第2話 七海、呼ばれる

「どうです、いい手触りでしょう」

 突然後ろから男性の声に話しかけられて、七海は手にした「交換日記」を反射的にシェルフに戻し、声のした方へ振り向いた。さっきまで奥でうたた寝をしていたお爺さんが穏やかに微笑んで立っていた。

「交換日記」はおそらく高い本だ。触って傷つけたでしょうって言われたら——

 七海はお爺さんに返事をできずに固まってしまった。

 お爺さんは、つと前に進んでたったいま七海がシェルフに戻した「交換日記」を左手で取り出すと、

「これは馬の革なんですよ。馬のお尻から取れる、薄くて丈夫で柔らかいコードバンと呼ばれる部位の高級な革でね——」

 そう言いながら、右手の人差し指を表紙に優しく滑らせた。

 傷つけたとか言ってやっぱり買わせる気なんだ——

 ゴクっと唾を飲み込む音さえも聞こえてしまうんじゃないかと緊張してしまう七海に向かってお爺さんは、さらに続けた。

「実は私、革の工芸品とかを作るのが趣味でね、この日記を2冊だけ作りました」お爺さんは手にした「交換日記」に目を落とした。「仲の良い友達同士に交換日記に使ってもらえないかなと思って箔印まで押してね。でも結局売れたのは1冊だけで、しかも、もうどれくらい前に売れたのかも忘れてしまいました」

 ははは、とお爺さんは乾いた声で笑った。

「あ、あの——傷はつけてないと、お、思いますので」

 しどろもどろになりながら、七海が必死に言い訳を探していると、お爺さんは手にしたその「交換日記」を七海に向かって差し出し、

「お嬢さん、あなたさっき、この日記に呼ばれたでしょう?」

と柔らかい眼差しで微笑んだ。

 呼ばれた?

 七海はお爺さんの言葉がどういう意味か最初はわからなかった。このお爺さんは何を言ってるんだろう——

「交換日記」は今、七海の胸の前にある。

「店を出ようとしたとき、この日記から呼び止められたんでしょう?」

 再びお爺さんが言われ、ハッと気がついた。

 そういえばそうだ。私がそっとこのお店を出ようとしてたとき、この日記が目に入って——思わず手にしてしまったのだ。あれがお爺さんの言う「呼び止められた」のなら、確かにそうだった。

「古来から本当に相性のいい物に人間は呼ばれるんです。それがその人の一生の宝物になるのです。きっとこの日記は、あなたに使ってもらいたいんだと思いますよ」

 お爺さんは「さあ」と言うように、さらに日記を七海に向かって差し出した。

 実はさっき手にしたときに感じた何とも言えない柔らかな日記の手触りが、まだ七海の両掌に残っていた。今まであんな手触りのものに出会ったことがない。これは「呼ばれてる」ってことなの? お爺さんに誘われるように日記に手を伸ばしかけた七海は、そこで大事なことに気がついた。

「で、でも私……今日はあまりお金を持ってなくって——」

 ごめんなさい。お爺さんの期待には応えられそうにありません。小さく俯いた。

「先ほど言いましたが、もう一冊が売れたのはいつのことだったか思い出せないほど古いものです。このコードバンの美しい色は、逆に長い年月が経ったことの証拠でもあります。でも、その間この日記が誰かを呼んだことなんて、ええ、一度だってありません」

 お爺さんは七海が伸ばしかけた手に、そっと日記を掴ませた。

「お金なんぞ取りゃああしません。なんでって、あなたはこの日記に呼ばれたんですから。これはあなたの物になるべくして何年もここで待っていたんですよ」お爺さんが大仰に首を振って笑った。「この日記がやっと本当の持ち主に出会えた記念です」

 私は出会えたのか——

 お爺さんの言葉に誘われるように、七海は日記をそっと両手で胸に抱え、「はい」と小さく頷きながら返事をしたのだった。


 帰り際、

「そうそう、コードバンは水に弱いから濡らさないように気をつけて。革用の油とかで丁寧に手入れするといいですよ」

 そう言って見送るお爺さんに、七海はもう一度頭を下げて「新古書店」を後にした。

 七海が日記を胸に抱えたままアーケードの商店街を通り抜け、ふと空を見ると濃い灰色の雲が広がっていた。

 今日雨が降るなんて聞いてないよ。だが、空を見上げる七海の頬に小さな雨粒が落ちてきた気がした。

 ——濡らさないように

 その瞬間、頭にお爺さんの言葉が蘇って、七海は慌てて手に入れたばかりの革張りの「交換日記」をリュックに奥深くしまい、さらにそれを両手できつく抱き抱えた。

 一滴だって濡らしてやるもんか——

 七海は一回気合を入れると、制服のスカートの裾が翻ることなどお構いなしに、全力で家への道を走りだしていた。

 七海の想いとは裏腹に、今度ははっきりと雨粒が顔に当たった。

 あと五分、お願い!

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