第3話
〈俺〉は地下駐車場にバイクを停めて、非常階段を上りゴミと、廃人と化した人間が散乱する廊下を抜け自室のドアを開けた。
戦前は栄えていたであろう、荒んだビジネスホテルの一室を、そのままアパートにしたのが〈俺〉の居住する場所だ。
ビルの中には、人の住む場所もあれば、風俗営業を行う場所、スモールビジネスの事務所、何かの販売店などが、ひしめき合っている。
土足のまま、若い連中が手入れしているカーペットを歩き、小さな居間へ向かう。
シングルベッドのとなりにある壊れかけのソファーセット、傷だらけのローテーブルの上に、フォールディングナイフやコンバットライトなどの中身を放り投げる。
その後、シャツと上下のジャケットを脱いで、居間の一角を占領する巨大なゴミ箱に丸めて放り込んだ。同じ服が何着か、生活で出たごみと一緒に突っ込んであるのが見える。
〈俺〉はそのままトイレと一体化したユニットバスへ入り、シャワーを浴びた。既に固まった傷口から流れた血が溶けてプラスチックのバスタブの底を赤黒く染める。
――〈俺〉に、自分自身という概念を与えたのもボス。このアパートも、バイクも、そして着替えるという行為も全て『ボス』から叩き込まれた。だが、彼の方法が正しいとは思えない。暴力は暴力を生むだけなのだ。
体を拭き、クローゼットに並んだ、同じ紫色のシャツとジャケットを取り出して袖を通した。
殺風景な部屋には壊れたスタンドライトが置かれているだけで、明かりはない。
ローテーブルの上に置かれたノートPCの画面から放たれる光で、一面がほんのりと青白く照らされているだけだ。
〈俺〉は壊れかけのソファーに座るとノートPCを取り上げ、ログイン。スマートフォンで見ていたのと同じ掲示板『DQNギーク集まれ』を開いた。
メッセージ数は既に八百を超えていたが、例の人物はすぐに見つかった。
『名無しさん:アンタ達みたいなスクキじゃ無理でしょ』
『名無しさん:スクキがスクキ呼ばわり』
『名無しさん:引きこもりの四十路キモオタ女が妄想中』
今日もこのスレッドは盛り上がってるようだ。いつもBMF556は、騒ぎを引き起こす。その騒ぎとは、大抵は知識がない連中の煽りと呼ばれる発言だが。
『名無しさん:はぁ? スクキの意味わかってんの? 検知される程度の手段しか使えないからスクキなんでしょ?』
スクキ、とはスクリプトキディの略で、他人が編み出した攻撃手法やダークウェブなどでダウンロードしたマルウェアを使用する低レベルの連中で、ハッカー達からは軽蔑の対象になっている者達だ。
『名無しさん:ソースも示せない時点で厨房』
『名無しさ:ソースも自分で考えられない時点で、アンタがスクキ』
ここにもまた、言葉の『暴力』が『暴力』を生み出している。
〈俺〉は過去のメッセージに素早く目を通すと、指を素早く動かした。
『名無しさん:ホストの承認をクリアしていなくとも、SQLインジェクションでロガーか何かを入れて偵察。パスワードを盗むというのはどうだ?』
頻繁な書き込みが一時的に止む。やや遅れてBMF556からの返信。
『名無しさん:アタシだったらロガーは使わない。通信ログが特徴的だから検知される。てか、そういうこと言わない』
『名無しさん:検知システムをオーバーフローさせる為に、ローカルネット内のPCをボット化……』
『名無しさん:偽の通信ログを流して、偽変……って、そういうこと言わない!』
さらに追加でメッセージを書き込む。
『名無しさん:それか、ハブをプロミスキャスモードに変更し盗聴』
『名無しさん:今どきバカハブ使ってるトコないよ。L2領域のARPかえちゃうかな~って、そういうこというなや!』
饒舌に話をしているBMF556。〈俺〉は更にメッセージを書き込んだ。
『名無しさん:楽しんでもらえたか? 例の件が聞きたい』
ややあってBMF556からの回答。
『名無しさん:例の件って、なんでそんなに聞きたがるのよ。アンタ変だよ』
――確かに異常だ。人造強化兵のAIをハッキングできるかという質問は一般的ではない。
『名無しさん:できるとは言ったけどね、それ犯罪よ? それを言えばあたしも捕まるの。その意味、わかる? そろそろフロリダWWW』
『名無しさん:今夜も出ましたあの質問』
『名無しさん:890ダークウェブの人?』
無意味なメッセージが、スレッドの残数を消費していく。
時計を見れば、数分で翌日だ。掲示板のIDは今日を跨ぐとリセットされ、識別ができなくなる。再び、広大な掲示板上でBMF556を捜索し、特定しなければならなくなる。
ふと、PCの明かりに照らされた欠片が目に入った。
女性従業員からもらったペンダント。
あの時の言葉、『負け犬に前に進む勇気をくれるらしいよ』
――前に進む勇気、か。
〈俺〉は、PCの青白い光に、血で汚れたペンダントをかざして刻まれた文字を読み取り、メッセージを書き込んだ。
『名無しさん:ST・JUDAって何だ?』
早速、BMF556からのレスポンス。まだ風呂には入っていないらしい。
『名無しさん:それは、聖ユダ。敗北者の守護神』
『名無しさん:聖ユダが今日、家に来た。どういう意味だ?』
面白おかしくはやし立てる書き込みに遅れて、BMF556が返信する。
『名無しさん:敗北者の守護神だから、もう一度挑戦するときに守護してもらえるんじゃない? もうフロリダWWW』
――守護してもらえる、か。
気が付けば残りスレッドは九百を超え。日付変更まで残り一分だ。
本当のことを言うのは、リスクが高い。ネット上の監視者に見つかった場合、〈俺〉を取り巻く状況が激変する可能性がある。だが……。
『名無しさん:人間の脳に接続されたクローズ系のAIにハッキングし、カーネルを経由して人間の脳にアクセスできるか? アンタの腕じゃ無理か?』
『名無しさん:中年引きこもり対決中WWW』
煽りが次々に入り、書き込みの残りが十を切る。
BMF556からの返信はない。俺は素早くメッセージを書き込んだ。
『名無しさん:アンタはユダを信じるのか? それともただのスクリプトキディか?』
『名無しさん:は? スクキとかマジうけ。クローズ系だったら楽勝っしょ。あの方法使えば、人造兵士のAIだって、アンタの脳だって、秒で入ってやるわ。ホントにフロリダ!』
BMF556からのレスポンス。
〈俺〉は、あの方法とはなんだ、と打ち込もうとして手を止めた。
ローディングされる猫のアスキーアート。その後に表示されるメッセージ。
『このスレッドは千を超えています』
〈俺〉は静かに掲示板を開いているウィンドウを閉じた。
――『あんたの脳にだって、秒で入ってやるわ』
本当だろうか。もし本当であるなら、ようやく、希望というものが見えてきた。
今まで様々な文献を読み漁り、不確かなネット上の情報を漁り続けてきても見つからなかった情報だ。確実に入手しなければならない。
〈俺〉はスマートフォン用のアプリケーション作成ソフトを立ち上げ、キーボードをたたき始めた。
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学園に終業を知らせるチャイムが鳴り響く。
藤堂朱莉はため息をつきながら、タブレット端末を片付け始めると、さらりと、ツインテールに結んだ金髪が、水色の半袖シャツから流れ落ちた。
神泉南校が朱莉の通学する学校。周囲からは制服の可愛さだけで定員割れを防いでいる学校と呼ばれている。そんな学校の、今日の終限の授業はプログラミング。
なんでも対話型AIの自己紹介部分を作るらしかった。
「マジだる~」「意味わかんなよね。教科書通り打ち込むだけっしょ~」
周囲から聞こえる言葉は、授業へに対する興味の程度とレベルの低さだった。
――プログラム言語覚えなきゃ、応用も何もないっしょ。だから教科書通りに打ち込むのに……。
朱莉はため息をついた。
国策で始まったプログラム教育は、以前のものと違って、理論的思考を鍛えるといった程度のものではなく、プログラマーとしての基礎技術を身に着けさせるものだ。
今の世界、単純労働の殆どはAIに取って変わられてしまっている。単純なプログラミングさえAIの業務領域に入りつつある。残っているのは、自ら考え、自ら自己進化するような、文字通り人間としての領域だけだ。
よって、高度なプログラミングができなければ、まともな仕事なんかほとんどない。
「ねぇねぇ、今日どこ行く?」「駅前に新しいお店で来たらしいよ~」
けれども、周りの子たちは、そんなことどこ吹く風だ。
「でもさ、課題、どうする?」「誰かのやつ、コピーすれば~?」
――コピーする程のやつかね? こんなん五秒で終わるでしょ……。
朱莉はあきれて内心ため息をつく。
大体、自分でやらなきゃ、いつまでたっても出来るようにならないよ。
「ねぇねぇ、朱莉! アンタ、できたりしない?」
「え?」
朱莉は言葉に詰まった。話を振られると思っていなかったのだ。朱莉なら五秒は大げさだが、十分と立たずできるそれ。だが……。
「え、うん。私、プログラム苦手なんだよねぇ~。明日まで完成させる自身ないよぉ~」
「はい終了~」「やっぱねぇ~」「さ、いこいこ!」
呆れた声を上げる女子の集団が朱莉から離れていく。
「……」
普通の生徒なら疎外感を感じるシチュエーションだが、朱莉は慣れっこになっていた。
――私の方がおかしいのかな。
朱莉はまるで、解像度の低いVR空間に自分がいるような気がした。はたまた、自分がVRなのか。
朱莉はインターネット空間を思い浮かべて思った。学園だけじゃない。街中が、世界で起きている色々なことから隔離されているように感じる。
ネットの世界には色々な情報があふれている。この国では紛争が絶えなくて、人が死んでいる。景気も悪くて苦しんでいる人があふれている。
でも、ここの人達はそんなこと、一辺たりとも気にかけていない。
――どっちがリアルなんだろうな。
朱莉はそう思うと、昨日の掲示板のやり取りを思い出した。
――昨日の夜、あの板のアイツ、楽しい奴だったな。あいつもVRなのかな。
そう思うと、朱莉は少しだけ寂しく感じた。リアルなつながりが一つもないなんて寂しすぎる。
「あっかりー!」
甲高い声が、朱莉の静かな思索の時間を奪い去った。
黒髪のさらさらしたロングヘア、薄化粧が決まっていて、モデル並みの容姿の女が声をかけてきた。朱莉はうんざりした気持ちで顔を向ける。
「どしたー? 疲れた感じ出してるけど、昨日の夜なんかしてたの? 彼氏もいないのにぃ?」
名前は確か、本村とかなんとか。インスタのフォロワーは三千を超、容姿完璧、対人関係も完璧。学業も完璧なクラスのカースト上位の女だ。そして朱莉のライフライン。
「朱莉が疲れてたら。気分あがんないじゃん!」
「これから、朱莉の為に彼氏つくろうって時にさ!」
取り巻きの女どもが面白おかしくはやし立ててきた。
――正直、彼氏なんかいらないんだけど。
だけれども、このグループの中では彼氏がいないと、話が追い付かない。追いつかなければ追い出されてしまう。また、昔のように一人ぼっちになってしまう。
それだけは避けたい。
「ご、ごめんね! いま準備するよ!」
朱莉は慌てて取り繕い、スクールバックに教科書やタブレットを仕舞った。
「ホント、朱莉ってどんくさいよね」
「そんなんだと、貢いでもらえないよ~」
チッと心の中で舌打ちする。買いたいもんがあれば自分で買えや。
「そ、そだね~」
だが、口から出るのは別の言葉。朱莉は、ほとほと自分が情けなくなった。
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