第10話

犬山 勝、67才。

彼は若き頃に株式投資を成功させて莫大な利益を得た。

その利益を元手に飲食業、アパレル、不動産など次から次へと事業を成功させて来た。


そして引き続き株式投資でも成功させ続け、世界億万長者ランキングにも入る程の資産を持っていた。


「犬山様。

ご報告があります」


鍛え抜かれた体を持つ男の声に、ルームランナーの上で走り続ける犬山は息一つ乱れる事なく「どうした?」と一言だけ返した。


「奥様の照美様が遺体で発見されました」

「そうか」


特にその言葉に感情が乗る事が無い一言だった。


「首と左腕が切り落とされた状態で殺されていました」

「そうか」

「どう処理しましょうか?」

「そうだな……

事故死って事にしておけ」

「よろしいのですか?

あれは間違い無く殺人ですが……」

「構わん。

あいつは私の金と権力。

私はあいつの身体。

お互いそれだけが目的で一緒になっただけだ」

「ですが、一応配偶者ではありませんか?」

「フッ」


犬山は短く笑ってからルームランナーを止めた。

それから男の渡したタオルで汗を拭う。


「なんだお前。

あいつに惚れていたのか?

なら早く言えば抱かせてやったのに」

「いえ、そう言うつもりはありません。

ただ珍しいと思いまして」

「珍しい?」

「はい。

犬山様がお気に入りの玩具を壊されて怒らないのが」

「ああ、そう言う事か」


犬山は次に筋トレマシーンに移って筋トレを始めた。


「今回あいつが消そうとした善正 由理の両親を知っているな」

「はい。

調べましたので。

父は検事のエリート、母はやり手弁護士」

「ああ、それに両親共叩いても埃が出ない程のクリーンな二人だ。

正直、私達みたいな成金には天敵と言ってもいい存在だ。

何せ、大なり小なり叩けば埃ぐらい出るからな。

ああ言う輩が出世すると私としては困る。

だからとことん邪魔をして来た。

だが、あの家族には一切手を出しては来なかった」

「どうしてですか?」

「お前は成り上がるのには何が必要だと思う?」

「金と人脈でしょうか」


突然の質問にも男は即答してみせた。


「もちろんそれも必要だ。

だけど一番では無い。

一番必要なのは嗅覚だよ」

「嗅覚、ですか?」

「ああ。

私もこれまで幾度となく危ない橋を渡って来た。

だがな、危ない橋は危ないだけで渡れるんだ。

橋だからな。

怖いのは一見普通の橋に見えて反対側までかかり切っていない橋だ。

もはや橋とも呼べない。

行けば必ず落ちるだけ。

それを嗅ぎ分けられる嗅覚だ」

「あの家族は手を出してはいけないと言う事ですか?」

「そう言う事だ」

「そんな風には見えませんでしたが。

財力も権力も圧倒的に犬山様の方が上過ぎて相手にならないかと……」

「お前もあいつと一緒で嗅覚が足りないな」

「なにがあるのですか?」

「わからん。

だが匂うんだ。

あの家族からじゃなくて、その周辺から魔物の匂いがな」

「魔物ですか?」

「そうだ。

正体はわからない。

それを探るのも許されないと思える程の匂いだ」

「それなのにどうして奥様にお伝えしなかったのですか?」


犬山は筋トレを終えて、フィットネスバイクに跨って漕ぎ始めた。


「試したくなったんだよ。

私の嗅覚が今も健在なのかどうかを。

どうやら健在だったみたいだな」

「つまり奥様は捨て駒だったわけですね」

「まあな。

あいつの身体は良かったから、少し勿体無くはあるがな。

でもあいつも私の上で喘ぐだけでこれまで散々いい思い出来たんだから楽しい人生だっだろ」


犬山は太々しく笑う。


「魔物ですか……」

「探るなよ」


独り言を言った男に犬山は釘を刺した。


「触らぬ神に祟り無しだ。

この場合は魔物だがな。

好奇心が駆り立てられるのは良く分かる。

だが、その好奇心を抑えられずに消えて行った奴を私は数多く見て来た。

お前は優秀な男だ。

失くすのは惜しい」

「わかりました」


犬山は満足したように頷いた。


「また探さないとな。

野心の為にどんな事でもする若くていい女を」


彼はこの世の金で買える楽しみはやり尽くして飽き飽きしていた。

今の彼の楽しみは野心に燃える若い女を抱き、その女が堕ちて行くのを間近で見る事。


自らの力で成り上がって来た彼は知っていた。

他人の力だけに縋ってのし上がろうとする物は必ず堕ちて行くと言う事を。

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