第2話
「えっ? なに? どうしたの突然?」
彼女が会話の意味をとらえられず、しどろもどろになってきいてくる。
ボクは彼女のほうは見ずに続ける。
「いつ頃だったかな。小学生ぐらいだったかな。あの時は、大人そのものにあこがれていたよ。自分で好きなことをして、好きなものを食べて、好きなものを買って。大人ってすごいんだなって思ってた。だけど、今になって思うよ。別にそんなことはないんだなって」
「いったい何の話をしているの?」
「そういえば、あの頃よく遊んでくれてたお姉さんは今どうしているかな?」
「えっ?」
彼女のすっとんきょうな声がボクの耳に届く。ボクはそのまま続ける。
「小学校の高学年ぐらいのときによく遊んでくれていた年上の女の人がいたんだ。その女の人の家にいって、お菓子をもらったっけ。その人は頭がよくて、宿題も見てくれたっけな。宿題をした後には、いろんなことをして遊んでいたっけな」
ボクはその時のことをゆっくりと思い出していた。キレイに掃除が行き届いた家。甘く優しい香りに包まれたリビングに案内され、そのテーブルで宿題をしながら、お菓子をたべ、ジュースを飲んでいた。楽しい時間だった。その家にいた女の人は髪が長くて、それにすごくキレイで。しかも、すごく頭がいいように感じていた。小学生の問題だったから当然だったのかもしれないけれど、その当時のボクからすれば、そう感じたのは当たり前のものだった。
「お菓子は確か手作りだったかな。ホットケーキやクッキー。おしるこなんてこともあったかな。いつも用意してあって、本当に嬉しかった」
「その女の人は家にお邪魔することを嫌がっていなかったの?」
「家に行くことを断られたことはあまりなかったかな。時々あった気はするけれど……。お菓子を食べた後はいつもふわふわとした気持ちになっていたっけ。気づいたらいつもタオルケットをかけてもらっていたかな。ごめんなさい、って謝った時にはきまって、いいのよ、っていって笑いかけてくれた」
そういえば、毎回お菓子を食べた後はそんな感じだった。自分の母親が用意したものを食べた時はそんなことはなかったのに。
「お菓子を食べて寝ていたなんて、まるで子どもね」
「その時は、子どもみたいなもんだよ。小学校の高学年なんてそんなもんさ」
ボクはなぜか上から目線でそう話していた。彼女がボクをみている。
「そ、そういえば、さ。その家には女の子がいたかな。確か同い年の子だったけれど、学校は違ったんだよね」
自分がいった言葉に恥ずかしくなって、視線をそらしながらいう。
「それっておかしくない? その家には女の子がいて、同い年くらいなのになんで家にいなかったの?」
「彼女は習い事に行っていたみたいで、さ。ボクが帰ったあとくらいにいつも帰ってきていたみたいなんだ。ボクが帰っていたのが五時すぎで、女の子が帰ってくるのが五時半とかだったらしいから、ほとんど一緒にいることはなかったよ」
しどろもどろになって話している自分がいる。そんなことを気にする必要はないはずなのにだ。
「変な話よね。その女の子とは学校も違うのに、そのお母さんと会うなんて。いくら宿題見てもらってたからって、おかしくない?」
「それに、実際そんなに長い期間続いたわけじゃなかったし」
眼下に見える光がゆっくりと動き始める。そのゆっくりとした動きは、染み出した水が流れ出したようにもみえた。
「どういうこと?」
「一年くらい経った頃に、突然、いなくなっちゃったんだ。家に行ってみたら、たいてい空いているはずの玄関の門が閉まってた。開け方は教えてもらってたから、開けて玄関ドアのところまで行ったんだけど、今度はそのドアが開かなかった」
「呼び鈴は?」
「呼び鈴を押しても、家の中から音はならなかったかな。窓から中をのぞきこんだら、カーテンはかかっていなかったし、いつも勉強していたテーブルも寝ちゃってたソファもなくなってた。本当いなくなったってかんじだったんだよな」
あの時は無人になった家を外から見ていた記憶がある。甘い香りも、美味しいお菓子も、柔らかなタオルケットもすべてなくなっていた。もしかしたら、夢だったのかもしれないと考えたこともある。大切な時間が突然消えてしまって、ぽっかりと心の真ん中に穴が空いてしまったような感覚におちいったのを今でも覚えている。
「もしかしたら、あの頃の出来事は夢だったのかな……」
「……都合のいいことなんてないのよ」
「……」
沈黙がおりる。言葉が聞こえなくなり、ボク自身も夜景の中でスポットライトを浴びるようにして立っている桜の樹をみる。
桜の樹の近くが街を上下に分けるように真っ黒になっているのは、あそこに大きな川があるからだ。流れる川の両岸は増水しても大丈夫なように整備され、一部は公園としての機能も備えている。よく見れば、ぽつぽつと本当に小さな光が動いているのがわかる。おそらく、川沿いをランニングしていたり、犬の散歩をしていたりする人たちがいるのだろう。
「……なっちゃん……。元気にしてるかなぁ」
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