ続くスロープの方を向いたとき、私とぱちりと目が合って、その子がふっと、微笑んだ。
「また一緒に映画、観ましょうね」
マキとゆめみる映写機 小山田きり @oyamadakiri
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