交換日記、始めました。

西川笑里

第1話 新古書店

「冷やし中華、始めました」という幟がその商店街の入り口にあるラーメン屋さんの店先ではためき始めたのは、まだときおり寒風の吹く4月に入ったばかりことだ。

 だいたい、冷やし中華が夏しか食べてはいけないという法律があるわけではないけど、この季節に食べる人っているのかなと余計な心配をしながら桜井七海さくらいななみは、そのラーメン屋の前を通り過ぎた。


 七海が今まさに通り過ぎようとしているこの商店街は、全国の地方商店街の例に漏れず後継者不足でほとんど店舗の入れ替わりもないため、実に多くの店先の錆びたシャッターは閉まっていて、寂しいことではあるが、おそらくシャッターが二度と開くことはないのだろうと思うと七海の胸も少し痛む。


 そのラーメン屋の前を3軒ほど通り過ぎた先で、七海は違和感を覚えてつと足を止めた。

 ——あれ、ここは書店だったっけ


 中学生になってから、ほとんど毎日朝夕に通る道だ。学校は七海の家からちょうど今とは反対向きに通った先にある。そのいつも通る道でこれまで見かけたことのない小さな書店を目にして思わず立ち止まったのだ。


 七海とて、この商店街にあるすべての店舗を覚えているわけではない。むしろなんの店なのか知らないことの方が多いのだが、それにしても——


 間口は小さく、ウィンドウも汚れて古びたクリスマスの紙の飾りのようなものが貼りつけているため、店の中は見づらい。それが七海にも一目で本屋であるとわかったのは、そんな小さな店構えに似合わない威厳のある年季の入った木製の看板に、太い黒々とした立派な墨の文字で「新古書店」と書かれていたからだ。

「シンコショテン……」

 七海は思わず口に出して看板の文字を読んでみる。


 この書店は、いつからここにあったのだろう。そもそも、昔からここに本屋さんがあれば、七海だって中学生だ。今までにもきっとこの扉を開けたことはあるはずだ。


 いつの間にこんなところに本屋さんが——


 七海は、しばらく立ち止まったままその看板を見つめながら考えた。

 新しく店舗を開いたにしては古すぎる。ウインドウの飾り付けだって、昨日今日のものではない。何も知らない人に、ずっと昔からこの場所にある書店であるといえば信じるだろう。だが。


 昨日まで、いや、今朝まではこの書店はなかったはずだった。少なくとも七海の記憶ではそうだ。


 じゃあ、今朝までここには何があったの?


 14歳の記憶の引き出しを全開にして七海は考えるのだが、困ったことにそれさえも思い出せなかった。


 そして結局、ここは閉まっていた店を誰かが受け継ぎ、再び開いたと言う結論に七海は達した。この場所になんの店があったのか記憶にないのは、長くシャッターを閉じていたとしか考えられない。何か別の店があったのなら、何がしか覚えているはずだ。


 そうと決まれば躊躇うことはない。本屋に中学生が入るのは、ごく自然な摂理というものだ。七海は自動ではない木枠の古い扉に手をかけて、ゆっくりと手前に引いた。


 子供の時にだけ訪れる不思議な出会いがあるのなら、それはいったい何歳までなんだろう。


 神社の御神木の根っこの隙間から落ちたらお化けと出会ったとか、慌てん坊のうさぎを追いかけたアリスような奇跡が、世の中の子供たちの誰にでも起きているのか知らないが、少なくとも七海には一度もそんな経験はない。


 だが、その書店に一歩踏み入れた七海には、そこは確かに一つの「異世界」に飛び込んだ感覚を覚えた。


 ここは古本屋なのかな——


 まずは思いのほか高い、天井まで届く数列の棚に整然と並んだ本が目に入った。まだ手にしたわけではないが、店内が暗いので、なんの本を置いているのかすぐにはわからなかったが、どうやら古書が並べてあるようにも見えた。

 もしかして看板の「新古書店」とは、「新・古書店」、つまり「新しく開いた古書店」という意味なのかも。

 

 そのまま数歩足を進めてフッと視線を奥にやると、一番奥に小さなカウンターが見えた。おそらくこの人が店主なのだろう、カウンターの中で小柄な老人がうたた寝をしている。


 老人は七海が店に入ってきたことに気がついてなさそうだった。初めて入った店だけど、ここはどうやら自分が入る種類の店ではなさそうだ。おじいさんが寝てる今のうちだ、そっと店を出よう。


 七海はできるだけ静かに踵を返し、今しがた入ってきたばかりの入り口へ向かおうとしたとき、入り口脇のシェルフに立てかけてある本が目に入った。

 

 何色と呼べばいいのだろう。飴色? セピア色?


 渋い茶色系の表紙。いや、表紙と言ったがおそらく「紙」ではない。見た目にも時代を感じさせる革のような——


 今にして思えば、それが自分の意思だったとは思わない。だけど、七海の手がいつの間にか勝手にその本に伸びていた。


 結構分厚い本だった。七海とてまだ色々な知識があるわけではないが、手触りはやっぱり本物の革のように感じる。それはまるで手のひらに吸い付くようで、なんとも柔らかい。縁をすべて糸で縫ってあるらしい。

 ページが開かないように、同じ材質のベルトとホックで閉じられるようになっている。きっとこれは高いやつだ。


 表紙を見る。

 横書きで「交換日記」と刻印されていた。この文字がきっと「焼印」というものなのかも知れない。


 七海は吸い込まれるようにその本——「交換日記」を見つめていた。

 カウンターのおじいさんが目を覚ましたことにも気がついていなかった。

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