第3話 青いインク

 ——セーーフ!

 おりしも、七海が玄関の軒下へ飛び込んだ途端、背中を掠めるように滝のような雨が降り出した。だが、髪が少し濡れたぐらいで、大事に抱えたリュックサックはかろうじてずぶ濡れを免れた。

「ただいまあ……」

 玄関の引き戸を開けて、七海は誰に言うともなくそう呟く。この時間には家に誰もいないことはわかっているが、それでも家に帰り着いたら「ただいま」は忘れない。続けてハンカチを取り出して髪を拭き靴を脱ぎ、片手で揃えてクルッと向きを変えた。

「ただいま」も靴を揃えることも、祖母から「そうするもの」と小さな頃に教えられてからずっとそうしてきた。祖母からは特にうるさく言われたわけでもなく、七海は自然と「そうするもの」を受け入れていた。

 リュックを右手にぶら下げて自分の部屋に入る。小さな畳の部屋だ。七海の住む家は古民家というよりは「古い家」と言った方がぴったりの日本家屋で、七海の部屋の入り口にはドアさえもなく、暖簾のような布がカーテンのようにぶら下げてあるだけだ。こう聞くとプライバシーが気になるむきもあろうが、七海の暮らすこの家にはこれで十分なのだ。なぜなら、この家には七海と祖母しか住んでいないからだ。

 七海の母は、七海を独身で産んですぐに亡くなっていた。だから七海は母と話をしたこともなく、父親のことも何も聞かされていない。そんなことで七海は祖父母に育てられたが、その祖父は数年前に癌で亡くなり、現在は祖母と二人暮らしとなっていた。

 母が亡くなったときことは祖母も話してくれたが、父親のことは本当かどうかわからないが、祖母は「知らない」と言い、それ以上の話を聞いたことがない。

 その祖母もだいぶ歳だが、未だ請われるまま漁港の工場に働きに出ている。特に牡蠣の殻剥きのベテランで、人手不足の折、辞められては困ると工場の人から引き止められているみたいだ。


 外は大雨で、部屋の中がだいぶ暗い。灯をつけリュックサックからさっき手に入れた革の日記を取り出して机の上に置いた。制服を脱いで着替えてから椅子に座り、その茶色の革の表面をそっと手のひらでなでてみる。やはり柔らかく、温かい。

 表紙を開いてみると、真っ白いページにフリーハンドで書いたような罫線が薄いインクで印刷されていた。何ページあるのかわからないが、紙は追加できる仕様だ。

 最初、黒のボールペンを握ってみたが、なんとなくこれは違うと思い、思い出して机の引き出しを開け万年筆を取り出した。

 ——これ、まだ書けるかなあ

 この万年筆は母が使っていたものだと祖母から渡されたときちょっと使ってみたが、万年筆で何を書いたらいいか思いつかずに、結局そのまま引き出しにしまってあったものだ。試しに万年筆のペン先を机の上に置いてあるティッシュに当てると、青いインクがじわっと滲んだ。固まっているかと思ったが、書けそうだ。

 さて、何を書いたらいいんだろう。

 そういえば、小学校の夏休みの宿題で絵日記を書かされたが、日記などあの頃以来だ。あれは無理やり書かされたと言っても過言ではないが、今度は自分で選んだ——いや、日記帳から自分が選ばれた。ちゃんと向き合ってみよう。

 日付を書くところがある。万年筆で西暦から日付を入れてみると、最初少し掠れたけれど、すぐに綺麗な青のインクが紙にのった。フッと頬が緩む。やっと万年筆を使う場所が見つかって、日付を書けただけで満足しそうになった。


 今日から「交換日記」を書くことにしました。誰とって? もちろん私自身と。明日は昨日——つまり今日の私へ返事を書くから、これはやっぱり交換日記です。

 高校受験まであと1年、勉強と一緒にこの日記を続けられたら、きっと志望校へ受かる、んじゃないかなあ。


 なんか、独り言を言う人みたいと思いながら、文章を読み直して表紙を閉じ、日記を引き出しにしまった。


 台所の冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぎ、ダイニングの椅子に座りリモコンを操作してテレビをつけた。だが雨はいよいよ強さを増して、テレビの音さえもかき消されてしまう。

 立ち上がって窓の外を見る。

 ——おばあちゃん、傘は持ってたかな

 気になって玄関の傘立てを見に行くと、祖母の傘がそこに立ててあった。新しい傘を買ったとは聞いてない。たぶん傘は持ってない——

 七海は2本の傘を手にすると、靴を履いて玄関脇の鍵を取ってドアを開けた。わかってはいたが、これから出かけようとする身には余計に雨が強くなった気がして、一歩踏み出すのもためらってしまう。

 ちょうどそこへ、遠くから車のヘッドライトが雨の隙間に見えた。道が悪いせいか、ライトは少しバウンドしながら近づいてきて、七海が立ちすくむすぐ目の前で止まった。

 助手席に祖母が座っていた。祖母と仲のいい、同じ工場で働く末田すえだのおばちゃんが運転する車だった。

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