タケオ①
その人は静かに笑っていた。
高校2年の春に親の仕事の都合で引っ越してきた俺は田舎の生活に飽き飽きしていた。何もない。どこまで行っても何もない。それなのに両親はこの土地を気に入っていて中古の家まで購入してしまったのだ。
同級生も、ご近所さんも、訛が強くて何を言っているのか分からない。普通に話をしただけで気取った言葉だと笑われる。こちらが向こうの言葉に合わせる必要なんてない。俺は早々に打ち解けることを諦めた。
この土地の梅雨は長く毎日毎日雨ばかり降る。毎日鉛色の空を眺めながらこんな場所に来る原因になった父さんをとにかく恨んでいた。一日中降る大粒の雨は屋根をバシバシと強く叩いてそのうち天井に穴を開けて家の中に入ってくるのではないかとさえ思った。
そんな鉛色の空に包まれた色のない世界が明るく色付いたのは長かった梅雨の明けた日の事だった。学校からの帰り道はとにかく蒸し暑く、湿度をめいいっぱい含んだ重い空気が全身にまとわりついて息ができない。なぜ不満しかないこんな場所で暮らさなければいけないのか。ようやく自宅が見えてきた時、斜向かいの家の庭に人が立っているのが見えた。道路に背を向けて立つ彼女はじっと足元を見つめているようだった。その後ろ姿が妙に鮮やかに見え、不思議と呼吸が楽になった。
翌日も彼女は同じ場所に立ち、同じように足元を見つめているようだった。
「何見てるんですか」
自分で自分の声に驚いた。彼女も振り返って驚いた顔でこちらを見ると少し考え込んで困ったような顔をして小さな声で
「アリ」
と短く答えた。驚かせてしまった。困った顔をさせてしまった。当たり前だ。見ず知らずの人間に突然声をかけられたのだ。そもそもなんで声をかけてしまったのか。話しかけるつもりなんて全然なかったのに。
「あの、俺、春に…そこに越してきて…昨日も何か見てるみたいだったから、気になって…」
まとまらないまま言い訳にならない言い訳をする。正面を見ることができず左右の靴の爪先を交互に眺める。右側の汚れが気になる。
「あ、やっぱり。初めましてだね。昨日も見られてたんだ。」
彼女の声に顔を上げると少し照れたような笑顔で見つめ返された。
「アリが行列作ってて。昨日も同じところに行列作ってたからなんか見入っちゃって。ほら。」
そう言って、彼女はまた足元を見つめた。俺は彼女の傍らまで行って一緒になって彼女の視線の先に目をやった。無数の黒い点が行ったり来たりしている。確かに見入ってしまう。よく見るとアリたちは全身が真っ黒というわけでなく飴色の頭と体で尻が黒っぽい焦茶色をしていた。
小学生の頃にアリの行列がどこまで続いているかを確かめたくて、公園で見つけては辿っていたことがあったけれど、行列は公園の外の他人の家の庭まで伸びていて辿れなかったことを思い出した。
アリの行列から彼女の横顔に視線を移す。彼女はじっとアリたちの行き来を見つめている。今日も蒸し暑くて湿気がすごく流れる汗が止まらないのに、呼吸が楽でアリの色が一色でないことに気がつくほど色が溢れていることにその時気がついた。
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