第35話 異世界ナマコ
『おい、まじでエルマは何を送ったんだよ! おばあちゃんの反応がおかしいぞ』
『――@マスター:えっとぉ、マスターの記憶にあった〝風呂上がりロゼちゃん〟を――』
『やめぃ! 無言の男が光線出すわ、孫娘のあられもない姿を見せつけるとか最悪だろ』
「無言……? さっきから何を言って……?」
セシリーは困惑するしかない。
デンパはセシリーの呟きも聞こえず、逃げるモードに思考が移行。
『コマンド、にげる』
『こっちが黙っててもぐいぐい話しかけてくる感じもロゼに似てるよなぁ』
『ロゼのところに帰る』
『……いちおう――』
デンパは小さく息を吸い、
「ロゼは無事……す」
ロゼの無事をセシリーに伝える。
不法侵入者からの言葉、とてもじゃないが信用できるものではない。
ただ、セシリーにはデンパの心の声が聞こえている。
(この男は嘘を言っていない気がします)
嘘つきというよりはバカ正直な侵入者であるとセシリーは断じた。
『ロゼのこと心配してそうだからつい言ってしまった……』
『逃げる逃げる逃げる』
『ロゼが起きたらなんと説明したらいいか……』
セシリーに色々とバレる前に、三十六計逃げるにしかず。
今なら姿かたち、声も容姿もバレていない……はず。
しかし、心配するセシリーを無視して帰るほどデンパの心は強くなかった。
思わずポロリする言葉。
小さな呟き。
大きな心音。
「……夢ではないようですが」
静かに閉じられる扉を見てセシリーはゆっくりと体を確かめる。
手を開いて閉じる、ベッドから立ち上がり一歩、二歩。
重いカーテンを横に寄せて、窓を開け放つ。
窓の外は月に照らされた町並みの影だけが広がっている。
冷たい夜風が顔を打つ。
「どうやら本当にボケていたようです」
医師の指導で人を遠ざけ、窓を開くことも許されず。
ゆっくりと死を待つだけの時間を過ごしていた。
自分が病に臥せっていた間に、孫娘が危ない目に遭っていた。
すぐに人に騙されてしまう貴族には向かない純真な孫。
(素性の分からない男と一緒にいるようですが……今は味方と思うしかない、ですね)
いくらセシリー陣営に人が少ないといえど、公爵家である。
屋敷の内外には、この時間帯も働いている者がいるのだ。
その者らに一切気づかれることなく、自分の部屋に気配なく入ってきた。
黙ったままであれば、自分は殺されていたかもしれない。
「少なくとも敵意はありませんでした。……ロゼはもちろん探しますが、まずはこの屋敷を立て直すことにしましょう」
ロゼが見つかったときに気持ちよく迎え入れられるように。
そのとき会えるかもしれない独り言の多い男にお礼を伝えるためにも。
セシリーは閉めた窓の外をじっと見据えるのだった。
◆
カタンと窓が鳴り、少し間が空いてドサッと何かが倒れ込む音とともに、ロゼの寝るベッドが揺れた。
「……ん」
ロゼが薄く目を開けるが、部屋はまだ暗いまま。
雨だれのような音が耳を打つ。
音がする方はデンパのいる窓際だ。
雨が降っているのかもしれないが、もしもデンパが目覚めていて、目が合ってしまったらと思うと恥ずかしい。
「う、う~ん。むにゃむにゃ、ゴロリん」
寝言にしては大きめの声と出しつつ寝返り、薄目で隣のベッドの様子を窺う。
月明かりの下、窓には水滴のあとはない。
したたる音は隣のベッドから聞こえてくるがよく見えない。
デンパの気配もしない。
(……あれ? デンパ様も隠密状態なのかな。……そう、だよね、こんなのに寝顔を見せたくない、よ。うん)
そもそも自分だって顔が分からないように隠密効果マックスで寝ているのだ。
デンパが寝顔を隠していてもおかしくはない。
『――ねえロゼ、起きた? 良かったら水を入れる用のタライとタオル持ってきてほしいんだけどぉ――』
デンパの体は見えないが、その上に置かれたスマホから音声が発せられた。
スマホの画面は天井に向かっているため、足元は暗く見えにくい。
さらっと呼び捨てにしているのは、エルマに普段の余裕がないからだろう。
「あ、はい。おはようございますエルマ様。あの、デンパ様はそちらで寝ているのですか?」
『――うん、そうだよぉ。ちょっと頑張りすぎてねぇ、端的に言うと死にそう――』
デンパの右手がベッドから少しはみ出し、指先から床に血がポタポタと滴っている。
「ええっ! す、すぐにタライとお水持ってきます!」
『――水は収納くんから出すからぁ、タライとタオルをよろしくねぇ――』
慌てて部屋を飛び出すロゼに水は要らないと……聞こえていないようだ。
端的に言い過ぎだが、実際デンパは生死の境目で迷子になっている。
霧に包まれた世界のなかで、黒く巨大な狼犬に追いかけ回されているのかもしれない。
『――マスター、そっちに行っちゃだめだよぉ。……あの子の連絡取るの面倒だしぃ――』
急激な運動により、全身の筋肉繊維が激しく損傷している。
特に屋根から屋根への移動や公爵邸正門での壁歩き、ドアにぶつかる寸前の背面宙返りによるアクロバットな衝撃を全て受け止めていた足の骨は疲労骨折の極みとなり、ふくらはぎや太ももの血管も破れて毛穴から血がしたたっている。
『――満身創痍。いったい誰がマスターをこんな姿にぃ!――』
犯人はマスター。そして犯行を可能にしたのはエルマだ。
デンパの動きは常人には出来ないものだった。
それはもう筋肉だって悲鳴どころか断末魔を上げることになる。
デンパの心の声が静かなのは、完全に意識不明の重体だからである。
『――磁力付与して、血流も止めないように体中に電波と一緒に流して……ああ、もうなんで人ってこんなに脆いのさ――』
とても面倒くさそうに画面のなかで、エルマは頭を抱える。
「あのっおまたせしました!」
ロゼがタライとタオルを持って戻ってきた。
途中で何があったのか、胸元から下がびしゃびしゃである。
『――水はいらないって言ったんだけど……。いいや、えとロゼはマスターの体を拭いてあげて――』
「か、体を……です?」
隠密効果で姿は見えない、心の声も聴こえないがベッドの上に横たわるデンパに恐るおそる近づく。
(あ、近くだと血の臭いが……デンパ様に身になにが?)
ロゼの心には不安しかない。
『――まずは袖のボタンで隠密効果を下げて、服を脱がしてほしいんだよぉ――』
周波数や磁力付与の際に、コートの留め具に使われている金属があると調整が難しいらしい。
ついでに身体中が血だらけなので、体を拭いてもらいたいという意図もある。
「ボタン……えと?」
ロゼがデンパの体に手を当てる。
気配すら分からないが手の感触はある。
「袖のボタン、手を探します」
自分なんかが触っていいのか? 自問自答をしたいところだが、スマホの画面を覗くと中ではエルマが必死で何かをやっている。
髪は白黒、顔には継ぎ接ぎのされた色の違う皮膚。
黒いマントでバサバサしながら、本を読んでいる。
エルマは形から入るのだ。
(……邪魔しちゃ悪いし、自分で見つけないと)
これは足? じゃあもう少しこっち? ロゼが少しずつ足元から上半身へとたどっていく。
「ここ?」
ボタンに手が当たるが、自分のローブのような
目的のボタンはどこだろうかと、さらに手を生地の下に入れてボタンを探す。
(デンパ様、熱があるのかもしれません。布なのか肌なのか……。これは手首にしては細……あれ大きく?)
あたたかい。異世界ナマコ。
そういえばデンパは痩せていたと、そのまま推定手首の近くの生地に手を当てていく。
分からないときはエルマに訊けばいいのだが、ロゼにとっては初めての行いである。
入社したての新人が忙しそうな先輩に、『気を使いすぎて声をかけられず』の構図が異世界で完成した。
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