第25話 欲求5段階説
◆
エルマの一喝で、二人ともそそくさと荷物を持ち部屋を出た。
スマホの時間は14時12分。
二人が部屋に入ってから約2時間。
ずいぶんとお楽しみでしたね、とからかわれても仕方ない時間だった。
「おや、あんたらまだいたのかい。ずいぶんとゆっくりしてたんだね」
食堂の前を通るとき、女将が木皿やフォークを片付けながら二人に声をかけた。
「あ、ども……」
「わっ! すごい量です。お客さん、多いんですね……!」
長机の端に集められた食器の山。
マナーの悪い客が多かったのか、飛んだ汁が椅子にかかって色が変わっている。
机の下には何本かのフォークと、木皿や黒パンの食べかすが落ちている。
「はん、あいつらが客なもんかね。好きなだけ食い散らかして、騒いではしゃいで……たく」
仕方ない奴らだよと言う女将の表情は優しげだ。
「えっへへ。お母さんはね、エイギルくん達のごはんも準備してるんだよ」
子どもサイズの前かけをつけたリーファがキッチンから顔を出す。
奥からはカチャカチャと食器を洗う音が聞こえる。
「……エイギルさん?」
『ふーん、リーファちゃんのカレ……ピィッ!?』
ロゼにつられ、デンパが余計なことを言おうとした瞬間、背すじに悪寒が走る。
「……なんか言ったかい?」
「ナ、ナニモイッテマセンヨー」
デンパの額から頬を伝わる冷たい汗。
女将のドスのきいた声で、本当にお腹にドスを突き刺された気分になった。
「はいはい~おっかたっづけ~♪ はいはい~おっかたっづけ~♪」
鼻歌まじりで、リーファが積み上がった木皿を器用に両手で持ち上げ、バランスを取りながらキッチンへと戻っていった。
奥から期限の良さそうなリーファの鼻歌が、食器を洗う音と一緒に流れてきた。
「……エイギルっていうのはね、この辺りの孤児のまとめ役さ。あの子らも無級冒険者として必死なのさ」
サントーノの北東側にもっとも近い壁の付近に沿って建てられた小屋。
そこで孤児たちは明日を生きるために、冒険者として街中の清掃活動や、壁に開いた小さな隙間を猫のように体を捻ってすり抜けて、壁の外側に群生しているスコシナオリ草やエアップルの実、エンドゥピースなどの豆類を採取して暮らしている。
森に近い場所は、いつどこで魔物に襲われるか分からない。
しかし未成年の町中での稼ぎはしれている。
自分の身を売る子ども、悪どい大人に唆されて裏の世界に入る子ども、田舎の町であっても暗い部分は多い。
だからこそ、エイギルは危険を承知でサントーノの森林側の壁の向こうで活動するのだ。
一人でも多くの自分と同じ境遇の子どもらを食い物にされないために。
『ずいぶんとしっかりしてるんだな。この世界の子ども達は……』
平和な世界にいたデンパには実感が湧かない。
前の世界で、心理学者アブラハム・マズローが提唱した人間の欲求の階層を5つに分類して説明する理論〝欲求5段階説〟のなかで、自分たちはどの段階だろうか。
レベル1:生理的欲求……人間としての生命維持。食物や水、睡眠、性的欲求など本能的な段階。
レベル2:安全欲求……安全な住環境、雇用の安定、経済的な安定、身体的な健康を求める段階。
レベル3:社会的欲求……人間関係や所属意識、愛や友情などを重視し、社会的なつながりや交流を求める段階。
レベル4:尊重欲求……他者からの評価や尊敬、自尊心の向上、自己評価や自己成就、成功を求める段階。
レベル5:自己実現欲求……自己の可能性の追求や成長、個人的な目標の達成を求め、自己満足感や充実感を得ることを求める段階。
この世界では、人の欲求段階は王族や貴族でもなければ、総じてレベル2や3の段階であり、ロゼのように貴族だった者やレベル4や5の意識が当たり前だったデンパには少々理解できないものがある。
「エイギルくんたちが持ってきてくれるお野菜のおかげで、リーファもお腹いっぱいになるの」
「うちの旦那が食材持ってくれば
思わず旦那の悪口に飛び火したが、女将も渋々したがっている様子はなく、むしろ肝っ玉母ちゃんぶりを発揮しているように見えた。
女将やリーファとの出会いによって、エイギルたちはレベル2に近いレベル1となっている。
「だからってわけじゃないんだけど、あんたら冒険者や商人がわざわざこんなところに泊まろうってんだ。しっかりと稼がせてもらわないとね」
デンパやロゼの見た目は、見た目だけは大変立派な冒険者だ。
まだ服に
「あんたらは見たところワケアリだろ? どういう
女将はさきほど追い出した二人組がぼやいていた不満を思い出し、眉をひそめた。
「さっきの二人も昨晩やってきてね。一泊銀貨1枚って伝えたら、不満そうな顔をしてたよ。そのあとは町中を夜通しで人探ししてたとかで、ぜんぜん帰ってきやしない」
誰かを探しているのがなぜ分かったかといえば、女将も人相書きを見せられたからだ。
肩まで伸びたぼさぼさ頭、下がり眉にたれ目。
丸顔でだらしない体付きの少女。
当然そんな娘に見覚えはないと女将は答えた。
「そんで帰ってきたら、朝食を食いそこねたからその分の銅貨を返せって言うじゃないか。ふざけんじゃないよっと断ったら騒ぎ出してさ。エイギルたちが来る前に追い出してやったんだ」
せいせいした鼻を鳴らす女将。
完全先払い。
苦情は受け付けません。文句があるなら物理的にお帰りいただきます。
それがヨーヴィスの眠り亭のやり方だ。
『なるほど。たしかに俺たちはあまり目立ちたくないし、拠点もない、だが――』
「お金、ないけど……」
「……えへへ」
デンパもロゼもエルマお手製の装備で見た目だけはお金があるように見える。
はりぼてのお金持ちだ。
『ギルドの宿泊施設が懐かしい……』
一泊しか過ごしていないが、デンパの怪光線で綺麗にしたばかり。
中庭をはさんですぐのところに職場がある立地条件で、銅貨3枚がいかに破格だったかを今さらながらに気づく。
「私が前もって予約することに気づいていたら……」
それは世間知らずとはいえ、デンパはもちろんロゼも反省すべき点だ。
「朝会ったときに、イソップが教えてくれれば――」
納品係のイソップにそれを求めるのは酷である。
「あっ! お母さん、リーファね、お客さんたちがリーファの叔父さんの紹介だって言ってなかった!」
いっけなーい、テヘペロリン。
イソップという言葉を聞いて思い出した。
リーファは舌を小さく出したあと、こつりと自分の頭を軽く叩いた。
「まあ! そうなのかい。……もお、困った子だねぇ。――それじゃお客さん方、あんたらはイソップの紹介なのかい?」
女将はそんなリーファに目を細めた。
ぜんぜん困っていない表情である。
「……えっと、だよなロゼ」
「は、はいそうです」
「なんだい、それを早く言っておくれよ」
綺麗に責任が転嫁された。
ちなみに〝転嫁〟とは元々再婚を意味する言葉で、嫁がせるという意味の〝嫁〟をよその家、実家に
「あ、ごめんなさい」
責任という名の嫁を押しつけられたロゼはすぐに謝ってしまう。
「あっ、やだよ。冗談さね、そんなにしょげられると私が悪いみたいになるだろう」
「……ごめんなさい」
冗談のつもりで言った女将と、真に受けたうえにトラウマを発動させるロゼの相性は悪そうだ。
ロゼの肩が小さく震えている。
「ええっと! 俺たちの宿代って安くなるん、すか?」
「なんだい、やっと会話に入って来たと思ったら、ずいぶんと声が大きいね。んーそうだねえ、さっきもらったお金はもう食材に消えちまったし、明日もうちに泊まる気があるんなら1人銅貨5枚ってとこでどうだい?」
朝晩の食事で銅貨2枚、宿泊費はギルドの施設利用料と同じく銅貨3枚。
「じゃあ、それでお願いします。い、いいよなロゼ?」
「あ、はい……デンパ様にお任せします」
どちらも主導権を持たないパーティである。
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