黒い子守唄

鳥尾巻

changeling

常夜のくに 永遠とわの黒

星詠い 月の啼く

水阿みさきの浅瀬 露のいお

うまし やすらい 眠れ愛し子



 春。

 柔らかな日差しを浴びて、年老いた女と少女が小川沿いの小径こみちを歩いていた。


 老女は白髪を一つに結い、簡素な白いブラウスとグレーの長いスカートを身につけている。杖に頼り背中を少し丸めて歩きつつも、いま矍鑠かくしゃくとした風情である。

 半ばめしいた目に風景はぼんやりとしか映らないが、異国の血が流れるそれは春の空を切り取った澄んだ水色。


 青いワンピースを着た少女は歩くたびに肩までの茶色の髪を揺らす。時折老女を見上げ、今はどんな色のどんな花が咲いているか事細かに伝えている。顔立ちのよく似た2人は血縁であることが見て取れる。


 道端に咲く素朴な草花、そこかしこに飛ぶ蝶、髪を揺らすそよ風、世界に溢れた命の息吹が彼女達の心を楽しませる。

 やがて少女は大きな茶色の瞳を満足げに細め、鼻唄を歌い始めた。


「うましやすらいねむれいとしご」


 しかしそのあどけない歌声に老女は驚いて足を止めた。


「そのウタはどこで聞いたノ?」


 老女の厳しい口調に少女は怯えた様子で口を噤む。見えずとも気配で察した彼女は、自分を落ち着かせるように一つ息を吐き、もう一度深く吸ってからゆっくり尋ねた。


「ゴメン、驚かせたネ。素敵なウタだから、誰に教わったのかなッテ」

「丘の上にあるお屋敷の……あ、ひみつだった」

「大丈夫。誰にもナイショヨ?」


 老女の発する日本語は少しいびつではあるが優しい響きを帯びている。少女は束の間逡巡したものの、いつも内緒話を共有してくれる大好きな祖母に秘密を打ち明けることにした。


「丘の上のお屋敷に、ひとが引っ越してきたの。その家の子が教えてくれたの」

「それなら春から同じガッコウに通うのね?」

「ううん。体が弱いから学校には行けなくて『かてーきょうし』をつけてるんだって」

「じゃ、どうやって会ったノ?」

「カリンを……食べてみたくって」


 小高い丘の上に建つ古い石造りの洋館。もう何十年も人は住んでいない。高い石塀に囲まれた庭は荒果て草木が野放図に育つに任せたまま。

 中でもひと際大きな花梨の木は通りにまで枝を張り出していた。秋に重たげな黄色の実をつけ、辺りに豊かな芳香を漂わせる。

 だが今は春。まだ薄紅色の可憐な花を咲かせている頃だ。


「いまは実の季節じゃないわ。それに生だとカタいよ?」

「うん……下に落ちてないかなって、塀のすきまから入ったの」

「ふふ、オテンバね」

「あのね!すごくきれいなお庭だったよ!」

「そうなノ」

「そこですごくきれいな外国の男の子に会ったの!お祖母ちゃんと同じ水色の目をしてたよ」

「そう……」


 老女は上の空で返事を返したが、その瞳の奥には強い恐怖が滲んでいた。震える萎れた手が小さな柔らかい手を取り、諭すように続ける。


「もうお庭に行ってはダメ」

「どうして?とっても優しそうな子だったよ。今度行ったらカリンの砂糖漬けを食べさせてくれるって」

「それでもダメなのヨ」

「やだー、行きたいー」


 少女が駄々をこねると、祖母は困ったように眉を寄せた。彼女の苦悩を表すように年老いた額に小さな皺が幾筋も刻まれる。


「じゃあ、おばあちゃんも一緒に行くワ」

「ほんと!?」

「ええ」


 2人は微笑み合い、手を繋いで再び春の小径を歩き始めた。



 夜。

 老女は独り、丘の上の洋館に続く道を歩いていた。星もない闇の中を杖を頼りによろめきながら進む。


 ここまで……ここまで逃げて来たのに。カサついた色のない唇から呟きが漏れる。


 屋敷を囲む塀伝いに進み、蔦の絡まる木製の門扉の前に出た。手探りでかんぬきを上げると、扉は軋みながら内側に開く。

 石造りの灰色の洋館は壁のあちこちに蔦を伝わせて闇の中に荘厳な佇まいを見せていた。つい先日まで崩れかけた建物だった面影は微塵も感じられない。


 老女は意を決したように足を踏み入れた。一歩進むごとにその背中は端然と伸びていく。不確かな足取りも次第に力強くなる。白い髪は闇にも輝くほどに眩い金色の光を帯びる。


 老女、否、長い金の髪を靡かせた水色の瞳の若い女は、しっかりと地面を踏み締め庭先から家に向かって声を投げた。


『来たわよ』


 すう、と闇が動く。家の玄関の扉が音もなく開き、中から子供の声がした。


『入って』


 声に導かれるまま、精緻な彫刻の彫られた木製の扉を潜り抜け、黒い螺旋階段を登る。


『常夜のくに 永遠とわの黒 星詠い 月の啼く』


 足元は暗いが躓くことはもうない。幼い子供の歌声が彼女を誘う。


 この歌の続きを知っている。嘗て何度も。何度も歌った子守唄。


水阿みさきの浅瀬 露のいお


うまし やすらい 眠れ愛し子』


 辿り着いた部屋の中には赤赤と暖炉の火が燃え盛り、高い天井や窓に掛かる重厚な手織りのカーテン、杉綾の床材を明るく照らしていた。


『あの子には手を出さないで』

『おや、久しぶりに会えたというのに無粋なことを』


 窓辺に佇んでいた華奢な少年はその見た目にそぐわない大人びた口調で彼女を揶揄からかう。振り向いた水色の瞳は暖炉の光を受けてきらめいていたが、永き星霜せいそうを経た生き物の老獪ろうかいさが隠れている。


『目的は私でしょう?』

『……そうだよ、愛しい人。僕の片割れ、魂の伴侶。子供達も君を待ってる』


 常夜の国を厭うて逃げ出したにえの花嫁。人とは違う時間を過ごす彼にとっては、ほんのひと時の家出のようなものだろう。

 

 大袈裟な言葉と身振りで差し出された手。どこへ逃げても逃げきれない。女は黙ってその上に白い手を載せた。

 いつの間にか少年の姿は長い髪の偉丈夫に変わっていた。枝垂れ落ちる絹の衣。淡く光る黄金こがね色の髪と水色の瞳。

 対の絵のような2人が並び立つ。暖炉の火が一層燃え上がり、その姿は一瞬にして掻き消える。


 やがて辺りは再び暗闇に包まれた。




 翌朝、いなくなった老女を探す者たちが洋館に足を踏み入れると、朽ち果てた屋敷の中には白い杖が一本残されていた。


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黒い子守唄 鳥尾巻 @toriokan

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