マッチングアプリを始めようとする先輩とそれを阻止したい後輩

うたた寝

第1話


 事件である。いっそ大事件である。

 きっかけは先日あった会社の飲み会でのこと。

 いつも通りコッソリ先輩の横の席を確保していた私なのだが、課の中で既婚者の割合が増えてきたからか、ひょんなことから先輩の恋愛事情の話になった。中々私からは直接聞きづらい話題だったので、これだけであれば渡りに船だった。

 先輩は今年で30歳。現在独身。恋人も不在。ということで、結婚を考えるのであれば、そろそろ動き出さなければいけない時期に入ってきていた。既に結婚を決めた人や恋人が居て結婚を視野に入れ始めている人たちからすれば、余計なお世話の一つでも焼きたくなるのだろう。

 そんな中、上司の野郎が余計な一言を言ったのである。

『マッチングアプリでも始めてみれば?』

 と。あり得ない。絶対にあり得ない。こんなに可愛い女の子(自称)が横に座っているというのに何だってそんな得体の知れないマッチングアプリなど始めようというのか。

 いや、まぁ、上司に悪気が無いのは分かっている。本人がマッチングアプリで結婚相手を見つけたくらいだから、純粋におすすめとして勧めているのだろう。悪気が無く善意なのは分かるが、余計な一言に変わりは無い。

 そしてもっとあり得ないのが、

『マッチングアプリかー。俺も始めてみた方がいいんですかねー?』

 先輩が意外と乗り気だということである。いや、だから、横見ろってば。こんな可愛い子(自称)が横に座っているじゃないですか、と。そりゃあ謙遜してブスだデブだって自虐することはありますけど、本音を言うと私そんなに顔も体型も悪くないと思うんですよ。

 何とか阻止したいのだが、あんまり露骨に反対してもあれだ。だって私女の子だもん。あんまり露骨に反応して気持ちに気付かれでもしたら恥ずかしいもん。ということで、

『マッチングアプリってでも安全なんですかね?』

 それっぽい一般的な意見で敬遠しておこうと思ったのだが、

『今時の子らしくない意見だなー』

 上司に笑われた。このクソジジイ。その残り少ない寿命をここで使い果たしてやろうか?

『最近の結婚のきっかけの一位はマッチングアプリなんだよ?』

 上司がマウントを取って来る。そんなの百も承知だクソジジイ。知ってるから今阻止しようとしてるんだ。

『社内婚に抵抗のある人も増えているみたいだしねー。ほら、別れた後とか気まずいっしょ。合コンも開く人とコネクション無いとキツイし。そうなってくるとやっぱりマッチングアプリがお手軽ってことにはなってくるんだよねー』

 ホント余計なことしか言わないなこのジジイ。カバンにコッソリ私の下着突っ込んで持って帰らせて奥さんとの修羅場にでもしてやろうか? あるいは泥酔でもさせて私と抱き合っている写真でも奥さんに送り付けてやろうか。

『で、でもほら? 女性は無料だったりしますけど、男性はお金掛かったりもするじゃないですか……』

 始めたことはないが、以前気になってちょっと調べたら大体どこもそんな感じだった。何故女性だけ無料? と思わんでもないが、無料にして女性の会員数を増やさないと多分マッチングアプリが成立しないのだろうな、と思った。

 女性は無料、男性は有料という理不尽さを感じさせて敬遠させたかったのだが、

『独身貴族だし金いっぱいあるべ?』

『いっぱいは無いですが……』

 上司の言葉に先輩は軽めに否定する。それほど物欲も無い先輩だ。奥さんや子供が居ないこともあって、貯金額は課の中でトップじゃないかとも噂されている。よっぽど高級会員向けのマッチングアプリでもない限り、月額など余裕で払えるだろう。

 だから、払える、払えないではなく、男性だけ払わされる理不尽さに付け入りたかったのだが、

『それに一回合コン行くのと大体トントンだしね。月額それで色んな人を探せるならむしろお得とも言えよう』

 むしろ安いという表現を上司がしてきた。このちくしょうめ。無駄に婚活経験が豊富なだけあってマッチングアプリのメリットを的確に拾ってくる。

『直接会うのって結構ハードル高いじゃん? けどマッチングアプリならチャットとかからでも話始められるわけ。何ならプロフィールだけ見てみるとかもできるしね。そこで趣味が合いそうな人を見つけることもできるだろうし。趣味が合いそうならチャット。チャットでも気が合いそうなら直接会ってみる。直接会って話も合いそうなら二回、三回と会っていく、っていう風に段々とステップアップしていけばいいしね』

 う、うぐぐ……っ。

『まぁ中にはさくらや変な人も居たりするけど、月額料金の高さは大体治安の良さに比例すると思っていいよ。無料とかだと誰でも登録できちゃう分、変な人も多かったりする。身分証の提示求めてくることに抵抗あるかもしれないけど、逆に言うと身分証提示しているから身元が分かっていて変なことがしづらい、ってことでもあるしね』

 こっちの反論を先んじて潰してきやがった……。おのれ……。

『まぁ、どこまでマッチングアプリで真剣に探すかは任せるけど、一年くらい試しにやってみてもいいんじゃない? 何なら一年間分くらいなら出してやろうか?』

『マジっすか?』

 ちくしょう……。トライアル期間まで設けてきた……。ここまで来ると始めるな、なんて言い出すのは至難の業になってくる。

 私が苦虫を嚙み潰したような顔でビールを飲んでいたのが視界に入ったらしい上司は、

『何? マッチングアプリに嫌な思い出でもあるの? さっきから凄い否定的じゃん?』

 上司としては単純に疑問に思って聞いただけなのだろうが、この質問にはドキリとさせられた。だって私が先輩にマッチングアプリを始めてほしくない理由など分かりきっている。それをこの場で言うと? なんて鬼畜なジジイである。

 みんなの視線が私の方に向く。

『そ、それは……』

『それは?』

 みんなの問いかけに私は……、



 あそこで、私が先輩を好きだからです、とでも言えていれば、何か変わっていたのだろうか?

 そんな初心な言葉は言えず、『先輩が変な人に騙されないか不安なだけですっ!』と言ってしまった。結果、『お母さんかよ』とみんなに笑われてしまった。確かにお母さんみたいなことを言ってしまった。私の母は出会い系サイトとマッチングアプリの違いがよく分かっていないらしいし。

 先輩がスマホを弄っている姿を見る度に、マッチングアプリで誰かと連絡取っているのかな、気が重たくなる。仕事のやる気が萎えに萎え、さっき上司になんか指示されたような気がするがすっかり忘れてしまった。まぁ、そんな些末なことはどうだっていい。

「へー」

 スマホを見つめながら何やら嬉しそうな顔で相槌を打っている。何だろう? 先輩の顔を見てこんな感情抱くの初めてであるが、今非常に気分が悪い。危うく手元にあるキーボードを真っ二つにへし折るところだった。

「おーい。さっきも伝えたんだけどそろそろ会議の資料を……、」

「うっせーな! 後にしろっ!!」

「………………はい」

 ん? 私今誰に怒鳴った? まぁいいか。

 先輩がニコニコ顔で席に座る。むむむっ。何だ? マッチングアプリが上手くいっているのか?

「デートかぁ……」

 は?

 は?

 はぁっ!?

「でででデートって何ですかぁっ!?」

 思わず叫んだ。そんなに広くない事務所だ。声が響き渡り会社中の人間が私を見ているが気にしない。そんなことより気になることがある。

「え、えっと……?」

「たかだが数回チャットしただけでもうデートですかっ! 何てふしだらなっ! 認めませんっ! お母さん認めませんからねっ!!」

「あー……、えぇっと……、ママ、一回落ち着こうか」

 先輩が私の肩を触ってどうどうと宥めてから、

「キミにもチャット行ってるでしょ?」

「チャット?」

「今日デートだから休みますってチャット」

 …………何の話だ? よく分からないことを言う人である。

 とりあえず言われた通り会社のチャットを見てみると、確かに全体周知用のチャットで、そんな寝ぼけたことを言っている輩が居た。何て不愉快だ。無意識にブロックしてしまった。

 ん? 私今誰をブロックした? まぁいいや。

「後、ママ。僕はマッチングアプリ始めてないよ」

「へっ!?」

 一瞬言われた意味を理解できなかったが、やがて理解できた時に、私はさぞ嬉しそうな顔をしていたのだろう。先輩が楽しそうに口元を押さえて笑っている。

 いかんいかん、と。私は頬を数回叩いて顔の緩みを戻……す努力をしてから(戻ったとは言っていない)、

「何でマッチングアプリ始めなかったんですか?」

 私が聞くと先輩は面白そうに、

「さて、どうしてでしょう?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マッチングアプリを始めようとする先輩とそれを阻止したい後輩 うたた寝 @utatanenap

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ