第5話
軽い口調の言葉がボクの背中にかけられる。その声はどこか聞き心地が良かった。
「やぁ、はるちゃん。どうしてここへ?」
ボクは振りかえりながら、声をかけてきた人物にたずねる。目の前にはベージュのマフラーにブラックのロングコートを着た女性が立っていた。髪がマフラーの中に隠れている。下ろせば肩の少し下まであるキレイな髪だ。手にはブラックのハンドバッグを持っていた。いつも持っているものより少し大きめのように感じる。
「律希が帰ってこないから、探してたんだよん。どこにもいないからもしかしてここかなって思ってねん」
「すごいね、はるちゃん! よくわかったね」
「愛の賜物かしらん」
はるちゃんが答えながら、片目をつむってくる。
「なんなのよ! この女!」
「そうかもね」
ボクははるちゃんの方へと向きなおり、手を差し出す。それを見てはるちゃんはニッコリと微笑みながら、ボクの手をとる。ボクは夜景が見られるように誘導し、先にベンチに腰かける。はるちゃんはその誘導に従い、ボクの
「どきなさいよ! 私たちの邪魔しないで!」
「それで? ここで何してたのん?」
はるちゃんが体をよせ、耳元でささやくようにたずねてくる。その声と吐息、それにはるちゃんからはなたれる香気が、ぼくの頭をぼんやりさせてくる。誰かがいることで、ここにいても少し暖かく感じる。
「なんていえばいいのかな。昔のことを思い出していたんだ」
「昔ぃん?」
「そ、昔のこと。今までのことを全部思い出していた」
ふぅん、といいながらはるちゃんがボクをみてくる。大きな瞳がじっとボクを見つめる。何もかもを見透かしているようにも思えるようなその瞳。吸い込まれてしまいそうになってしまう。
「だったら、今までの恋愛遍歴っていうのも思い出していたのん?」
一瞬、はるちゃんの目が鋭いものになった気がした。だけど、それは勘違いだったようで、さっきまでと同じ吸い込まれそうな瞳のままでいた。
「そうだね。ボクはそんなに彼女がいたことはないから、それほど思い出すことはなかったかな」
「えっ? そうなの? だったらさっきの話って……」
「そうなんだぁん。だったら、あたしの前は誰だったのん?」
「前も何も私が今の彼女よ! 何この泥棒猫?」
はるちゃんにきかれ、ボクは月をみる。月の船の先に雲はない。順風満帆という言葉が思い浮かぶ。ボクとはるちゃんの間は安泰ということを暗示しているんじゃないだろうか。だけど、なんだろう。さっきから耳に雑音のようなものが届いている。
「はるちゃんの前に付き合っていた人とは、結婚の約束をしていたんだ」
「そうよ! 結婚するのよ! 私たちは!」
ボクは小さく息を吐きだす。気づかれないようにしたから、ただ一拍置いただけに見えたと思う。
「お腹にボクの子どももいてさ」
「ふ、ふぅん。子ども、ねぇ、ん……」
「そうよ、この子よ!」
「だけど、さ……」
言いよどむボク。それをみたはるちゃんはボクの顔をのぞき込んでくる。
「大丈夫ん?」
「……大丈夫。ありがとう、はるちゃん」
思い出すだけで、辛い。今もそこにいるんじゃないかと思ってしまう。もう何年も前のことなのに……。
「お腹の子は順調に育っていたんだ。医者からも問題ないって聞いていたし。予定日が近づいてきた時、ボクたちはお茶をしていた。その時、突然、彼女はお腹が痛いと言いだしたんだ。ボクは慌てたよ。どうすればいいのかわからなくなって、座り込んでしまった彼女の足元に血と水が混じった液体が広がっていったんだ。今ならわかる。救急車を呼べばいい。だけど、その時のボクはそんなこともわからなかった。彼女が、消え入りそうな声で救急車といった時も、手には携帯電話があるのになぜか正しく押せないんだ。何度も何度も押して、つながったのが警察だった。その場で助けて、と叫んだことは覚えてる」
ボクはそこまで一気に話した。そんなボクをはるちゃんは優しくなぐさめるようにして、抱きしめ、背中をなでてくれた。
それでも覚えてる。カップが床に落下して割れた音と彼女の苦しむ声が重なっていたのを……。
「警察の人に、彼女が彼女が、っていったら、聞き出してくれたよ。すごいねああいう電話対応の人って。出血してること、動けなくなっていることを伝えたら、警察から救急に連絡してくれてさ。事件性はないだろうけれど、警察もむかいますって言ってくれて、さ」
ボクははるちゃんに抱きしめられながら話す。目から涙が溢れてくるのがわかった。だけど、今のボクにはそれをぬぐう術はなかった。
おえつ混じりに続ける。
「き、来てくれた救急隊の、ッグス、人とけ、警察の人が、さ、落ち着いてっていいながら、ううっ、ぼ、ボクを支えてくれたんだ。か、彼女は、さ、すごいスピードで担架みたいな、のにのせられて、グスッ、声をかけたら、わ、笑ったんだ。声も出てないのに、だ、大丈夫っていうんだ、よ。そのまま、救急車に乗せられ、った。ボク、も一緒にのって、いったけど、た、ただ、泣きじゃくってい、た」
「大丈夫ん。大丈夫だよん」
はるちゃんがずっとなぐさめてくれる。ボクは続けた。
「びょ、病院につい、て、す、すぐに、手術し、しつに、入ったんだ。ど、どれだけ、経ったか、わ、わからない。気づけば、手術室の、と、とびらが、開いたんだよ。な、中から、人がでて、きて、さ。ボクのほうを、みたんだぁぁぁぁ」
ボクは言葉を続けられなくなった。ただただ、泣くことしかできなかった。
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