第7話 二人きりの夜①

 バシャッ、バシャ、バシャ。

 忠勝が、雑念を打ち消すように沢の清流で顔を洗っている。

 忠勝が十三、家康が十九歳だったあの春を思い出す度に、主君の秘密を知ってしまったあの日を思い出す度に、忠勝の胸は得体のしれないざわめきで一杯になってしまう。


「殿がそうして生きていくと覚悟したのなら、俺が一生守ってやる」


 そう約束した。それなのに──。

 考えるな、深く、これ以上。武士なら主君の為に、忠義を尽くすことだけ考えれば良い。あの日以来、自分に言い聞かせている言葉だ。

 忠勝が顔を上げると、水滴が健康的な浅黒い肌を伝って垂れてくる。忠勝は黒い着物の袖で荒々しく拭うと、沢の水で濡らした手拭いをその手で握りしめた。





「そうか。そんな騒ぎになってしまっているのか」


 家康が眉をハノ字にして、がっくりと項垂れる。

 沢から岩屋に戻った忠勝は、蜻蛉切を返してきた家康に、ざっと現在の岡崎城の騒ぎを話した。肩に掛けた忠勝の黒い羽織も家康は返そうとしたが、忠勝がそれを固辞した。


「本当に情けないのう、儂という奴は……」


 忠勝の黒い羽織を掛けた家康の肩は薄く頼りなく、炎に照らされて浮かび上がる白い寝間着といい、襟元から覗く白皙の肌といい、ほつれた黒髪、潤んだ黒い目、暗い森の奥で洞窟に二人きりというシチュエーション。何もかもが自分を試しているのではないかと、忠勝は酷い眩暈を覚えた。

 だが、忠勝の理性は鉛玉より強かった。と、忠勝自身は己に先ほどからずっと念じ続けている。忠勝にとって家康は、誰よりも何よりも大切なたった一人の主君、の筈なのだから。


 忠勝は、家康にここに来るまでのあらましを話した。

 殿が消えたと聞いて瞬時に飛び出してきた忠勝は勿論、榊原康政も酒井忠次も石川数正も、今頃手分けして家康の行方を探していることだろう。

 ただ、家康が城を飛び出した理由を、万人に知られるのはまずい。その為、探索はごく限られた信頼できる手の者だけで行われているだろうと予測できた。

 そして忠勝は、今宵はこの岩屋で夜明けを待つことを決めていた。


「明朝、城に戻る。それまで少しでもいいから、眠っておけ」

「それはならぬ」

「何故だ」

「皆を心配させてしまっておるのだろう? 一刻も早く帰って、安心させてやらねば」


 まっ赤に燃え上がる焚火を眺める家康の姿を盗み見て、忠勝の胸の中が再びざわりと渦を巻いた。


「殿、脚をこちらへ」

「脚?」

「膝の傷を拭く」

「ああ、良い良い。こんなかすり……」


 家康が言い終わらぬうちに、忠勝がガバリと家康の足首を掴んだ。


「ひえっ?」


 ずりずりと膝で、忠勝が近寄ってくる。

 目尻の切れ上がった大きな瞳をじっと主君に見据えて、きりりと吊り上がった男らしい眉を顰めている。すっと通った鼻筋に、形の良い少し厚めの唇。高めに結った長めの髪は、背中まで届く艶やかな黒髪。

 このように整った顔立ちをしている忠勝ではあったが、しかしやはり、真剣になればなるほど顔の圧が凄かった。

 暫くの沈黙の後、ついに家康も根負けして、薄っすら血の滲んだ白い着物の裾を引き上げる。


 ごくり。

 無意識に、忠勝の喉が鳴る。

 忠勝は自分の頬を、渾身の力で殴った。

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