脱出の条件

三鹿ショート

脱出の条件

 明日を迎えることが出来ないと気が付いた理由は、同じことばかりを体験していたためである。

 駅前の広場で意味の分からない言葉を叫んでいる男性が、一人の女性の首に刃物を突きつけていた。

 制服姿の人間たちがその二人を囲み、正気とは考えられない男性を説得し続けている。

 その光景に見覚えがあったため、このような事件が二日続けて発生するなど物騒になったものだと考えていると、捕らえられていた女性が男性の股間に強烈な一撃を加え、怯んだ隙に逃げ出した。

 女性と入れ替わるように制服姿の人間たちが男性を捕らえると、騒がしかった駅前はやがて何事も無かったかのように日常を再開させた。

 だが、私はその場から動くことができなかった。

 先ほどの光景は、昨日目にしたものと全てが同じだったからだ。

 同じ時間を繰り返しているのだろうかと不安になったが、そのようなことは有り得ないと断じ、私は会社へと向かった。

 しかし、同僚が昨日と同じ失態を演じ、昼食に購入した弁当に昨日と同じ虫が混入し、帰り道に昨日と同じ子どもたちに金銭を巻き上げられたことなどを考えると、いよいよ認めなければならなくなってしまった。

 共に生活している恋人にそのことを告げようとしたが、眠っていたために、私は誰にも相談することができないまま、翌日を迎えた。

 だが、やはり翌日は訪れることはなかった。


***


 何故、私だけが同じ時間を繰り返しているのだろうか。

 駅前の広場で起きている同じ事件を眺めながら、自身に問うた。

 しかし、問うたところで、求める答えが得られるわけではない。

 重い足取りで、今日もまた会社へと向かう。

 同僚の同じ失態を目にし、弁当に入った同じ虫を取り除き、同じ子どもたちに金銭を渡し、眠っている彼女を見つめた後、眠る。

 それを、何度も繰り返す。

 何度繰り返したのか、両手の指の数を超えたあたりで、数えることを止めた。

 明日が訪れることが無いのならば、好き勝手に生活すれば良いのではないかと考える人間も存在するだろう。

 明日が訪れるという保証が無いにも関わらず私が同じことを繰り返している理由は、万一明日を迎えることが出来たときに、元々の生活を失ってしまうような状況を作ってしまっているわけにはいかなかったからだ。

 だが、同じだと分かっていることを繰り返すということほど、精神的に辛いものはない。


***


 我慢することができなくなってしまい、私は自宅の椅子を窓硝子に向かって投げつけた。

 硝子の割れる音が響き、周囲が騒然と化した。

 荒い呼吸を繰り返す私に、彼女は心配そうな眼差しを向けてくる。

 その視線を浴びた私は、己の愚かさに気づき、近隣の人々に謝罪して回った。


***


 繰り返す時間から脱出するには、何らかの方法が必要なのではないかと考えてはいたが、その方法が一体何なのか、まるで分からない。

 会社に行かないことが条件なのか、自宅から一歩も出ないことが条件なのか、何らかの犯罪行為に手を染めなければならないのか、可能性は数え切れないほどに存在している。

 同時に、たとえ何らかの方法で脱出することができたとしても、明日の私に及ぼす影響を考えると、下手な行動をすることは出来なかった。


***


 私の様子から精神的に追い詰められているのだと察したのか、彼女は身を起こすと、私に声をかけてきた。

「何か、あったのですか」

 勿論、彼女は私の事情など理解しているわけがない。

 私は慌てて彼女を横にさせると、口元を緩めながら、

「きみが気にするようなことではない」

 私がそう告げると、彼女は布団の中から一本の紐を取りだした。

 差し出されたそれを受け取ると、私は彼女に問うた。

「一体、これは」

 彼女は自身の首を指差すと、

「その紐で、私の首を絞めてください」

 私は手にしていた紐を放り投げると、彼女の肩に手を置きながら、首を横に振った。

「何を言っている。そのようなことが私に出来るわけがないだろう」

 彼女は双眸から涙を流しながら、

「私の身体が弱いばかりに、あなたに迷惑をかけていることは、分かっています。だからこそ、あなたにこれ以上負担をかけるわけにはいかないのです」

 確かに、彼女は一日のほとんどを布団の中で過ごしている。

 私が仕事に向かっている間は、然るべき職業の人間に金銭を支払って彼女の面倒をみてもらっている。

 私が在宅の間は、私が彼女の世話をしているのだが、それを苦に思ったことは一度も無い。

 もしも苦に思うことがあるとするのならば、それは彼女との別れが近い将来に訪れるということだろう。

 それを考えれば、彼女と別れることなく、永遠に過ごすことができるこの状況は、私が最も望んでいたことではないか。

 繰り返すこの時間に対して、何時しか悪感情を抱くようになってしまったが、彼女との別れを経験することがないこの時間ほど、素晴らしいものは無い。

 私は彼女の頬に手を添えながら、

「私の負担など、これ以上増えることはないのだ。きみは安心して眠ると良い」

 彼女は不安げな表情のまま、首肯を返した。


***


「機会を与えたのですが、今日もまた、彼は私の生命を奪うことはありませんでした」

「いっそのこと、きみが自身の手でその生命活動に終止符を打てば良いのではないか。今からでも、条件を変更することは可能だが」

「彼の手で私の生命を奪わなければ、意味が無いのです」

「それは、何故」

「そうすることで、彼は罪悪感に苦しむことでしょう。それは、私を忘れることが無いということと同義なのですから」

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