第32話【番外編】ひとでなしのこい⑨
「忠勝?」
「……ったんだ」
「えっ?」
気まずそうにうろうろと宙を彷徨っていた忠勝の瞳が、観念したかの様に一度閉じられると、ゆっくりと開かれた。
その瞳はただひたすらに、家康だけを見つめている。
「……あなたに、どう接していいか、分からなかったんだ。俺は、親を説き伏せて、仲人に無理やりあなたとの縁談を纏めて貰うよりもずっと前から、あなたのことを知っていた。だから、結婚が決まった時は、それは嬉しかったのだが……あまりに長い間あなたのこと思っていたせいで、実際目の前にしたら、緊張でどう接していいか分からなくなって……。家康殿は、最初から俺のことを嫌っていたし」
「は?」
家康が、パチパチと瞬きをする。
「別に嫌ってないが」
忠勝がいじけたように、視線を落とした。
「嫌っていただろ。……婚礼の時、俺はとてつもない勇気を出してあなたに話しかけたのに、目も全然合わせてもらえないし、他の人間には笑ったりしているのに、俺の前ではずっと落ち着きがなくて……かなり落ち込んだ」
「それは緊張していたんだ、馬鹿者。だ、大体お主こそ、能面みたいな無表情な顔でじいっと人のこと長時間、見続けてたじゃろ。あんな状態の初対面の人間を前にして、にこにこ笑えるわけないだろうが」
「俺は感動していたんだ!」
忠勝の叫びに「はあ?」という顔で、康政が首を傾げる。
「感動って」
「ずっと物陰から見つめていて、気づかれないように写真に撮ることしか出来なかったあなたを、初めて間近で見れたんだ。情けないが、体の震えが止まらなかった」
「うん、忠勝殿……。一見、内気な純情青年っぽく言ってるけど、それ、犯罪だからね。人でなしの行為以外のなにものでもないからね」
康政の胡乱な呟きを完全に無視して、忠勝が唇を噛みしめる。漆黒の瞳が、恨めしそうに家康を見た。
「なのに、あなたは俺と居る時は何だかいつも落ち着かなくて、一刻も早く離れたいみたいな雰囲気だったし。それなのに康政といる時は、妙に距離が近くて二人とも楽しそうで」
「なっ」
「はいはい。いい加減にしてくださいね、お二人さん。後は二人きりの時にやってください。今なら私、口から永遠に砂糖を吐き続けられそうです」
両手で止まれの形を作った康政が、やれやれと溜息を吐く。
「まったく。大体、最初の頃のあの双方のツンデレ具合は何だったんです」などとぶちぶち言いながら、康政が皿の上に置かれていた菓子を一つ摘まむ。
しゃりっとした歯ざわりは、表面にまぶしていた砂糖によるものだろう。噛み締めると、柔らかな餅の中からとろりとした甘い黒蜜が、溢れ出てきた。
美味い。さすが、本多家の客用茶菓子だ。
上品な甘さが口の中いっぱいに広がって、思わず緩んでいく口元。
だがしかし、康政がそんな現実逃避もとい些細な幸せを感じている隙に、彼を置いてけぼりにして座卓を挟んだ向こう側では、黒蜜よりも甘い、ねっとりとした二人だけの世界が出来上がりつつあった。
正座した膝の上に置かれていた家康の白い手を、忠勝の大きな手が絡め取る様に両方の手とも包み込む。囁く様な甘い低音が、家康の耳を優しく犯す。
「怒っているのか?」
俯いている家康の顔を覗き込むように、忠勝がおずおずと顔を寄せてくる。
ぷいと家康が、拗ねたようにそっぽを向いた。
「別に」
「嘘だ。怒ってるだろ。だって、さっきから全然俺のことを見ない」
「……気のせいじゃろ。というか、近い。康政も居るんだ、もう少し離れて」
ずいと膝を寄せて、忠勝が尚も身を寄せてくる。家康の手を優しく引いて、無理やり自分の方へと向かせる。
座卓の向こう側で、康政が砂糖を吐いていた。
「土蔵に隠し撮りしたあなたの写真を収蔵して、あなたを恐がらせたこと? 写真を前に、自分勝手な妄想をして一人勝手に興奮していたことか? それとも――」
家康の細腰に、忠勝の右手がまわされる。節くれだった固い指先が、家康の腰骨の辺りをするりと撫でた。
「あっ」
思わず出てしまった艶っぽい声に、家康がかっと頬を赤らめる。
それを見た忠勝の瞳はさも満足そうに細められると、どろりと熱を孕んで妖しく光った。
「――それとも、こんなに感じやすい家康殿の体を半年間もほったらかしにして、指一本触れなかったこと?」
「ち、違っ」
家康の瞳の奥が、ゆらゆらと頼りなさ気に揺れている。まるで熱に浮かされているかの様に潤んだ大きな瞳は、言葉とはうらはらに縋りつくような必死さをもって忠勝を見上げていた。
忠勝が、獣の様にべろりと自分の唇を舐めた。
「あのー、お二人さん」
「寝室に行くか? それとも、……また土蔵の方がいい?」
「や、ただかつ……やだぁ……」
「私、いるんですけど」
「あの夜のことを思い出してしまうから、あなたは土蔵の方が好きなのか? あの夜、土蔵の中で鉢合わせて俺の秘密を知られてしまった時は、もう何もかも終わりだと思ったんだ。あなたを失うかと思ったらもう何も考えられなくなって、俺は、その場であなたのこと……」
「やだ! あの場所は、嫌じゃ……」
「ねえ、お願い聞いて。私も、この部屋に居るんですけどお」
耳元まで赤く染めて、ふるふると小刻みに震えている家康を大事そうに抱え込むと、すっくと忠勝が立ち上がる。そのままスタスタと部屋の出口まで足早に歩き、ふと本当に今思い出したかのようにくるりと振り返った。
「康政、まだいたのか……。申し訳ないが、これで失礼する。今日はもうここには戻って来ないから、後は好きに過ごせ」
「……行くのか?」
思わず漏らした康政の問いに、忠勝の瞳が僅かに見開かれる。
暫く無言のまま二人で見つめ合っていると、ふっと、忠勝の唇の端が歪められた。
「夫婦間の問題だからな。くれぐれも他言無用で頼む」
それだけいうと、今度こそ忠勝が部屋を出て行った。
ふよふよと忠勝の肩越しに、家康の黒髪が見え隠れしていたが、おそらく茹で蛸のように真っ赤になっているであろうその頬も、めったにお目に掛かれないであろう発情した猫の様に艶めいた表情も、康政が見る事はついぞ叶わなかった。
何故なら当の家康は、忠勝によってまるで宝物を外敵から隠すかのようにすっぽりと腕に抱き抱えられてしまっていたから。
カ、コ──ン。
庭の奥から、ししおどしの音が聞こえてくる。
誰も居なくなった客間にぽつんと残された康政の顔に、障子から西日が射し込む。あまりの眩しさに思わず目を細めると、熱い吐息と共にぼそりと呟いた。
「ちょっと、いいかも。……土蔵プレイ……」
番外編「完」
本多忠勝は殿のすべてを守りたい 蝸牛伸尾 @aomeda
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