第2話 痛いの痛いの憎いあんちきしょうに飛んでいけぇ!
さて、無自覚ながらにアーマーベアから少女の危機を救った男――
ニックネームはデンパ。
ニックネームの〝ニック〟の由来はギリシャ神話に登場する勝利の女神ニケという説を推している男だ。
ファンタジー系のラノベを読みすぎて、現実と妄想の狭間で生きる電波系の彼のことを、周囲の人はそう呼んでいる。
「……え?」と一言発したまま、少なめの容量しかない
『あれ、熊? 急に動かなくなって、プスプスって音立てながら湯気出てるけど、俺なんかやっちゃった感じ? ……とりあえずスマホで状況を検索! ってまさかのアプデ中?』
スマホの画面はくるくるとアプデ中の文字が踊っている。
『じゃなくて! この女の子、どうなったよ? へいへい生きてりゅー? 人の夢の中で勝手にスプラッタな見た目はやめてもらえますかー? ……うーん? 熊は死んでるだろうし……もうちょっと近づいてみよう』
「熊でっかっ! いやコッチもっとデッッッカい!!」
動かない積載量オーバーの軽トラサイズの巨大熊、そして木の根にもたれかかっている何かがオーバーサイズの少女。
「し、死んでるー!? ……いや息はしてるっぽいか、良かった。夢…………それにしてもお嬢さん、なかなかのモノをお持ちですなぁ。むふふん、そんなところで寝てたらイタズラされちゃうよ。これは見事な……夢! ですよなぁ。――――おっぱい揉んどこう、うむ!」
うむ、ではない。
夢の中ならナニをやっても捕まらないと思いつつ、少女の顔を窺いながら、ゆっくりと慎重に指を伸ばしていく。揉むといいつつ、指でいくのがヘタレなクオリティー。
――…………触れるかどうかのところで、指が動かない。
『おい! 夢なんだから動けよ! あと少し、あと少しなんだよ。頼むよ、俺の指! 動けよ、俺の指!!』
今やらなきゃ誰かが死んじゃう、そんなのはもうイヤなんだよのテンションで、指先に力を入れるデンパだったが、身体に染み付いたヘタレがそれを許さない。
「……んん。えっ!?」
少女の前で屈み、指先を胸元に留めた姿勢のまま葛藤すること約1時間。少女が目覚めるには充分な時間があった。
「……えっ!?」
『あ、目が開いた……』
交差する視線。しかし少女の目線が一瞬だけ下に向き、デンパの伸ばした指先を確認すると、再び交差するときには瞳の奥に警戒の二文字が浮かんでいた。
『やば! やばばばばばばばば!!』
デンパの眼球大運動会が始まる! 脳内パニック。
自業自得とはいえ、まずはコンマ一秒で指を引いてそのまま土下座スタイルに移行する。
ザザザザザザザザッと顔面を地面にキッスした姿勢のまま、器用につま先だけを動かして後退、撤退、逃げの一手。
膝が擦れて生地が薄くなっても気にしない、それどころじゃあない。
童貞特有のコミュ障を持つデンパは、すみませんでしたぁ! の言葉さえ詰まる。
『オワタおわたおわたオワたおワたオワたオワタよオタワ、そうだオタワに行こう……』『すみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみません……』
デンパの思考が目まぐるしく変わる。脳内高速回転、時間にして一秒もない。
『夢であれ夢であれ夢であれ……』
夢ではない。
「あの……大丈夫ですか?」
少女は、自ら顔面を地面につけたまま後退したデンパの行為を純粋な気持ちで心配した。
『だだだ大丈夫!? お前、頭大丈夫か? はい、そうですごめんなさい、夢ならいいかと胸を触ろうとするぐらいには頭がおかしいんですぅ! 俺はゴミ野郎なんですぅ!!』『夢にしてはリアル。いやだ認めない、こんなことが俺たちのリアルだなんて!』
まずは卑下と謝罪、現実逃避。そして状況整理に思考が移る。
『だって俺はさっきまで信号待ちの間に、変なフード被った人から新興宗教の勧誘されてたはず。断っても話しかけてくるから、信号変わったダッシュかまそうと心の準備してたんだよ! それで逃げようと、一歩踏み出したら異世界とか……そんな心の準備、してませんからぁあああ!?』
残念ッ!! デンパは混乱している。すぐさま少女への回答はできない。
「ええぇ? あのもう少しゆっくり言葉を……」
『いきなり森で? 熊に女の子襲われてるし? なんか目から出たと思ったら熊が死んでるし? もしかして俺のおかげなのかなー? って、だったら先に身体で報酬をもらっちゃえーなんて……思ってましたぁああああ!! はい、ごめんなさい、すみません、許してください、まだ触ってないけど、勝手な妄想
「……え! まさかアーマーベアを……。あの! 貴方が私を助けてくれたんですか?」
かろうじて少女はデンパから発する電波から、死の淵にいた自分の恩人であることを
「…………えっ? あ、はぃ。す、すんません……僕がやりました」
ついにデンパは罪を認めた。何もやっていないが。
「あの! 顔を上げてください」
「……はい」
もはやここまでかと観念したデンパは、被害者である少女の指示に従い、ゆっくりと顔を上げる。
内心と違って表情筋はほぼ動いていないが、顔面擦りむきの結果、高くも低くもない鼻頭は赤く滲んでいた。
地味に治りが遅く、
「っ! やっぱり怪我してるじゃないですか!」
少女は、ささっとデンパに駆けより衣服についた土を払い落とし、鞄から水入れ袋と布きれを取り出した。
「濡らしますね。――どうぞ」
水で湿らせた布切れをデンパに差し出した。その仕草は、片膝をついて、白いハンカチーフをレディに差し出す紳士のようにデンパには見えていた。
『い、イケメンや』
「いけ? あ、あの、これ……良かったら」
なかなか布きれを受け取ってくれないデンパの態度に、少女はもしかしたらどこかの貴族かもしれないと思い始める。
真っ白なシャツは古着を使い倒す町中では絶対に見かけない。
真っ黒で艷やかな黒髪は長く、前は目元まで後ろは首元まで伸びていて、どことなく清潔な香りが漂っている――実際は石鹸の香りなのだが。
どこか視線の定まらない瞳はさておき、平民特有の仕事でついた汚れも見当たらない。
(もしこの人が貴族だったら……。こんな汚い布きれなんて不敬よね。……待って! 土を払うためとはいえ、汚い手で服をいっぱい触ってしまった!! ああ! もう、私のばかばか! このままではお祖母様にも迷惑が……)
一難去ってまた一難。この貴族が命の恩人ならば自分は何を対価にしたら良いのか。
何一つ上手くいかないと、少女の瞳には涙が溜まる。
『え、じっくりと見定めて、あらためて泣くの!? あれか、イケメンだったらワンチャン許す予定だったのに、こんなブサイクにおっぱい触られそうになったから……「あたい、汚れちゃった……」みたいな!? いや触ってないから許して?』
「……うう」
なんとなくデンパの思っている事は違うのだと、少女は首を横に振った。そして、どうか受け取ってくださいと、両手で布きれを恭しく差し出した。
『あれ、これはもしや……。この子は俺の服についた汚れを落としてくれて、ハンカチ? で顔を拭けと?』
何かしら確認されたと少女は理解し、こくんと頷いた。
「おおおお、お借りしますぅ。……って、鼻が痛ぇええ!」
身内以外の女の子から、生まれて初めてハンカチを渡されたデンパ。
嬉しさ百倍、匂いもくんかくんかするつもりで、思いっきり鼻先に布きれを擦りつけてしまった。それは痛いの二重奏。
『ぐぁー! ひりひりするぅ。痛いの痛いの憎いあんちきしょうに飛んでいけぇ!』
顔をしかめながらデンパが念じると、鼻先が薄く発光したあと、痛みどころか擦り傷まで消えていた。
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