自宅
翌日。私はけたたましく鳴るアラーム音と共に起床した。
スマホのロック画面を見ると〈6時30分〉と表示されている。眠気との小競り合いに何とか勝利した私は、ベッドから抜け出し、朝の支度にとりかかった。
あのボトルメールの内容が頭にちらつく。今日はあの手紙を書いた人物が家にいくと言っていた日だ。正直、今日の朝もあの手紙の事を忘れられずにいるのには理由があった。
それは、あの手紙の筆跡が私の同僚であり、友人だった人物の筆跡に酷似しているのだ。その事もあり、あの手紙の内容が私に向けて書かれた手紙であるとどうしても感じてしまう。でもそれはあり得ないはず。もう、あの子は手紙なんて書けるはずがないのだから。
私は水浴びを終えた犬の様に頭を振り、脳内からあの手紙を追い出した。
一通りの身支度を終え、朝食も食べ終えた私はいつでも出勤出来る状態になっていた。
しかし、まだ家を出るには早すぎる。15分後に家を出ようと決めた私は、時間をつぶすため、なんのきなしにテレビをつけた。
テレビでは丁度朝のワイドショーをやっていた。どうやら会社員の女性が行方不明となっている失踪事件を取り上げている様だ。
説明のために用意されたパネルには、私が良く知った顔が載っていた。その後、男性キャスターが神妙な面持ちでこう話した。
『現在、未だに
私は口角が上がって行くのを感じた。それはどんどんと大きくなり、ついには笑い声が漏れ出す。
私は昨日から何を恐れていたのだろう。そうだよ、あの子やっぱり見つかってないじゃん。
「あー馬鹿馬鹿しい。……フフッ」
もしかしてあの子を見つけた誰かが、私が海岸清掃のボランティアをしている事を知って、あの様な手紙を書いて私に拾わせようとしているのかとも考えていたのだが、どうやら考え過ぎだったようだ。
「よし、仕事いこ」
テレビを消した後、軽い足取りで私は玄関を開け、部屋の外に出た。
私は大丈夫だという安心感と、あれだけの事を誰にもばれずにやってのけたという全能感の様なものに私は満たされて行く。大丈夫。ここまで誰にも知られずに済んでいるのなら、これからも知られる事はない。
今まで感じた事がない程の晴れやかな気持ちに包まれながら、エレベーターに向かって歩を進めようとしたその時だった。
突然背後から強烈な冷気と、憎悪と殺気を煮詰めて発酵させた様な圧倒的な負の感情を感じた。その尋常ではない空気に私はその場に張り付けにされた様に動けなくなる。
直後、ひた、ひた、ひた、という足音が聞こえて来た。その足音はどんどんと近づいて来る。
ひた、ひた、ひた、……ひた、……ひた、……ひた、…………………ひた。
とまった。……わたしのうしろでとまった。
何か、尋常ではない存在が今私の後ろにいる。気づくと恐怖で全身が震えていた。
誰かに
「あ、あの……そこの男性の方! お願い! 助けて! え……? 待って、行かないで! ちょっと、助けなさいよ!」
その男性は全く私の方を見ずにそのままエレベーターに乗って行ってしまった。まるで私など最初から存在していないかの様に。
しん、とマンションの廊下が静まりかえる。廊下には今、私と私の背後にいる”人ならざる者”しかいない。私はまだ動けずにいる。
その時だった、地の底から響くような圧倒的に低い声が背後から聞こえて来た。
「ね、え、こ、み、見て……美、希」
「い、いや! 話さないで! み、み、見る訳ないでしょ! だ、誰か助けて!」
私はそう叫んだ。誰かが来てくれる事を期待しながら。しかし、今はまだ午前中だというのに、誰一人として助けには来てくれない。ここはマンションの中なのに。
すると、私の体は自分の意志とは無関係に、勝手に後ろを向き始めた。嫌だ。絶対に嫌だ! このままだと後ろにいる存在を見てしまう事になる。それだけはいけないと私の本能が訴える。だが、体は後ろを向く動作しか出来なかった。ここから逃げたいのに。
結局抵抗する事が出来ないまま、完全に後ろ向きになった私は“それ”に正面から向き合う事になった。
“それ”は明らかにこの世の存在ではなかった。
血まみれのワンピースを身にまとい、垂れ下がった髪で顔が見えない。その髪にも血がこびり付き、赤黒くなっている。女だ。この空間、この世界から明らかに浮いているその女は、どこかあの子に似た雰囲気をしていた。
「……優菜?」
今にも失神しそうな程の恐怖に必死に耐えながら、私は何とかそう言葉を発した。
優菜であろう存在は、何も答えなかった。しかし、言葉で答える代わりに顔を覆っている髪をゆっくりとかきあげた。
「…………………!!!」
髪の後ろから出てきた顔は紛れもなく優菜だった。優菜なのだが、血が通っていないのが一目で分る程の真っ青な顔色、血にまみれた顔、それと……私から向かって右目の回りの肉が落ち、頭蓋骨が露出している所。それが以前の優菜と違っていた。明らかに生きている人間ではない事を物語っていた。……まあ、それもそうか。コイツ、私が殺したんだし。
そう考えると、私の中に段々と愉快な気持ちと怒りが沸き上がって来た。少し恐怖が和らいだ私の顔に笑みが浮かぶ。醜く汚い、相手を侮蔑する様な笑みが。
コイツ、死んでまで私の前に現れやがった。私からこれ以上何を奪うつもりなのか。
「ねぇ、あんた、死んでんでしょ? そりゃそうよね、私があんたの事殺したんだもん。死んでまで私に何の用? なに? 私からこれ以上何を奪うつもり?」
優菜は変わらず地の底から聞こえる様な低い声で答えた。
「弁明、す、る、わ、た、し、は、健二、さん、う、ば、って、な、い事、つ、た、え、る」
「あと、あ、な、た、が、やった、こ、と、つ、償わ、せる」
——は? 償わせるって何? どうやって? そもそもコイツが私が付き合っていた健二さんを奪った事から全てがおかしくなった。ずっと好きで私の全てだった人。それを何? 奪ってない? 私がやった事を償わせるですって?
「奪った人間が何言ってんのよ! あんたが健二さんを私から奪ったから全てがおかしくなったんでしょ? あんたがあんな事しなければ私達は今も仲良くいられたのよ? だから……だからあんたの事を殺したのよ! 私の全てだったものを奪った。殺されて当然の事をあんたはしてんのよ! それを何? 奪ってないですって? ……ふざけんじゃないわよ!」
私は唾を飛ばしながらまくしたてる。
「それと何? 償わせるってどうやって? ねぇ? 死んだ人間に何が出来るってのよ!」
その時、場の空気が一変した。
それまで優菜が
「殺す。あなたを。私は殺された。だからあなたを殺す。それで償わせる」
突然流暢に話し始めた優菜は、そのまま私に近づいて来た。
逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ! 今逃げないと私はここで殺される。でも、体がまだ動かない。そうしている間にも優菜は私の元に近づいて来ていた。
強烈な腐臭が
今しかない。そう思った私は、全速力でエレベーターに向かって走り出した。背後を気にする余裕なんてなかった。必死に走り何とかエレベーターに乗り込む。1階のボタンを連打する。
「早く閉まれよ!」
私の気持ちを嘲笑うかの様に、エレベーターの扉はいつものペースでゆっくりと閉まっていく。その扉が閉まる直前に見えた廊下には、優菜の姿は無かった。
エレベーターが1階に向けて動き出した。ああ、逃げ切った。
安堵感から、体中の力が抜けて行く。地面にそのままへたり込みそうになる体を、わずかに残った体力を総動員して支える。まずはこのマンションから離れないと、1階についたら走り出そう。少しでも早くここから離れたかった。
でも、この後はどうすれば良いの? 今日この家に帰るのは余りにも危険。私には頼れる様な友達もいない。ビジネスホテルに泊まる?
けど、それもここから逃げ出した後に考えればいい事だ。そう考え直した私は、早く着けと思いながら、階数表示器を睨みつける。今はまだ3階。
エレベーターが2階に到達しようとする時だった。いきなり私は何かに頭をむんずと鷲掴みにされた。
「……?」
声すら出せなかった。
私の頭をつかんでいるのは手だった。とても冷たい手。そして直ぐに、先ほどまでイヤという程感じていた強烈な殺気が背後から覆いかぶさって来るのを感じた。
頭蓋骨が軋む音が聞こえて来る。頭が割れる様に痛い。
その時、ぬっと何かが私の背後から出てくるのを感じた。それは私の顔の真横で止まる。多分、優菜だ。見なくても分かる。.......私は逃げ切れなかったのだ。
顔は動かせない。私は視線だけで優菜の顔を確認した。血塗れた一部が白骨化した顔がそこにはあると思っていた。しかし、優菜の顔は綺麗な生前の顔に戻っていた。友人でありながら、私が忌み嫌っていた顔。妬ましくて仕方が無かったその綺麗な顔。優菜はなぜか優しい笑みを浮かべた。全てを肯定する様な、包容力すら感じさせる笑顔。その笑顔を見ていると、なぜか私も許された様な感覚を覚えた。
「お願い、死んで」
そう優菜が言った途端。私の視界は真っ暗になった。音も聞こえない。そのまま私は底の見えない深い、深い闇に落ちて行った。
エレベーターの到着音が鳴る。
その直後、閑静なマンションに1つの悲鳴が響き渡った。
機械的に開閉を繰り返すエレベーターの前で住人が気を失って倒れている。
そのエレベーターの内部は凄惨な状況だった。
壁、床、天井。全てに鮮血が飛び散り、天井からは血が滴り落ちていた。
エレベーターのドアの間には美希のバッグが落ちており、それが何度もドアに挟まれている。ドアが開閉するリズムに合わせて動く血塗れのバッグは、まるで大きな心臓が弱い拍動を繰り返している様に見えた。
しかし、肝心の葛城美希の死体は今も見つかっていない。
瓶詰めの返報 彩羅木蒼 @sairagi
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