→逃げない【24】涼子・B

 突如、体の真ん中を風が吹いた。

 ぐらりとくる甘い言葉。弱ったときにやってくる、悪魔の誘惑。

 今までずっと、こんな言葉に騙されてこなかったか?

 楓は待っている。だが考え出したら止まらない。

 手にじわりと汗が浮かぶ。鼓動も追われるように速くなる。焦りが強くなっていく。

 未宇も、梨音も。出会ったころは普通の女の子だった。可愛らしくおれに絡んで、好意を示してくれて。それからおれを襲ったり、人を殺したりした。

「ご……ごめん、楓……おれ……」

 楓は悪くない。何も悪くないのに、なまじ前例があるせいで疑ってしまう。同じ頃に出会った女の子。楓にも何か、裏があるんじゃないかって。

 優しい言葉をかけてくれるのは――悪魔だからじゃないかって。

「朝希?」

 ざわざわして落ち着かない。余計なことまで考えてしまう。

 今日は月曜日だ。昨日じゃダメだったのか? どうして今の時間なんだ。未宇と梨音と会った直後に。涼子に住所を聞いたなら、彼女がおれに伝えなかったのはなぜだ? そもそも、おれに直接聞けばよかったんじゃないのか?

 全部説明がつく。当事者を気遣って時間を空けたんだろうし、月曜は学校があるから、今の時間でなきゃ久鵺までこれない。涼子に聞いたのは説明された通りだ。来ると思わなかったから、彼女も言わなかったんだろう。何もおかしいことなんてないのに。

「また連絡するから……!」

「あ、待って!」

 制止を振り切って玄関へと急ぐ。母親の車はまだなかった。

 ノブを掴む手が震えている。力が入らない。やけに重い扉に気持ちが急く。

 はやく。はやく。はやく。

 はやく家に入らないと。

「待って……」

 細く開いた隙間に身を滑らせる。すがるような声を遮断すべく、力いっぱいドアを閉めた。


 どっと疲れが襲ってきた。施錠と同時に意識からすべてを押しだし、玄関に倒れ込む。すぐ足音がして、リビングから涼子が顔をのぞかせた。

「おかえり。大丈夫だった?」

 見慣れた姿にほっとする。涼子には――あの事件を経験したものに共通する死の影があったけど――おれを安心させる空気があった。過ごした時間に裏打ちされた信頼だ。

 だが彼女の表情は不安げだった。出かけのやりとりやあの爆発のことを思えば当然だ。おれの答えは「大丈夫」しかない。短い間にとんでもなくいろいろなことがあったけど、今は説明するのも億劫だった。

「涼子は大丈夫だった?」

 聞き返せば、軽く首を傾げ「大丈夫だよ?」と笑う。リビングへ来るようおれを促し、彼女は奥へと戻っていった。

 さっき風が抜けた穴に、楔が打ち込まれたような気分だった。

 水音がしている。それに負けないよう、涼子の少し張った声がする。

「さっき、アキちゃんのお母さんから電話あってね。この辺りで事故があったみたいで。通行止めになってて迂回するから、ちょっと遅くなるって」

 靴を脱いだ手が止まる。水音も止まり、調子を戻した声が続く。

「一方通行多いからね、この辺」

 数歩歩き、廊下とリビングの境で足を止める。涼子はコップをふたつ持って振り返り、おれを見て破顔した。「なにしてるの、そんなとこで」

 テーブルにコップを両方置き、涼子は椅子のひとつに座る。片方のコップを取ってちびちびと飲みながら、立ち尽くすおれをちらと見上げた。

 なんてことはない。これがおれの求めたものだ。いつも通りの日常。呉竹刑事に連れ出されて、心配されたけど、無事に帰ってきて、安心してもらえて。

 それで。

「………………」

 あの爆発。聞こえなかったのか? ここまで?

 涼子の向かいに座る。目の前にはコップ。ゆったりとそれを飲む涼子。なんの変哲もない光景。夕食の準備は終わって、ラップのかかった皿がキッチンに置いてある。カーテンは閉まっている。外はまだ明るいけれど、もうすぐ陽が沈みきって、夜になるから。

 おれがごろごろしてたソファー。隣に置かれた低いテーブル。消えているテレビ。壁にかかったカレンダーと、その下に設置された電話。今は携帯があるから、セールス以外で鳴ることはほとんどない。

「涼子は」

「ん?」

「涼子の親は、いつ帰ってくるんだ?」

 あげられた視線がぴたりと止まる。

「連絡、ついたんだよな?」

 涼子は答えない。視線も逸らさない。軽く、何気なく投げられた瞳が、徐々に中身のないものになっていく――そんな気がして、不安を煽られる。

 いつも通りだ。そうだ。いつも通りなんだ。

 あんなことがあったのに。

 涼子の親は、いつまで涼子を一人にしておくんだ?

「りょうこ……?」

 いや、涼子の親が最後に帰ってきたのはいつだった? レリーズのときも、結局戻ってこなかった。涼子はいつから……ひとりで暮らしている?

 変だ。

 どうして今まで、疑問に思ってこなかったんだろう。

「な、なんか言ってくれよ」

 はやく帰らなきゃって。どんなに不安があっても。

 涼子に会ったら安心できるって――そう思って――。

 喉がカラカラに渇いている。おれは何も考えず、目の前のグラスを掴んで口に含む。

 ひどく甘い味がした。

「が、あっ……!?」

 コップを落とし、中身が机上にぶちまけられる。それを見ながら涼子は、もうひとくち水を飲む。体が傾ぐ。めまいがする。

「連絡はついたよ。もうすぐ来るって」

 濡れた机に頭を打ちつけた。音と水の感触はしたが、痛みはない。手に、足に、腰に。力が入らない。

 涼子の声がする。

「だから心配いらないよ」

 淡々と。ただ事実を告げるように。

「りょ……こ……」

 あれは涼子のはずだ。小さいころから一緒にいる、おれの幼なじみの……。

 荒い呼気からは、深い死のにおいがした。

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