第8話 二人きりの夜②
「気でも狂ったか!? 忠勝!!」
家康が悲鳴を上げて、忠勝を制する。
慌てて止めた為、寝間着からすらりと伸びた片足がさらに露になる。
山の急斜面を滑り落ちただけあって、思ったよりも酷い怪我で痛々しい。
唇から薄っすらと血を滲ませている忠勝は、何事もなかったかのように平然と治療の準備に取り掛かる。
「心配無用。不届き者を成敗したまでじゃ」
「ふ、不届き者って」
目を白黒させる家康。
のちの戦国最強サムライ、本多忠勝。彼の拳の威力はそれは凄まじいものであったが、拳を受けたのも忠勝自身だった為、常人ではありえないほど何事もなかったかのように飄々としている。
さすがは本多忠勝じゃ。
家康は何だかよく分からないなりに、感心していた。忠勝の拳を受けてダメージを受けない者など、忠勝を置いて他にいないからだ。
はああ。
忠勝が、己の呼吸を整える。
主君の怪我を間近に見て、忠勝にひやりと冷静さが戻ってきた。
沢の水で濡らしてきた手拭いを手に取ると、触れるか触れないかという柔らかな手付きで、膝の血を拭っていく。
「痛っ」
家康の声に、忠勝の手が止まる。
必死に我慢していたようだが、思わず声を漏らしてしまったのだろう。家康の眉間の皺は、深くなるばかりだ。傷に直に触っているのだ、相当痛むのだろう。
「すまぬ」
忠勝が気づかうように、主君を見る。
家康はへにゃりと笑うと、手を胸の前で小さく振った。
「大丈夫じゃ。続けてくれ」
忠勝はしばし家康の様子を伺うと、今度はさらに優しい手つきで膝の傷をちょんちょんと少しずつ拭っていく。濡れた手拭いによって、血や埃、砂利などが綺麗に取り除かれていく。忠勝は注意深く傷の様子を見ながら、
「夜の森は危険だ。月明りだけでは道に迷う可能性があるし、獣や夜盗に出くわす危険もある。ましてや殿は、怪我をしておられる身。今度は、山の斜面を滑り落ちるだけでは済まないかもしれぬぞ」
と念を押した。
忠勝の言葉に、家康が「うう」とか「だが、しかし」を繰り返す。
家臣たちに心配をかけるのは心苦しいが、この身が危うくなってはさらに心配をかけることになってしまう。それでは本末転倒だ。
そもそも、すべて納得の上で行われるはずだった今夜のことも、寸前になって家康自身が放り出してしまったのだ。言い訳でしかないが、本能的に体が逃げてしまった。家康は元から、家臣に迷惑かけまくりの情けない主君だったことを自覚する。
それに、目の前の忠勝は、何があっても家康を守ろうとするだろう。家康の盾になる忠勝の身は、さらに危険なことになる。
真夜中の森、自分のことを探しているであろう家臣たち、自分を見つけ出してくれた忠勝の忠義。
家康は自分を落ち着かせる為に、深く息を吐いた。
「出立は明朝か」
「そうじゃ」
「皆を待たせてしまうが、仕方ないのう」
ぴくり。
手拭いを持った忠勝の手が止まる。
家康は気づかない。
「……皆とは?」
「ん?」
「待たせてしまう皆の中に、そやつは入っているのか?」
「何のことじゃ」
言葉の意味をよく飲み込めていない家康が、きょとんと目を丸くする。
忠勝はじとりと家康を見据えると、低い声で呟いた。
「殿に種付けするどこぞの馬の骨のことだ」
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