第2話 審議がいるアイデア

 気がつけば片手に小銭とお札を握りしめて、エレベーターホールの前に、私は立っていた。前には車椅子の妻がいた。急いで小銭とお札をポケットに入れ込むと、彼女を両手で支えた。

 中に入ると地下三階フロアのボタンを押していた。地上二階の病棟廊下は無視していた。

 地下三階に着くと、下るスロープに気をつけて、彼女の車椅子を引きながら押して行った。

「ね、ホスピス棟には行かないの?」とあやめが言う。

「うん。いいアイデアがあるんだ、任せて」と私は答えたが、それはアイデアではない、儀式なのだが。


 車に二人で乗ると、一気に自宅に向かった。

 家に着き、ひと段落する頃には、妻のあやめは険しい表情になっていた。彼女を床に布団敷いて寝かせつけると、時間をかけて浴衣に着替えさせた。少し水を飲ませると、表情の辛さが少し取れていた。

 それぞれ異なる信仰をする夫婦だったので、こう余命が妻に近付いた時、冷静に慄然と行動が出来るものではなかった。

 私は浴衣を着せるのに息が上がり、暫し水をすすりながら妻を見ていた。もう何でこんなに早く、妻は天に召さねばならないのか?運命ならあまりに可哀想だ。


 私は随分と冷静になって来たので、異なる宗教を我が宗教に受け入れる儀式に取り掛かる事にし、それをあやめに説明した。

 計量カップに水を注ぎ、それを鍋に入れて沸騰させ、少し冷まして、また計量カップに入れて、たらいに氷水をはり、カップをたらいにつけ、湯を冷ます事にした。彼女の体温と同じになるのを目指して。

 何回かカップの温度を確かめたら、人肌の温度に水はなっていた。

 薄闇照らす蛍光灯の下、あやめの浴衣の帯を解いて、浴衣を右、左へと広げた。下着は着せてなく、両腕を広げ、両足も広げた。

 そこに計量カップに入った水を大の字に横たわる妻の白い額に垂らし、首、右腕、左腕と垂らした。胴体は多めに流し、残りの水は両足にかけた。

 その後あやめの身体に、ガーゼ生地のタオルを水を含ませた各部所にかけてあげた。

 全身に聖水をかけていると信じて、身体に染み込むのを確認すると、洗礼の儀式はひと段落した。

 浴衣を着込んだ姿に戻すと、妻はまた苦しそうな表情を浮かべた。布に氷水を入れて、彼女の顔に当てがってあげた。

 あやめが召される時期は分からないが、教団に今の状況を伝える事は出来ると思い、受話器を取り連絡を入れて待った。

 折り返してかかって来るのに十分程。待っている間は不安と緊張で落ち着かなかった。

 教団事務の女性信者が対応に回り、あやめと別れる手順を聞いた。先ず、側にいてあげて彼女の脈が止まる事を確認する事だった。

 それ以降の事を聞いたが、それはそれで先に考えようと思った。

 再び彼女の側に寄り添って、手首の脈が打っているか確認した。妻はまだ生きていた。

 そうしている妻の呼吸は穏やかだった。今度は自分の喉が渇いてきたので、妻の側を離れて水道の蛇口をひねり、手酌でごくごくと水を満足行くまで飲んだ。

 その時、あやめから呻き声が聞こえて来た。急いで蛇口を閉め、彼女の側に急いだ。

 意識は遠のきつつあった。

「父と母のお墓に入れるの?」と戦慄する様な事を小声で口走るあやめだった。

「違うんだ。君は今、儀式を終えて、私の宗派に入ったばかりなんだよ。だから、別の宗教のお母さんとお父さんのお墓には私が毎年お参りに行く」汗を拭う私。

「そうなの?それなら。私は春人と父と母とずっと一緒なんだから」妻は笑顔で囁く様に呟いた。

 妻のあやめは状況を理解出来ていなかった。しかし、あの笑顔は至福に満ちていた。決してない二つ宗教にまたがっての天に召す姿の中で、微笑んだ。

 しかし事は動き出し、元には戻れなかった。


 妻のあやめの側で夜中に数時間手首を持ち、うつらうつらとしていた。彼女の呼吸は小さいものになっていた。これからの事を考えると、冷静さを保たなければならないのに、妻との思い出が浮かんでは消え浮かぶ。

 目を擦りながら、徹夜になってきた所で、思考はぼんやりとしてきた。

 今の妻を看取る行為のきつさと意識を保つ事の難しさ、正常な判断力が保たれるのか、と私は思いに耽った。


 気付いたら夜は明けて、カーテンの隙間から太陽の日差しが入って来ていた。

 妻の脈を確認し、少しでも水分を取る様に、口元に水を注いだが、受け付けなかった。瞼の奥で目が動いている様に感じた。

 カーテンを思いっ切り開ければ、あやめは目を覚ますのではないかと、試みてみたが、そうはならなかった。

 洗礼の儀式を行ったにも関わらず、自分の父と母の墓に入ると呟いたのは、彼女にはまだ旧宗教の未練があるとなると、覚悟をさせる事が出来てないという事だろう。

 これは難題だ。

 しかも私と共に召す事をも望んでいる。

 両方叶えるのは難しく思えるが、もう動き出している。そうだ、両親の写真を抱かせてあげよう。仏壇にあったな。彼女が今まで洗礼を受け付けなかったのは、義父母の存在が大きかったのだろう。


「なぜ目を覚さない、この重要な信仰の事を話さないか。あやめ」と呼び掛けた。

 すると頭を前にうつむいたまま、布団の上に浮いた様に、すっと立ち上がった。

「あなたの説明の仕方が悪いんでしょ。私は父母、春人と永遠に一緒」低い声で唸る様に話した後、水平に浮き上がると、浴衣を垂らしながら、ゆっくりと布団に横たわった。

 そして白松あやめは息を引き取った。脈、心拍音はなかった。

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