忘却された町を彷徨う死者の道程
幾木装関
第1話 彼女の定期検診
曇り空が広がる鬱屈とした今日は妻、白松あやめの定期検診の日であった。検診は一ヶ月に一回行われる。最初は定期検診の度に準備が大変であったが、回数を重ねるうちに慣れて行った。
妻は二八歳、私は三二歳。彼女は背が小さく一四五センチメートルと、身長一七五センチメートルの私と並んで歩けていた頃は、親子連れかと思われてないだろうかと、想像していた程だった。
今は一緒に歩く機会はないが、ただ絹の織物の様に真っ白な肌は、誰にも奪う事が出来ないものだと確信していた。
あやめの美しい肌は、いつまでも私だけのものにしておきたい。切に望んでいた。
検診先の多田総合病院に車を走らせる時間と車内空間は、暫し二人のドライブデートの時間になっていた。暖房をつけなくても春の陽気と日差しで、車内は暖かく二人の会話をよりはずませていた。
こんな元気そうなあやめだが、内臓疾患が酷くて担当医からは余命半年と言い渡されていた。
あの近代的な多田総合病院が近付いて来ると、緊張が毎回走っていた。
検査に次ぐ検査で、半日仕事になるのと、検査と検査の度に妻をわざわざ車椅子で毎回移動させるからだ。
そして待ち時間。これが体力を消耗させる。あやめはなお辛いだろう。
車の中でこれを想像すると、なお二人で緊張を覚える。そして私の引きつった表情を見ると、妻は先に笑顔を取り戻す。それを見て私も笑顔になる。こんな事を繰り返して都市型病院に毎回辿り着いていた。
病院の地下駐車場に下るスロープを何度も何度も曲がりくねりながら、最寄りの駐車スペースを探して行く。近いスペースに辿り着けばラッキーだった。運がなければ更に駐車場の地下迷宮を下りて行くのみだった。
変わった地下立体駐車場で、各フロアに喫茶スペースがあり、自由に飲み物を取る事が出来た。
今日は運が良くて地下三階のフロアに駐車する事が出来た。
あやめを車から降ろして車椅子に乗せると、地下駐車場を下の方へと覗いて見た。あまりにも深い地下迷宮にぞっとして、今日がいかに幸運かと思い知った。
地下三階フロアと言っても、各フロア床が勾配がついているので、駐車した位置から最寄りのエレベーターまで、車椅子を押して行かなければならなかった。距離にして五十メートル。私は頑張って押した。
少し変わった構造の多田総合病院は、受付が最上階の十二階にあり、そこで受付票を貰う。そこには今日の検査項目がずらりと書いてあり、それに沿って検診を受けるのである。下の階に向かってエレベーターに乗って。
先生方は二階、三階フロアで一斉に待機している。検査データで今日の結果を伝えるのである。一階は外部との出入り口となっていた。
先ず妻を採血室に連れて行き、次にレントゲン検査に連れ、上半身と下半身を撮影した。
一旦、喫茶室で休憩を取ると、次のCTスキャンで全身を撮影した。検査は以上だった。
「これで診察を待つだけだね、春人」と待合室で待ちながら、笑みを浮かべて妻が呟いた。
手の甲からあやめを握ってあげると、
「そうだね」と言葉を添えた。
受付表の番号がモニターに表示されると、その診察室に向かった。入り口の扉をノックする時が一番緊張する。この扉の向こうの先生は、どんな表情で待ち、第一声は何なのか、怖くなる。いつもの事だが慣れなかった。
ノックして扉を開けた。
「こんにちは、失礼します」と挨拶して、車椅子のあやめを奥に止めると、私は隣の椅子に座るいつもの儀式だ。
「白松あやめさんですね、今日は痛い所とかないですか」と担当医が話し掛けた。
「ええ、特には痛みも違和感もないですよ」と妻が答えた。
私は額に油汗をかいていた。
デスクの二つのモニターを担当医は見比べながら、キーボードで入力作業をしている。もう一度、あやめの方に向き直るとこう言った。
「今日の検査結果で身体に違和感がまるでないのは、奇跡的と言ってもいいでしょう」と医師。
私は神のご加護かと確信した。
担当医は言った。
「ご主人もですが、今から入院の手続きをして下さい」
「どういう事ですか?」と私。
「検査結果で判断すると、奥様は内臓疾患が相当に進んでいて、殆んど機能していないと言ってもいいんです。つまり、言い出しにくいのですが、余命が殆んどない状態です。ですので、終末、緩和ケアのホスピス病棟に入院して貰い、経過を安静に見させて貰いたいのです。お分かりですか?」と担当医が説明した。
「わあーっ、神よ!なんたる試練を与えるのか!」と私は叫んだ。
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