見返り

三鹿ショート

見返り

 私は、困っている人間を見かけると、即座に手を差し伸べていた。

 人々は笑みを浮かべながら私に感謝の言葉を述べるが、私もまた、同様に良い気分と化すわけではなかった。

 そもそも、私は善良な人間ではない。

 困っている人間を助ける理由は、いずれ私が同じような状況に陥った際に、見返りとして私に手を差し伸べてくれるだろうと期待していたためだった。

 ゆえに、私は心の底から他者を案じていたわけではない。

 打算的な、醜い人間である。

 だが、人々は私の思考などに気付くことも無く、私に頭を下げている。

 私は相手の顔を覚え、自身が窮地に陥ったときには力を貸してもらおうと決めていた。

 しかし、その思考が透けて見えていたのか、私が助け出した人々が私に手を差し伸べてくれることはなかった。

 私が会社を首になったとき、同情はしてくれたものの、次なる就職先を斡旋してくれることはなかった。

 借金で首が回らなくなったとき、同情はしてくれたものの、生活費を援助してくれることはなかった。

 私は、人々に対して怒りを覚えた。

 私に救われたにも関わらず、その見返りとして私を助けようとしないとは、何と薄情な人間ばかりだろうか。

 怒りを露わにしたところで、人々が離れるだけだということは理解していたため、私は己の正直な想いを伝えることはなかった。


***


 歩廊に立ち、線路を眺める。

 どうにもならなくなった私には、もはや自身の生命活動を終える他ない。

 私の様子から何をしようとしているのかを察したのか、他の客たちは私を見て何かを囁き合っている。

 私を心配しているように見えて、実際のところは、私が線路に飛び込んだ影響で電車が遅延することを気にしているに違いない。

 薄情な人間ばかりが蔓延るこの世界には、何も期待してはならないのだろう。

 電車が近付いてくる音が聞こえてきたため、私は大きく息を吐くと、線路に向かって一歩を踏み出そうとした。

 だが、その瞬間、私に声をかけてくる人間が現われた。

 思わず足を止めて声の主を見やると、その女性は笑顔を浮かべているが、その手や脚が震えている。

 己の言葉一つで私の未来が決まってしまうことを恐れているのだろうか。

 彼女がどのようなことを考えているのかは不明だが、彼女に声をかけられたことによって、線路に飛び込もうとした思いが一瞬にして霧散してしまった。

 追い詰められているときにかけられる声が、これほどまでに強いものとは、想像していなかった。

 私は踏み出そうとした足を引っ込め、近くの長椅子に移動した。

 私が腰を下ろすと、彼女はその隣に座った。

 私が思いとどまったことに安堵したのか、先ほどのような身体の震えは止まり、彼女は口元を緩めながら、

「話だけでも、聞きましょうか」

 その優しい声色を耳にすると、私の双眸から涙が流れ始めた。

 無意識のうちに流れ出たことを考えると、私は自分が思っているよりも追い詰められていたのかもしれない。


***


 彼女は退屈を示すこともなく、私の話を聞き続けた。

 私は彼女に話をしながら、私がこれまで手を差し伸べた人間の中に彼女が存在していたかどうかを考えていた。

 しかし、私が救った人間の中に、彼女は存在していなかった。

 つまり、彼女は縁もゆかりも無い私に、手を差し伸べたということになる。

 私のように、将来の見返りを求めている人間なのではないかと疑ったが、先ほどの身体の震えや、嫌な顔をすることなく私の話を聞いていることなどから、彼女が善良な人間であることを悟った。

 彼女は、誰もが見習うべき素晴らしい人間である。

 私は自分が恥ずかしくなり、同時に、他者は彼女を見本にして生きるべきだと確信した。


***


 彼女は知り合いに私のことを紹介し、新たな就職先を斡旋してくれた。

 あの歩廊で私は人生を諦めていたが、其処から引っ張り上げてくれた彼女に報いるためにも、やり直すことを決めた。

 借金を返済するために汗水を流すこと数年、ようやく問題が解決した頃には、彼女に子どもが誕生していた。

 ゆえに、今後は、彼女とその家族のために生きようと決めた。

 目的が存在する人生というものは、良いものである。


***


 あるとき、私は街中で彼女の夫が彼女ではない女性と腕を組んでいる姿を目撃した。

 彼女の夫は私の存在に気が付くと、慌てた様子で私の手を引きながら近くの物陰へ移動し、頭を下げた。

「このことは、黙っていてほしいのです」

 彼女の夫が語るところによると、善良なる人間である彼女の隣を歩くことに疲れてしまったらしい。

 彼女を前にすると、自分がどれだけ心が狭く、情けない人間なのかを思い知ってしまうようだった。

 だからこそ、彼女の夫は、他の女性に逃げたということだった。

 彼女の夫の気持ちは、理解することができる。

 確かに彼女は誰もが見本にするべき人間であるが、それゆえに、彼女を見ることによって、己の矮小さを知ってしまうのである。

 だからといって、彼女を裏切って良い理由にはならない。

 私は彼女の夫の頼みを断り、彼女に夫の裏切りを伝えた。

 彼女は夫を愛していたのだろう、その裏切りを耳にすると、頭を抱えて叫びだした。

 大声を出しながら家の中を駆け回り、手当たり次第に物を投げていく。

 これまで見たことがないその様子に、私は選択を誤ったことを悟った。

 親切にしてくれた見返りにと伝えたつもりだったが、それは間違っていたのだ。

 それから彼女は塞ぎ込むようになり、彼女の夫は家に戻ることがなくなった。

 子どもは私が面倒をみているが、弱っていく母親を心配する姿から、目をそらしたくなる。

 このような状況に陥るのならば、あのとき、私は素直に線路に飛び込むべきだった。

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見返り 三鹿ショート @mijikashort

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