第7話

 塚本の木戸流は日を追うごとに冴えを見せていた。季節は流れ、吹く風も骨身に染みる冷たさとなった。気がつけば、試合は明日に控えていた。

 その日も桜が舞った。


 臼田直義は図書委員だった。身体は大きく、180cm、130kgの体格があった。入学した時は、運動部から誘いがいくつもやってきたが全て断っていた。

 争いごとよりも、静かに本を読んで一日を過ごせるならずっとそうしていたい性質だった。

 ある時、山積みの小説を借りていく利用者がいた。それは、大して珍しい光景ではない。図書館では一度に10冊借りられる。けれど、大抵は全て読める訳がなく、延長してやっと読み終える利用者が多かった。

 その利用者は次の日に返しにやってきた。借りていたのはプルーストの『失われた時を求めて』だった。

「もう読んだんですか」

「ええ」

 利用者はそう言ってはにかんだ。

「こんなに長い作品だと、読みさしで死んじゃわないか気が気じゃなくて」

 その顔を見て臼田は顔を強張らせた。

 臼田は母が死ぬ前を思い出した。母は気丈な人だった。いつも笑顔を絶やさない母に、ある時、不安を感じた。顔の半分が白い靄がかかっていた。最初は錯覚だと思っていたが、次の日に母は交通事故で帰らぬ人となった。

 第六感とでも言うべきなのだろうか。それから白い靄を臼田は死のヴェールと呼んだ。

 その利用者の顔には、あの時のヴェールがかかっていた。


「氷川さん! 本当に君が──」

 言い終わる前に、木戸は塚本に飛びついていた。背後からのチョークスリーパー。腕をまくった太い腕が塚本の細い首に絡みついた。

「ごがぁ」

 蛙が潰れたような音が喉から漏れた。塚本が剥がそうとしても、木戸の脚は塚本の胴をがっしりと締めつけていた。腹に残った空気が漏れる。塚本の昼飯が麻婆春雨だとわかった。

「懲りないやつだ」

「付き合うのやめれば」

 氷川は心底呆れているようだった。

「そっちも大概だ」

 彼女は屋上にイーゼルと椅子を持参してきていた。美術の課題をこなすためらしい。

「しょうがないよ。他の人と被らない題材ってこれしかないし」

 氷川はまた筆を走らせる。

 木戸がキャンバスに目をやる。淡い水色にピンク色の欠片が散らばっている。地平線の向こうに建物を描き始めているところだった。

「インスタに投稿したのも綺麗だったから?」

「そうだよ」

 木戸は笑った。

「可笑しい?」

 氷川が木戸をじっと見た。

「あんなものを見たら、生涯関わらないだろうから」

「まあ、塚本はキモいけど、この景色は一度見たら、みんな気にいると思うけどね」

 氷川が空を見上げる。白とピンクの欠片は、落下せずふわふわと浮いている。よく見ると、桜の花びらよりももっと薄い。手が触れると、すぐに溶けてしまった。

 夕方の太陽と相まって肉吹雪は幻想的な風景を作り出していた。

「アンタ、浮かない顔してるね」

 見上げる木戸の横顔を見て、氷川が言った。

「アタシさ、実家が喫茶店やってんだ。手伝ってると段々、お客さんが何抱えてるか察しちゃうんだよね」

「俺はどう見える」

 肉吹雪の欠片が風に乗る。沈みかけの太陽の方へ散らばった。不意に氷川と目が合った。黒目が大きい。遠目から見ていると高い鼻にばかり目がいっていたが、鹿を思わせる瞳は木戸の胸の裡を見透かしているようだった。

「あ、目逸らした」

「逸らしてない」

 木戸がそっぽを向くと、後ろで氷川がきししと笑い声が聞こえた。耳が焼けた鉄のように熱くなる。

 道場での精神を削るような稽古が続いていたからかもしれない。氷川とのやり取りは心地よかった。

「アンタさ、寂しそうだよ。飼い主に遊んでもらえない仔犬みたい。話聞くから。この前、助けてくれたお返しじゃないけど」

 木戸はしばらく黙っていた。心当たりはあったが、どう言葉にすればいいか迷っていた。氷川は、また絵を描き始めた。自分のペースで話始めていい。そう思うと、言葉にできた。

「……俺は木戸流を最強の拳法として知らしめたい。それで塚本を選んだ」

「あいつが? 全然適任には見えないけど」

 氷川が地面に転がる塚本を見る。

「塚本は何人も肉吹雪にしてるのに、ひとつも反省してない。ひとつも後悔してない。氷川さんの好意に全部が結びつくと信じている。そういうエゴの塊は一流の武術家になれる」

 木戸は街で行われるK-1の試合のフライヤーを見せた。

「これにコイツが?」

「塚本ならワンチャイを倒せる」

「そんな強いの」

「日々の稽古で、塚本は確実に強くなっている。俺はそれが嬉しい……。なのに、玄爺が強くなる塚本を見て微笑んだ時、俺の心はおかしくなった」

 木戸は俯いた。

「塚本は友人を爆破できる体質だ。だから最初、玄爺が塚本と仲良くなって爆殺されるのが嫌なんだと思った」

「そうじゃないの?」

「違う、違ったんだ。もっと単純なことで、玄爺と塚本が仲良くなって自分だけ置いてきぼりにされるのが怖かったんだ」

 木戸は言葉を切って呼吸する。堰を切ったように自分の思いがあふれた。

「アンタ、わがままだね。塚本を巻き込んだのは自分なのにさ。アタシから見ればアンタも十分エゴの塊だと思うけど」

「俺は塚本には及ばない。小さい頃から玄爺やお歴々も俺はまだまだだと言っていた」

 木戸の脳裏に道場での稽古が蘇る。祖父が笑ったのは、六指獄の構えができた時が最後だった。残っている記憶は先達からの罵倒と叱責だけだった。

 会話はそこで途切れた。

 異音が屋上に鳴り響いた。

 木戸と氷川の視線は屋上の入り口に吸い込まれた。

 音が近づいてきていた。戸棚をひっくり返すような物々しい音だった。

がしゃん……がしゃん……

 アルミ製のドアに何かがぶつかっている。

 さらに物音が激しくなり、扉が吹き飛んだ。

 扉は派手な音を立て床にバウンドしたが、それを見る者はいない。

 視線は入り口に集中していた。

 大きな西洋甲冑が肩をいからせ、立っている。陽光を受けて銀色に輝く。

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