誠実な人の書く誠実な小説とは、だいたいは退屈なものだ。
優等生でよござんしたね、そんな感想になりがちだ。
その誠実さが、誠実なままに魅力になる作風がある。
砂浜から小さな目立たぬ白い貝を拾い上げ、大きさを丁寧に揃えて糸でつなぎ合わせてみたら、こうもあろうか。
そんな作品には控えめな佇まいがあり、書き手の誠実な人柄にまことに相応しい。
ただ丁寧に紡がれていくだけで、喜怒哀楽を派手に煌めかせている他の作品にはない月白(げっぱく)色と変わるのだ。
宝石のように目立ちはしないが、日陰の花のような美しさを持っている。
沖縄ときいても、代々の県民なのか、内地からそれを眺めるのかで、Okinawaは別の国ほど違うのではないだろうか。
沖縄。真っ先にわたしの脳裏には、海と砂浜、そして「暑い」の二文字が浮かぶ。そんなリゾート地沖縄を、日陰の文章でニルさんは綴る。
夜の海から島影を眺めるかのような、沖縄の黒歴史。
かといってそれは、雪に閉ざされた山陰や東北地方のような、湿っぽい暗さではない。
戦争ものにありがちな銃火器の派手さもない。
太陽の照り付ける、熱帯低気圧から大雨の降る、沖縄の鮮やかな花の色の中に迷い込んだ日系三世の米軍兵士と少女の出逢いを淡々とした筆致で書き綴るのだ。
忘れられた島。
誰も忘れてはいない。歴史でも習う。太平洋戦争末期、激戦地となり多数の犠牲者を出した。県民の四人に一人が死んだ島。誰もが知っている。
乞食のような風体の住民がガマと呼ばれる鍾乳洞から出てくるところも、座り込んで震えの止まらない幼女の映像も、節目ごとに何度も見る。
ひめゆり学徒隊、鉄血勤皇隊、十代の若者たちの悲劇も繰り返し語られている。
なのに、なぜ、「忘れられた島」なのか。
沖縄は本土を護るための捨て石にされたというが、戦艦大和は特攻しており、日本軍は膨大な犠牲者を出して、死に物狂いで奮戦した。そのことは誰も忘れていない。
忘れられた。
忘れられた。
誰が何を忘れたのだろう。
何が忘れられたのだろう。
きっとその忘れ物は、白い砂浜に小さな貝を落とすようなもので、歴史の中ではまったく目立たないものなのだ。
作家だけがその貝を拾い上げる。