七月の七分七十七秒のゆくえ
増田朋美
七月の七分七十七秒のゆくえ
7月がやってきた。また暑い季節がやってきたものであった。そうなると、またエアコンが必要になり、弱い人はちょっと居づらくなってしまう季節でもあった。そうなるとやはり、水穂さんにはつらい季節になるらしい。その日も、咳き込んでご飯を吐き出してしまうという症状を繰り返したため、仕方なく、柳沢先生を呼んで、調子が良くなる漢方薬をもらうなどして、なんとかしのいでいるところだった。そんなとき。
「こんにちは。右城先生はいらっしゃいますでしょうか?あの、私、以前右城先生にお世話になっておりました、木下と申しますが。」
と、一人の女性の声がした。まだ若い女性のようであるが、
「木下?水穂さん木下という人を、受け持った事あるか?」
杉ちゃんが水穂さんに聞く。
「聞いたことのない名字ですね。」
と、一緒にいたジョチさんが変な顔をしていった。
「もしかしたら、新種の詐欺かもしれません。ちょっと見てきましょうか?」
ジョチさんは立ち上がって、玄関先へ行った。
「あの、すみません。私、木下陽子と申しますが、右城先生はいらっしゃいますでしょうか?」
そういう女性に、ジョチさんは、ちょっと驚いた顔をした。その隣に、車椅子に乗った男性が緊張した面持ちで一緒にいたのである。
「あの、こちらの男性は誰なんですか?」
ジョチさんが言うと、
「ああ、私の夫で、木下牧雄さんです。あの、今でこそ彼と結婚したため木下陽子と名乗っていますが、旧姓は、木下ではなくて、油井陽子と申します。そう言ってくだされば、右城先生も思い出してくださるのではないかと思いまして。」
と、女性はそういうのだった。
「油井陽子さん。そちらの男性は、木下牧雄さんですね。それでは、呼んできますので、お待ち下さい。」
ジョチさんはそういったのであるが、その木下牧雄という男性が、ジョチさんを見て頭も下げず、何も言わないことになんて失礼な人だろうと思ってた。まあ、今どきの若者だから、そうなってしまうのかなと思いながら、四畳半に戻り、
「水穂さん、旧姓油井陽子さんという女性がご主人と一緒に来ました。なんでも結婚して木下陽子と名乗るようになったそうです。ちょっと、顔を出してやってくれませんかね。」
と、布団に寝ている水穂さんに言った。
「油井陽子さんなら覚えています。確かに、レッスンに来てくれたことがありました。」
水穂さんはそう言って、布団の上に起きた。杉ちゃんがげっそりやせ細ってしまった水穂さんに、疲れたら横になって休めよといったが、それを聞いている感じではなかった。そこでジョチさんは、もう少し待っててくださいと言って、玄関先に行き、陽子さんと牧雄さんを四畳半に入らせた。
「こんにちは。右城先生。私、油井陽子です。今は、木下陽子です。こちらは私の主人で木下牧雄です。」
と、陽子さんは、牧雄さんの車椅子を押してやりながら四畳半に入ってきた。ジョチさんも、杉ちゃんもその男性を見たが男性は表情一つ変えず、ぼんやりと前を見つめているのが、なんだか気になるところだった。
「あの、すみません。木下牧雄さんですね。なぜ、自己紹介も何もしないんですか。緊張しすぎているのかもしれませんが、何もしないで黙りこくっているのはどうかと思いますけど。」
と、ジョチさんがそう言うが、木下牧雄さんは、それを聞いているような態度はとっているものの、ジョチさんが何を言っているのかは理解できない様子だった。
「お前さんは、耳が遠いのか?」
杉ちゃんがそうきくと、木下牧雄さんは、陽子さんの方を見た。陽子さんが急いで牧雄さんの手を開き、なにか彼の手に文字を書く仕草をした。
「何だ、通訳が要るんか。それでは、口の聞けない中国人とかそういうことかな?」
もう一度杉ちゃんがそう言うと、
「いえそんな事はありません。ただ、彼は若いときに交通事故にあって、頭をきつく打ったのだそうです。なんでも、芸大を出た直後に事故にあったとか。」
と、陽子さんは言った。
「芸大?それはつまり、東京芸術大学のことですかね?僕もそこの出身ですが、一体専攻は何だったのでしょうか?」
ジョチさんがそうきくが、木下牧雄さんは、何もわからない様子だった。
「東京芸術大学では、何を習っていたのかと聞いているのです。」
ジョチさんがもう一回言うが、彼自身は、口を開いてなにか言おうとしている。でも、あああ、としか出すことができず、何を喋っているのかは全くわからない。
「わかりました。これは、脳のシルビウス裂というところが損傷したことによる失語症です。耳は聞くことができるようですが、言葉として理解したり、自分で言葉を話すということが、損傷しているのでしょう。それでは、かなり重篤な障害と言えますな。」
と、柳沢先生が言った。
「そうですか、つまり、言語を司るところを損傷したということでしょうか。」
と、ジョチさんが言うと、
「ええ、そういうことですね。おそらく、頭部外傷で、打ちどころが悪かったということだと思います。脳梗塞や脳出血などで起こるのですが、頭部外傷でも起こることがあります。車椅子に乗っていらっしゃるのもそのせいですね?」
と、柳沢先生は聞いた。やれやれ、東洋医学の先生なのに、そういうこともよく知ってますねと杉ちゃんが言うと、
「それでは、これだけ重度の障害を持っている以上、働くと言うことはまずできませんね。」
と、ジョチさんが言った。
「ええ。でも私はそれでいいと思うんです。それに、あたしだってまだ働ける年齢ですし、あたしが生活をしっかりしていけば、あとは福祉制度などを使って、それで頑張らせて上げればいいかなって。」
若い女性らしく陽子さんが言った。
「そうなんですか。ですが、なにか仕事をさせてあげるのも、必要なことだと思いますがね。」
ジョチさんは言った。
「そういうことなら、あたしが彼の仕事を探して上げればいいなと思っています。あたしは今は音楽教室の講師をしているんですけど、いずれ独立して、ピアノ教室を開くつもりだし。結婚する前は、演奏会もしていましたので、また何かの形で演奏会を挙行してもいいですし。」
陽子さんがそう言うと、
「そうかも知れませんが、あなたは、株式会社油井製作所の娘さんです。その様な方が、この様な重い障害を持っている方と結婚するということになれば、大変なスキャンダラスなことになりますよ。もし、報道関係者にでも知られてしまったら、非常に難しい事になるでしょう。その人とずっと一緒にいるというのは、油井製作所の娘さんでは理解できないことも生じるかもしれないんです。だから、結婚と言うのはやめたほうがいいのでは?」
と、水穂さんが言った。しかし陽子さんは、
「ああ、父のことですか。あんな会社、私は手伝いたいと思っていたけど、何も手伝わせてもらえませんでした。私の5歳年上の姉は、とてもしっかりした人で、会社経営に向いていると思いますが、みんな姉の方に目が行ってしまって、私のことは何も見てくれなかったんで、もう姉と父に会社は任せておけばそれでいいと思いました。」
と嫌そうに言うのだった。
「ええ、お姉さんがいらした事は、僕も彼女から聞きました。確かに勉強も良くできて、しっかりしたお姉さんだそうで、模範生として、学校や会社でも、有名な女性だったそうです。」
水穂さんがそう付け加えた。
「でしょ。姉はそういう人ですよ。子供の頃に私は、デパートで迷子になったことがあったんですが、そのときに姉がデパート中を探しまくって私を見つけてくれたんです。その時は、姉ばかり周りの人から褒められて、私は、さんざん悪い子だと決めつけられました。だから、姉は確かに模範的な人だったかもしれないけど、私は、その姉が褒められる元凶を作っていた悪い子だと散々言われて、もうそんな生活は嫌ですよ。だから、父や姉の事は、もうおとなになったから、別れてしまいたいと思ったんです。」
「そうですか。まあ確かに、日本ではどうしても、他人の話をちゃんと聞いたり、誰かのために自分を犠牲にすることが美しいと思われたりするんですけどね。あなたのような自己主張の強いタイプの方では、お姉さんと比較されるのは辛かったのではないでしょうか?」
ジョチさんは、彼女の話にすぐ合わせるように言った。
「まあ僕もうちの弟の敬一が、結構強い感じだったので、そういう事は確かにありましたよ。まあ確かに兄弟のいざこざというのは、多かれ少なかれあるものではあると思うんですけど、女性の方であれば、より、難しいのかもしれません。」
「しかし、そうかも知れませんが、彼女は、油井製作所の社長さんの娘さんです。油井製作所といえば、先代社長が、貴族院議員まで勤め上げた立派な家です。その様な家のお嬢さんが、この男性のもとへ行くというのはちょっと、例が無いのでは無いかと思いますが。」
水穂さんは、心配そうに言った。
「そうですね。一昔前であればそうだったかもしれませんが、今は本人の意思で生活することもできますからね。昔の不良華族事件として報道されるようなことが、今は当たり前のように起きています。だから、もう時代が変わったのではないかと思われるのでは?」
と、ジョチさんが言った。
「そうだなあ。僕もどちらかといえば賛成だな。誰よりもこいつを愛していると言うことはよく分かるもん。まあ確かに、通訳を入れないと、話をできないのかもしれないけどさあ。でも、今は障害のあるやつを隠している時代でもないからね。うちのフェレット二匹も、歩けないけど、でも可愛いし。」
杉ちゃんが腕組みをして、彼女二人を見て言った。
「それに、失語症の治療として、反復療法などが候補としてあげられます。それによって、全失語であっても、なんとか言葉を取り戻したという例もありますから、それをしてもいいのではないでしょうか?」
柳沢先生は、木下牧雄さんを眺めていった。
「ありがとうございます。今日は、ここにこさせてもらったのは、あたしたち、周囲の人に反対されて、結婚式をあげることができなかったのですが、友人に勧められて簡単なパーティー程度なら開いてもいいんじゃないかっていうことになったんです。その時に、彼にピアノを弾いてもらおうかと思っているんですが、そういうことなので、右城先生に一回聞いてもらおうと思ったんですよ。」
木下、旧姓油井陽子さんは、水穂さんや杉ちゃんににこやかに言った。
「なるほどねえ。それで、ここを訪ねてきたわけか。まあ、結婚式というより披露宴だな。それで曲は何にするつもりなの?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「はい。シューベルトのソナタ七番の第1楽章がいいなと思っているんです。本当はもっと有名な曲でもいいと思っているんですけど。彼には普段弾いている曲のほうがいいかなと思いまして。」
陽子さんは答えた。
「はあ、シューベルトのソナタ七番ね。それは、変ニ長調のほうか?それとも、変ホ長調のほうか?」
「いずれも弾けます。演奏される機会は、変ホ長調が多いですよね。でも、それではつまらないので変ニ長調のほうが、演奏効果がありますよね。」
杉ちゃんがそう言うと、陽子さんは答えた。
「まあ確かに、難易度は変ニ長調のほうが高いですね。そういう大イベントだから、変ニ長調で弾いてもいいのではないかと思います。」
ジョチさんも陽子さんに向かって言った。
「ちょっとまってください。本当にパーティーをあげていいのでしょうか。きっと、実家の方が、手を回してくるのではないでしょうか。そういう人を雇うことだってできる家ですから。それに僕は、いくらパーティーをあげたとしても、あなたが幸せになれるとはどうしても思えないです。あなたは、いくらお姉さんに反発して、自立したいと思っているのかもしれませんが、それでも貴族の娘さんであることは変わりないのですから。それに、彼のほうが、本当にあなたの事を信じているかどうか、彼女に対する愛情も表現することも、できないのですからね。」
水穂さんが、陽子さんたちを眺めてそういったのであった。
「もう、水穂さんがそう言っちゃ困るでしょ。それより早くレッスンしてあげてよ。彼の演奏、多分芸大行ったくらいだから、すごい演奏だと思うぞ。早く演奏聞かせてほしいくらいだよ。」
と、杉ちゃんが言うと、
「そうかも知れないですけど、僕は彼の演奏がすごいとは思えません。彼は、本当に僕たちの事を信じることができるかどうか。それに彼女に愛情を持つことができるかどうか。そして、何より自分では何も表現できない夫を持って、彼女、陽子さんが幸せになることができるかどうか。それが保証できるかを考えた上で結婚しないと大変な事になります。もし、負担が強すぎて精神疾患でも発症してしまったらどうなるのです?そうなったら、誰も助けてくれる人はいないのですよ。」
水穂さんは、そういうのだった。
「そうだねえ。そうなったらそうなったでいいのではないかな。そのときは、新しい人間関係ができるきっかけかもしれないし。それでいいんじゃないの?」
杉ちゃんがそう言うと、
「そうかも知れませんが、やはり結婚は一生のことであるわけですから、安全路線で行ったほうがいいと思うのですよ。結婚は、長い人生でもあるわけですから。本当の愛って、安全でなければ発生しないと思います。それに、このご時世では、少数派の人に、手を差し伸べる機関はほとんどありません。だから、多数派として生きていかなければ、幸せにはなれないと思います。」
水穂さんは、そう言い切るように言った。
「それはちょっと、考えすぎというか、せっかくの若い二人を邪魔してしまうというか、そういうことにもなるんじゃないのかな。それよりも、僕らは、若い人を応援してあげなくちゃ。年長者がすることはそういうもんだろ?な、な。」
杉ちゃんは、ジョチさんや柳沢先生の顔を見て、確認した。ふたりとも反対ではないという顔をした。
「ほら見ろ。みんな反対はしてないじゃないか。大丈夫だよ。そのうちなんとかなるから。そんな事、恐れていたら何もできないぞ。」
改めて水穂さんに杉ちゃんはそういうのであったが、水穂さんは違った。急いで布団から立ち上がり、ピアノの蓋を開けて、
「じゃあ、ここで弾いてみてくれますか。第1楽章でいいですから。」
と、木下牧雄さんの顔を見ていった。それは、決して馬鹿にしているのではなくて、真剣に牧雄さんのことを思っている顔であったが、それでも、言葉として通じているのかどうか、はたしかに不詳だった。だけど、牧雄さんは、水穂さんの表情を見て、なにか感じてくれたらしい。車椅子をそっと、ピアノの方へ動かし始めた。ちょっとまってと言ってジョチさんがピアノの椅子をどかして、ピアノのそばに彼をつけてやると、彼はしばらく鍵盤を見つめていたが、ピアノに手をかけて、ピアノを弾き始めた。もちろん弾いたのはシューベルトのピアノソナタ七番の第1楽章である。よく知られている変ホ長調の方ではなくて、あまりこの版が存在していることを知られていないで、しかも難易度の高い変ニ長調の方だった。
それは大変美しい演奏で、左手のアルベルティバスも崩れておらず、ちゃんとメロディもなっているし、作曲者の意志を伝えることもできていた。場面の展開などもしっかりできている。とてもそこいらにいる平凡なピアニストの演奏とはわけが違った。杉ちゃんなんかは、演奏が終わる前から拍手をしてしまったほどだ。
「やあ、いい演奏じゃないか。言葉に頼らないから、こういうすごい演奏ができるんだ。こりゃあ、歩けたら間違いなく大物だぞ。それでも今の時代だったら、こいつの単独ライブもできるかも?」
杉ちゃんが拍手をしながらそう言うと、
「そうですね。障害は商売にならないと言いますが、それも使い分ける必要があるかもしれません。これでは、奥さんの力添えでなにか社会活動できたらいいですね。」
ジョチさんも同じことを言った。
「と言っても、彼が今の状況を理解しているかどうかはわかりません。そういうことなら、きちんと治療した方がいい。僕の知り合いでやはり全失語になりましたが、それでも簡単な単語が聞き取れるまで回復したものがいますから、彼に相談してみましょうか?」
医療関係者の柳沢先生は早速手帳を開いて、訓練士さんの電話番号を調べ始めた。
「それに、福祉関係のマスコットキャラクター的な存在としてピアノを続けてもいいじゃないか。そういうやつを求めている団体は多いぜ。」
と、杉ちゃんが言うと、
「確かに、八分十七秒で弾くことができるのは、テンポとしては良いと思いますけど。」
水穂さんは、そういった。
「もう少し強弱をつけてもいいのではないかと。それに少し左手が右手を邪魔しているようなところがあったので、そこも少し気をつけていただかないと。演奏者としてなら。」
ということは、結婚を認めてくれたのだろうか。牧雄さんの方は、ぼんやりと水穂さを見ているだけであった。それだけしか今の牧雄さんにはできないのだろう。
「ほう!それでは、七分七十七秒で弾けたら、もっといいのかな?」
杉ちゃんがすぐに言った。
「そんな時間割あるわけ無いじゃないですか。杉ちゃんデタラメを言わないでくださいよ。まあいずれにしてもですね。彼の演奏を、ぜひ、披露パーティーで聞かせてやってほしいものです。多分言葉が言えないとか、理解できないとか、そういうことで色々あると思うけど、でも、この演奏ではなんとかなるんじゃないでしょうか。そんな気がする演奏でした。」
ジョチさんがそう言うと、彼はもう一度同じ曲を弾いた。今度はもういいよと誰も止めることはしなかった。彼の演奏は、きちんとしていて、とても人生をバカにしていることは無いと感じさせてくれた。
「きっと七分七十七秒は、幸せな七分七十秒になるよ。」
杉ちゃんは、にこやかに笑ったのであった。
七月の七分七十七秒のゆくえ 増田朋美 @masubuchi4996
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