負けヒーローを勝たせる方法

本月花

幕は上がる

第1話 最推しがフラれた




思い返せば、昔から私が好きになるキャラの恋はいつも成就しなかった。決して当て馬属性が好きなわけではない。ただ、作品を通じて推しができ、その恋を応援する度に、なぜかそのキャラが毎回フラれてしまうのだ。

……そう、だから今も。ずっと好きだった最推しがフラれたことだって、決して望んでなんかいなかった。持ったままのスマホへ再び視線を落とすが、事実は変わらない。やはり、数分前に受けたショックは現実だったようだ。



『ごめんなさい……私、』

『……分かってます』


涙を浮かべながら真っ直ぐ自分を見つめるアイリスに、ノクスは苦笑いしながら手を伸ばしかけ――それを止めた。彼女の涙を拭うのは自分の役目ではない。最後にできることは一つだけだ。


『行ってください。――兄さんの所へ』



その一言に耐えきれず、遂に私は叫んだ。声が出た瞬間、静まり返った深夜のオフィスに甲高い悲鳴が響き渡る。


「やだやだ!お願いだから考え直してアイリス!いや、作者様!!」


だけどそんな私の願いも虚しく、ヒロインはヒーローの元へと走り去っていく。そんな場面で、今日の話は終わった。いつの間にか視界がぼやけ、瞬きをしなくても涙が止まることなく溢れ出してくる。


いつもそうだった。大事なくせに、好きなくせに、最後には誰かに譲ってしまう。そんな推しを見る度に、もどかしさや悔しさが込み上げてきて、でもそんなところもやっぱり好きで。ページを閉じてコメント欄を開くと、案の定、阿鼻叫喚の嵐が広がっていた。



- 何でアイリスは一人しかいないんですか!?辛い……涙が止まりません。

- ifでノクスルートをください、お願いします。

- ショックすぎてもう立ち直れない。ノクスは私がもらいます。

- 正直、ノクスの可能性は薄そうだなと予感はしてましたがやっぱり(^^;)報われてほしかったので残念です。



ショックを受ける人、推しの幸せを願う人、ifルートを望む人。どのコメントにも共感しながら「いいね」を押していく。中には「ガッカリした」「散々期待させておいて結局」といった失望を示すコメントもあった。わざわざコメントを残すつもりはないけど、正直、私もその気持ちは理解できた。


大抵の恋愛小説や漫画では、表紙や物語の流れからヒーローが誰なのかが最初から分かりやすい傾向にある。

しかし、この作品では「ヒーローはまだ決まっていません」と作者が最初に明言していて、さらに様々なキャラとフラグが立っていたため、皆が自分の推しがヒロインに選ばれることを期待していた。


……だから一人、また一人と脱落者が出る度に、そのキャラを推している人たちの悲鳴が一層凄まじかったのだけど。

いっそのこと、乙女ゲームのように全員のルートがあれば良かった。そうすれば皆が幸せになれたのに。残念ながら、現実は残酷だ。


「なんだか疲れたな……」


意図せずため息が口から零れた。少し冷静になったからだろうか、疲労感がどっと押し寄せてきて椅子の背もたれに寄りかかる。

涙が乾いたせいで顔が突っ張っていて、鏡を見なくても今の自分の顔がとても酷いだろうということは分かった。


まぁ、どうせもう帰るだけだしいいか。

時計を確認すると、すでに深夜を越えていて、終電間近だった。こんな時間まで会社に残っている人もいないだろうし、仮にいたとしても会う確率は低いはずだ。

今から帰るのはとてつもなく面倒だが、会社で一晩過ごすのはもっと嫌なので、私は重い腰を上げた。

そして画面を閉じる前に、コメントを残すかどうか少し悩み、結局一言だけ投稿した。



- ノクスが幸せでありますように。



会社を出ると冷たい風が頬を掠め、私は空を見上げた。今の気分とは正反対の、涼しい夜だった。




***




推しが失恋した日から一週間。世界が滅びるわけでも、会社が爆発するわけでもなく、変わらない日常が続いていく。

だけど、あんなに大好きで毎日のように読み返していた小説は、あの日から閉じたままで止まっている。開けばどうしても色んなことを思い出して苦しくなるからだ。

ヒロインに想いを寄せていたキャラが脱落する度に、一緒に脱落する読者を時々見かけたけど、今ならその気持ちが理解できる。


その先は読まないのではなく、読めないのだと。


ここまで追ってきたのだから結末まで見届けたいが、続きを読むためには私ももう少しだけ心を整理する時間が必要だった。

そして、推しがフラれたことで生じた副作用がもう一つある。仕事がこれまで以上に苦痛に感じるようになってしまったのだ。


私が愛読していた『光の公女様と運命の恋』は小説だけでなく、コミカライズ、アニメ化、グッズ化と、幅広く展開されている人気作品だった。そのためお金を使うことも多く、すぐにでも辞めたいと思う仕事も、推しを思えば頑張れた。

けれど、推しがフラれてしまった今、好きな気持ちに変わりはないけど、正直見るのが辛い。朝起きて壁のポスターと目が合う度、机に飾った推しのぬいぐるみを眺める度に、毎回心が痛んで気持ちは沈む。


頑張る意味を見失ったということだ。


朝早くの地獄の通勤と、夜中までの残業。上司には理不尽に怒られ、嫌味を言われる毎日。ギリギリで耐えてきた天秤がついに傾き、崩れていく感覚がする。もう心が限界だった。……だからといって、決して死にたいと思っていたわけではないことは弁解しておきたい。電車に乗るために駅の階段を下っていた、その時だった。


――ドンッ


すれ違った人とぶつかり、身体の重心がずれる。それはほんの一瞬の出来事で。反射的に手すりへ腕を伸ばしたけど、届くことなく空を切った。


あ、やばい。

そう思った時には、すでに身体は下へと落下していた。「死ぬのかな」とか「どうせならさっさと仕事を辞めれば良かった」とか「小説も最後まで読めなかったな」とか、色んな思考が頭をよぎって。



最後に、ノクスの顔が浮かんだ。

そんなに悪くない最期だった。




***




「――様……――リア様……アリア様!」


誰かの声に起こされ重い瞼を上げると、やけに眩しい光が差し込んでいて、私は目を細めた。まるで夢の中にいるようだ。まさかここが地獄なわけではないだろうし……じゃあ天国?



あれからどのくらい寝ていたのか。ぼんやりと見える風景から察するに、どうやら私は室内にいるようだった。天国には初めて来たけど、思っていたよりも現実に近いらしい。私を起こした人が、にっこりと笑いながら言った。


「おはようございます、アリア様。今日はオルレアン家の方々がいらっしゃる日ですよ」

「??」


言っている意味が分からず、首を傾げる。寝起きという点を除いても、疑問が多すぎた。


「……あの、ここは天国ですか?」


メイド服を着ている理由も気になるが、とりあえず一番の疑問を先に口にする。私の質問に対して、メイドさんは目をぱちくりと瞬かせてから、再び笑って答えた。


「もしかして寝ぼけていらっしゃるのですか?ここは寝る前と変わらず――ルペリオンですよ」

「……え?」



瞬間、私は自分の耳を疑った。

あまりにも良く知っている場所だったから。



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