第3話 メタバースに住む女

 次の日クツマは、プログラミング作業の続きを始めるため、20時が来るのを待って再びメタバース空間にログインした。二回目からはスムーズで、ログインするや否や、目の前にバーチャルオフィスへ通ずる穴がポッカリと口を開けて待っていた。昨日と同じように穴の中の宇宙空間を猛スピードで潜り抜け、いくらかひどい眩暈がしたかと思うと、そこはもう自分専用のプログラミングルームだった。頭に装着していたVRゴーグルは消えており、仮想空間を生身の体で体感していた。

「やっぱり夢じゃなかったんだ……」

 デスクに向かったクツマは、お気に入りのキーボードの感触を確かめながらメールチェックを始めた。メールもきちんと現実世界と同期されていた。一通づつメールをチェックしていくと、そのほとんどは企業からの広告メールだった。半ば惰性でカチカチと削除ボタンをクリックしていると、一通だけ今まで見たこともない送信元のメールがあった。バーチャブレイン社からのメールだった。

 メールを開くと、『おめでとうございます。専属プログラム職人に選ばれました』と書かれていた。まるで、よくあるフィッシングメールのようなタイトルだ。不可解に思いながらもメールを読み進めると、プログラミング歴10年以上のシステムエンジニアが毎年数名ほど専属プログラム職人に選ばれると書かれていたのだ。昨日のアンケートで、経験10年以上あると答えたことをクツマはふと思い出した。とはいえ、プログラミング歴10年以上のシステムエンジニアなど世の中に腐るほどいる。ハードルの低さに不信感を募らせながらも、さらにメールを読み進めると、驚くような内容が目に留まった。そこには、バーチャブレイン社の専属プログラム職人として働けば、年収二千万円を保証すると書かれていたのだ。

 年収二千万円など、クツマがどれだけ頑張って働いても手の届かない金額である。これだけの収入があればタワーマンションの最上階にだって住めるだろう。クツマはメールを何度も読み返したが、間違いなく年収二千万円と書かれており、断る理由など何もないように思えた。しかし、うまい話など滅多にあるものではない。手の込んだ詐欺かもしれない。仮に詐欺でないにしても、もしも、与えられた仕事が高難度のシステム構築案件ばかりだったら、クツマの実力では対応できず、すぐに契約を切られてしまうかもしれない。

「即決はできないよなあ……」

 しかめっ面で腕を組んで、どうしたものかと悩んでいる時だった。突然、チャイムのような音が鳴り、空中に大きなスクリーンが現れた。スクリーンには『バーチャブレイン社からの特別オファー』と書かれており、そのすぐ下に『開く』ボタンがあった。クツマが『開く』ボタンを押すと、スクリーンが閉じて、代わりにどこかで見覚えのある人物がフェードインして現れた。

「やあ、クツマくん、待ってたよ、悩んでるみたいだね」

 スクリーンに現れたのは、クツマがサラリーマン時代に勤めていた会社の先輩、サトウシンゴだった。

「わあ、やっぱり、サトウさんでしたか。プログラム職人って聞いて、まさかとは思ったんですが……」

「うん。僕がサラリーマン時代にそう言われて悪い気はしなかったからね。その響きを耳にすれば、エンジニアならきっと惹かれるだろうと思って、プログラム職人の会を作ったんだ」

 クツマは事の流れを整理できずにいた。そもそも、どうしてサトウがここにいるのか。まさか、このメタバースの世界もサトウが作り出したプログラムなのか。いや、その前に、不動産管理システムの設計書の署名欄に書かれたサトウシンゴは誰だったのか。それを確認するのが先だとクツマは考えた。

「あの、サトウさん。以前にタカヤナギって人から、不動産管理システムを依頼されませんでしたか?」

「うん、依頼されたよ」

「なんだぁ、やっぱりあの設計書を書いたのはサトウさんだったんすね? 今自分がプログラミングしてるんですよ!」

 サトウはにこやかに答えた。

「うん、確かに不動産管理システムの設計書を書いたのは僕だ。でも、まさかクツマくんが引き継ぐなんて思ってなかったよ。ソースコードも見させてもらったけど、悪くないね。さすがクツマくんだ」

 しかし、どうしてもクツマには解せないことがあった。なぜ、プログラム職人とも呼ばれたサトウが、さほど難易度の高くない仕事を途中で放り出して逃げ出したのか。クツマがたずねると、サトウは少し躊躇したが、会社の後輩でもあるクツマにならと、真実を話し始めた。

 一年ほど前、サトウは勤務してた会社を辞めてしてフリーランスのエンジニアとして独立した。それはクツマが同じ会社を退職した半年後のことだった。それまでは一生サラリーマンでいるつもりだったサトウは、クツマが独立したのを見て、自分もできるかもしれないと勇気づけられたのだ。しかし、そう簡単には会社を辞めることはできなかった。サトウは上司から何度も『辞めないでほしい』と引き留められたのだ。それもそのはず、プログラム職人とあだ名を付けられるほど優秀なプログラマーだったからである。もちろんクツマもサトウには遠く及ばないにしろ、彼につぐ優秀なプログラマーだったから、そのような優秀なプログラマーが半年で二人も抜けるとなって社内で大混乱が起きたのだ。

 その後、どうにか会社を辞めさせてもらって独立したサトウだったが、なかなか仕事を取ることができず、何か月も貯金を食いつぶす日々が続いた。いくら優秀なプログラマーだったとはいえ、営業はまた別の能力なのだ。そんなとき、インターネットのビジネスマッチングサイトでタカヤナギと出会った。そこで前任者が逃げてトラブった案件のヘルプ要員として不動産管理システムの構築案件を受注したと言う。これにはクツマも驚いた。そこまでの経緯が自分と全く同じだったからだ。

「ちなみに、サトウさんの前任者って、どんな人だったですか?」

「さあ……、タカヤナギさんのお気に入りの女性エンジニアだったみたいだよ」

「まさか、キヨカワエミカさんって人じゃないですか?」

「さあ、名前まで憶えてないなあ……」

 

 あれは二年前、独立したばかりのクツマが初めてタカヤナギから仕事を紹介してもらった時のことだ。それは株の自動売買システムを作ってほしいという依頼だった。タカヤナギからの初仕事ということもあり、気持ちを高ぶらせて打ち合わせに臨んだが、受注価格の話になったときクツマは驚いた。わずか30万円でそれを作れとタカヤナギは言うのだ。300万円の間違いではないかとクツマはタカヤナギに聞き返したが、70万円で受注したから30万円しか払えないと言う。残りの40万円のうち10万円はタカヤナギの手数料で、30万円は打ち合わせに同席していたキヨカワエミカという女性エンジニアに支払ったと言うのだ。つまり、二人で協力して案件を完了してくれという依頼だったのだ。

 事の発端は、キヨカワエミカ一人ではシステムを完成できず、納期遅延を起こしたことだとタカヤナギは言う。しかし、そもそも株の自動売買のような手の込んだ複雑なシステムを70万円で受注するタカヤナギの判断ミスが元凶なのである。さらに、エミカのスキルセットは、システムエンジニアというよりもWEBデザイナーに近いものだった。つまり、タカヤナギは積算ミスだけでなく、人選ミスも犯していたのだ。とてもじゃないが彼女のスキルではこの仕事は完遂できないとクツマは判断したが、だからと言って自分が手助けしようものなら大赤字は必至である。

 この仕事は受けられない。打ち合わせが始まって10分ほどで結論を出したクツマだったが、このまま断ったらエミカはどうなってしまうのだろうかと心配でたまらなかった。聞くところによると、この仕事のために彼女は北海道の田舎から出てきたと言う。そんな健気な女性を路頭に迷わせるわけにはいかない。上京したばかりだからか、少々垢ぬけてはいないものの、清楚な出で立ちの小柄でチャーミングな女性だ。誠実な人柄だということも、その話し方でわかった。屈託のない笑顔で協力を求める彼女を前にして、なかなか断り文句が出てこず、クツマは困りに困っていた。

 クツマが困っている様子を見たタカヤナギは、仕事の話から話題をそらし、趣味の話や世間話などを始めた。クツマとエミカは同じ二十代で年齢が近いこともあって、話は盛り上がった。場が和んでくると、タカヤナギの読み通り、クツマにとって断りにくい雰囲気が徐々に醸成されていった。

 追い詰められたクツマだったが、ここで妙な男気を見せてエミカを助けようなどと試みれば、自分自信が地獄を見るのは明らかだった。ここは敢えて鬼となり、エミカには勉強だと思って修羅場を経験してもらうしかないと、クツマは断腸の思いでタカヤナギに断りを入れたのだった。エミカとタカヤナギは二人してガックリとうなだれていた。あれから二年の時が流れ、エミカは再びタカヤナギからトラブル案件を任されていたなんて、ただの不運では済まされない話だ。

 

「その前任者の女性、多分、システムが作れなくて逃げちゃったんですよ。タカヤナギさんのせいなんですけどね……」

「さあ、どうだろうね、詳しい話は聞いてないんだよ……」

「でもサトウさんも行方不明になったってタカヤナギさんに聞きましたよ……。ていうか、サトウさんともあろう人が、どうして途中で放り出して逃げたりしたんですか? ぜんぜん難しいシステムじゃないのに……」

「うん、実は僕もあの時、今のクツマくんと同じ立場だったんだ。つまり、バーチャブレイン社にスカウトされたんだよ。破格の好待遇でね。タカヤナギさんには悪いけど、チマチマと小さな案件なんかやってられないって思ったんだ。営業だって苦手だしね……」

 クツマには意外だった。なによりもプログラムが好きで、休日でさえ自宅でプログラミングばかりしているような人物が、年収二千万円とはいえカネに転ぶとは思えなかったのだ。それに、関係者はみんな困っているのだ。とくにイワタ社長の激怒っぷりは地獄の鬼を彷彿とさせた。

「ところでサトウさんは、池袋エステートのイワタ社長に会いました?」

「うん、会ったよ。最初だけね」

「イワタ社長、すごく怒ってましたよ……」

「そうなんだ……。でも、このチャンスを逃すのは一生の不覚だと思ったんだ。正直に言うけど、僕の契約金、三億なんだよ……」

 クツマはサトウの話を聞いて言葉を失った。プロスポーツ選手じゃあるまいし、プログラマーに億単位のカネを出す企業が存在するだなんて信じられなかったのだ。とはいえ、そこまでの金額を提示されれば、プログラミングしか興味のないサトウもなびくだろうとクツマは納得した。

 ところで、サトウがバーチャブレイン社に迎え入れられた時の状況は、クツマの時と少し違っていたようだ。メタバースはまだ、発展途上で、当時エースプログラマーだったモリという男が仕切っていたという。モリは、すぐにサトウの能力に気が付いて、その場で3億円の契約を提示したのだ。そして翌日からサトウは、メタバースのメインプログラムを任せられるようになった。

「クツマくんも、ちょっと頑張ればすぐに億単位のプログラマーになれるよ。それよりもエンジニアとして、こんなに素晴らしい技術に携われるチャンスなんて、もう二度とやって来ないと思ったほうがいいよ」

 たしかに報酬だけでなく革新的な技術に携われることはエンジニアにとってこの上ない魅力だ。しかし、ここでタカヤナギの案件を放り出して、バーチャブレイン社と契約することが本当に正しい選択なのか自信が持てなかった。すると、そんなクツマのためらいを察したかのようにサトウが言った。

「それよりもこの世界。すごいと思わない? 今日は自宅に帰らないで、バーチャルオフィスに滞在してみなよ。良い決断は良い環境でしたほうがいいと思うんだよ」

「えっ、でも、サービス時間は21時までって書いてましたけど……」

「大丈夫、このメタバースのメインプログラムは僕が書いてるって言ったよね。この世界のことは、いまやプロジェクトマネージャーでもある僕のさじ加減でどうにでもできちゃうから心配しなくていい。それに、このメタバース空間は、物理法則の影響を受けないから時間の進み方が現実世界よりも遅く感じるんだ。結論が出るまで、バーチャルオフィスで時間を忘れてじっくりと、ゆっくりと考えてほしいんだよ」

「わかりました……。でも、その前にこの世界はいったいどうなってるんですか? ゴーグルもなしで、まるで夢を見ているみたいですし、どうやって僕はこの映像を見てるんですか?」

「クツマくんが驚くのも無理はないし、そう来ると思ったよ。これから僕と一緒にメタバース初心者ツアーへ行ってみようか。百聞は一見に如かずというからね。いろいろ考える前に今起きてる現実を素直に味わってみたほうがいい。そうすれば、絶対にここで働きたくなるはずだからね!」

 サトウは戸惑うクツマを部屋の外へと連れ出した。そこは、窓から見えていた色とりどりの花が咲く公園の景色とは異なり、真っ白の何もない空間だった。まるで砂漠に一人放り出されたような恐怖感をクツマは覚えた。

「どう? 異様な空間だろ? でも、この真っ白な空間には何でも作ることができる。クツマくんの今欲しいものを教えてよ」

 クツマは、我ながらベタだと思いながらも「ベンツ」と答えた。サトウは「お安い御用だ」と言わんばかりに少し待つようクツマに言った。すると数秒後、クツマの目の前の真っ白い空間に、ドイツの高級車メルセデス・ベンツが現れたのだ。クツマは驚いて車のボディに触れると、プライベートオフィスのキーボードの時のように、手に金属の触感を得た。たまらずクツマはサトウにこの原理をたずねた。

「原理なんてあとでいいよ。まずは体感しよう!」

 サトウがはぐらかすと、意地の悪いクツマは、少し難しい要求をしてやろうと「ベンツに乗ってみたい」とサトウに言った。しかしサトウは、動揺することもなく車へ乗るよう促した。見た目だけの張りぼてだと思いこんでいたクツマは、訝しげにドアを開けると、車の中もまるで本物だったことに驚いた。本皮の香り漂うレザーシートは、ゆったりとしていながらもホールド感のある座り心地。ハンドルを握るとやる気がみなぎってくるのを感じた。もちろん、クツマは生まれてこの方ベンツになど乗ったことはないから本物かどうかなど見極めは付かないが、本物であると思うに十分なクオリティだった。ドアを閉めてエンジンスタートボタンを押すと、ジェントルなエンジン音と微かな振動が体に伝わってきた。そして、恐る恐るアクセルを踏むとベンツはゆっくりと動きだした。

「ここは制限速度無しだから、思う存分とばしていいよ」

 サトウがそう言うと、クツマは思い切りアクセルを踏み込んだ。すると、シートに張り付くような加速感とともに、クツマの運転するベンツは何もない真っ白な空間をあっという間に時速200キロで突き進んでいた。

「こりゃ速えーな、きっとAMG仕様だ!」

 興奮したクツマは、猛スピードで走りながら運転席のパワーウインドウを開けた。風を切る音だけでなく、顔にあたる風圧も感じることができた。アクセルを踏めば、まだスピードは上がる。しかし、どこまで行っても真っ白な同じ景色のため、徐々にスピードに慣れてきてしまったようだ。すると、突然周りの景色が高速道路の風景に変わった。

「風景のテンプレートを新東名高速道路に切り替えたよ」

 どこからともなくサトウの声が聞こえた。高速道路の景色がものすごい勢いで後ろに流れていくと、クツマは怖くなってスピードを落とした。優雅に運転しようと気持ちを切り替えると、憧れの高級車を運転している自分に酔い始めた。クツマにとってはエンジニアとして成功したら自分へのご褒美に購入しようと思っていたベンツである。それを先取りしてしまったような気がして少し複雑な気持ちにもなった。すると再びサトウの声が聞こえた。

「この様子をクツマくんのお母さんにも見てもらおうか」

「えっ、そんなことどうやって? だって、もう10年も前に死んで……」

 すると、車の助手席に、クツマが大学生の頃にガンで亡くなったはずの母の姿がフェードインして現れた。

「か、母さん?」

「ほらほら、よそ見しないで! あんまりスピード出すと危ないよ」

 あまりにもリアルだった。声だけでなく、話し方も生前の母と全く同じだったのだ。

「あ、ご、ゴメン、でも、母さん、どうしてここに?」

「そんなことより、あんたも立派になったねえ。会社に頼らず仕事を取って、こなして、そんなことできる子だったなんてねえ。あの時は無事に大学を卒業してくれるか心配だったけど、お母さん安心した。これからもいつもあんたを見守ってるよ」

 そう言って、クツマの母は助手席からフェードアウトしていった。クツマの目には少し涙が浮かんでいた。

「ちょ……、ちょっと、サトウさん、これはどういうこと? ここは仮想世界だよね? まさか、あの世とつながってるなんて……?」

 クツマがサトウに問いかけると、サトウの笑い声が聞こえてきた。

「あはは、申し訳ない。実はクツマくんのパソコンの中に、キミがお母さんを温泉旅行に連れて行った時の動画を見つけたんだ。動画を解析して、さらに一般的な母親像のデータを重ね合わせて、AIでキミのお母さんを作り出したんだ。まさか、亡くなっていたとは知らず申し訳なかったね。でも、もう少し体感してほしいことがあるんだよ」

 クツマは少しばかりサトウに振り回されている感じがした。しかし、あまりに衝撃的で興味深い体験が続くので、もうあと少しだけサトウに身を任せてみようと思うのだった。

「次のインターチェンジを下りたら、右側にログハウスがあるから車を停めて中へ入って」

 クツマがしばらく車を走らせると、サトウの言う通りインターチェンジがあった。スピードを落としてインターチェンジのETCゲートをくぐると、周りの景色が広大な畑の風景に変わった。何を栽培しているのかはわからないが、クツマが高校時代に修学旅行で訪れた北海道の景色のようにも見えた。細い高速道路の側道を大きなベンツでゆっくりと走っていると、サトウの言う通り右手にログハウスが見えてきた。クツマは車を道の脇に停めて、ログハウスの玄関ドアの前まで歩いた。ドアの周辺には表札のようなものはなく、誰の家なのかわからなかったが、とりあえずサトウの指示通り入り口のドアを開けて中へ入った。ログハウスの中は広々としており、木の香りが漂う部屋の中央には、木目の綺麗な一枚板でできた四人掛けのダイニングテーブルがあった。そして、部屋の奥の壁には薪ストーブがあり、まるで本物のような炎が上がっていた。部屋の脇には、二階へと続く階段があった。その階段を目で辿ると、開け放されたドアがあり、そこから長い髪を後ろで束ねた一人の女性が現れた。

「AI?」

 クツマが咄嗟に呟くと、サトウが笑いながら言った。

「彼女がAIに見える?」

「え、AIじゃないんですか?」

「さあ、どうかな、自分で確かめてみてごらん」

 そう言われたところで、どう確かめたらよいかわからず、見ず知らずの女性を前にしてクツマは戸惑った。クツマがログハウスの玄関先でモジモジとしていると、女性は階段を降りて、クツマの近くまでやって来た。

「はじめまして」

 女性が握手を求めると、クツマはそれに応じた。手にははっきりと女性の手の感触が伝わっていた。肌の温かさも加味すれば、それはまさに現実世界での人との触れ合いとほとんど差はなかったことにクツマは驚いた。

「さあ、こちらへどうぞ」

 女性は、クツマをダイニングテーブルの辺りまで案内し、暖炉側の椅子に座るよう右手を差し出した。クツマは女性と目を合わせることもなく、椅子に座った。

「あの、サトウさん、もうそろそろ、この世界の仕組みを教えてくれませんか?」

 いきなり女性と二人だけの空間に押し込められて緊張し出したクツマは、上から見ているであろうサトウに向かって大きな声で叫んだ。しかし、女性とのコミュニケーションを楽しめと言わんばかりにサトウは何も言わなかった。クツマは観念してテーブルの向かい側に座った女性と目を合わせた。日本人にしては目鼻立ちがしっかりとしていた。クツマの眼にはAIとは思えないほど魅力的に映った。

「クツマさん、今日はどこからいらっしゃったのですか?」

「あ、あの、じ、自宅です」

 クツマが咄嗟に答えると、女性はクスクスと笑った。おしとやかな笑い方もクツマのツボにはまった。これがAIでなく、実際に存在する女性だとしたら、恐らく、彼女こそが運命の人なのだろうとまでクツマは思った。すると女性は、クツマに飲み物をすすめた。仮想現実で水分補給や食事など不要だと思っていたクツマは戸惑ったが、「コーヒーをブラックで」と格好つけて言おうとした時だった。テーブルの上に、グラスに注がれたアップルジュースが現れたのだ。

「私、アップルジュースが大好きなんです」

「ぼ、僕も好きです、ぐ、偶然ですね!」

 そうクツマが言うと、テーブルの上にもう一つアップルジュースが現れた。女性がストローを口にすると、クツマも真似をするようにストローからアップルジュースを吸い上げた。口の中にじわっとリンゴの果汁が充満していく。相変わらず仕組みはわからないが実際に生身の体でジュースを飲んでいるかのようなリアリティに、クツマは感心するばかりだった。そして、徐々に緊張がほぐれ、いつのまにか時間を忘れて女性と楽しく会話をしていた。

「さあ、そろそろ時間だ。クツマくん、彼女がAIだと思ったかな?」

 どこからともなくサトウの声がログハウスに響いた。その声とともに女性の姿はフェードアウトして、周りの景色はバーチャルプライベートオフィスに切り替わった。

「えっ、も、もう終わりですか?」

「あはは、慌てなくて大丈夫。いつでも彼女と話すことはできるんだから。それより、お待ちかねのこの世界の仕組みの話をしようか」

 有無を言わさず彼女とのコミュニケーションを終了させられて不満顔のクツマの心情を察したのか、もっと面白い話があると言わんばかりに、サトウは意気揚々とメタバースの仕組みの種明かしを始めた。

「実はウチのメタバースでは、VRゴーグルから出力する光と音で、脳に間接的に働きかける方式を取っているんだ」

 最初に宇宙空間のような場所を高速でくぐらせるのは、視覚と聴覚で催眠状態に誘導するためだとサトウが説明すると、クツマは「なるほど」と大きく頷いて感心した。催眠状態になれば、半分は仮想世界、残りの半分は空想の世界が広がる。デジタルの仮想現実に本人の空想を加えることで、五感すべてで仮想現実を体感することができるというのだ。脳に直接電極を差し込んだり、または電磁波を送り込んで網膜に映像を映し出す技術は既にあるが、そのような方法は脳に悪影響を及ぼす可能性があるし、その映像もクリアではない。一方で、このメタバースでは、脳に直接的な刺激や悪影響を与えない。しかも、人間の空想力と脳への間接的刺激で、触覚や味覚、嗅覚までも再現できるのだから、それはもう神の領域に踏み込んだと言ってもいいだろう。この技術の特許が取れれば、三億どころかその何百倍もの対価を得られるはずだとサトウは言う。

「クツマくん、もうわかったよね? ここはキミを惹きつけて止まない魅力があると思うんだ。ぜひ一緒に働いてほしい。ここにいれば、現実世界の何倍もクオリティの高い現実を作り出すことができる。それと……、なんならログハウスの彼女ともいつでも会える」

「は、はい……、たしかに面白そうな仕事ができる予感がします……」

「よし、そうと決まればさっそく手続きをしようか!」

 サトウはクツマをバーチャブレイン社のオリエンテーションルームへと案内した。

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