→拒絶する【22】梨音・B2

「……楽しいか」

「え?」

 梨音は虚を突かれた顔をする。おれの声は固かった。自分が思っていたよりずっと。

「未宇を笑って……おれを思い通りにできると思って、楽しいか?」

「あー……朝希?」

 若干の困惑と、嘲弄。突如出た思いもよらない発言に、何を言っているんだと再確認する……そんな響き。さっき説明したよね。頭大丈夫? 起きてる? きみの大事な人たちを殺すって言ったんけど、聞いてたかな?

 言外に含まれたわかりやすい意図を全部くみ取って、それでもおれはにらむのをやめなかった。小さな体を引き剥がすと、予想外に簡単に離れる。

 今度こそ梨音は目を丸くした。心底意外そうな顔に腹が立つと同時に、彼女の予期しない行動を取ってる自分を得意にも思う。人間と交渉するための持論をあれだけ語っていたくせに。やっぱり、おまえだってなんにもわかってないじゃないか。 

「確かに思ったよ。母さんを、涼子を……守るためなら、宇宙人とセックスくらいしてやるって……。それで日常が守られて、誰も死ななくて済むなら……」

 言葉を紡ぐたび怒りが積もる。そうだ。おれはしてもよかったんだ。一回目でできたかどうかはわからないけど、できるまで協力したってよかった。そのつもりだったんだ。あんなことがあるまでは。

 目の下に力がこもる。おれの顔を見て――梨音はぎくっとしたように見えた。

 感情が爆発する。

「じゃあこれはなんだ!? もう何人死んだ!? 史也も死んだ、未宇も……! おれのせいだ――そうなんだろ!? おまえは知ってるんだ! 違うか!?」

「あ、朝希」

「嘘ついて近づいて……結局こうだ! おまえもあいつらの一味じゃないのかよ! 助けたなんて嘘ついて……おれを思い通りに動かそうとしてる! 違うのか!」

「朝希、それは違う。あれについては本当に――」

「信じられるかよ! おまえはずっと嘘つきだ! 本当なのは人間じゃないってことだけで……それすら隠して近づいてきたじゃないか!」

 あの日のことが頭をよぎる。このおかしな世界に明確に足を踏み入れたあの日。泡立つ宇宙人が姿を現し、異変に包まれた日常に一筋の光明が差した。

 梨音だけだ。彼女だけが、おれにまとわりついた謎に答えをくれた――。

「……いいのか。きみの母親を殺すぞ。幼なじみだって」

 それまでの言い訳じみた色をすっぱり落とし、梨音は淡々と告げる。目は昏い。本気で言っているんだとわかる。それに焦りを感じたけど……引き返せなかった。

 頭ではわかってる。逆らっても死人が増えるだけだ。母親も涼子も守れない。だけど心が抑えきれない。

 今さらこいつに精液を渡してどうなるんだ。脅されて、思い通りになって。そしたら、史也は、間仁田は……そのために死んだやつらは、どう報われるっていうんだ!?

「――死んでやる」

 妙に落ち着いた声だった。梨音が息を呑む。

「最初からそうすればよかったんだ。こんなことになるくらいなら」

 口に出して、名案だと思う。そうだ――そうすればよかったんだ。わからない始まりを設定なんかせず――もっと前――自分の異常性を自覚したころに。

「凶器もないのにか。きみが命を絶つ前に、殺して首を持ってくるのは簡単なんだぞ」

 梨音は冷たく笑う。少し前なら凍えるように感じたそれは、もう心を動かさなかった。

「そしたら、死ぬのにためらいがなくなるだけだ。おまえとセックスなんて絶対しない。迷わず死んでやる」

「……別にお前が生きてる必要はない。性器を切り取ってもいいんだぞ」

「だまされると思うか? それでいいなら最初からそうしてる。ただ生きてればいいわけじゃないんだろ。もしそうなら、捕まえて――あいつらみたく薬漬けにでもして――精子を絞り出せばいい。そうしないのは、それじゃ不都合だからだ。違うのか」

 さっきまで激情に呑まれていたのに、今は妙に頭が冴えていた。死を自覚したからだろうか。死の危機に瀕して――それを逃れて――また死にそうになっていて。

 心が麻痺しているのかもしれない。おれを翻弄して、嘲って……ずっとうわてだった梨音が、おれに見抜かれるくらい下手な嘘をついている。そのことが可哀想にすら思えた。

 しばらく見つめ合っていた。梨音は何も言わなかった。先に視線を逸らしたのはおれだったけど、臆したからじゃなかった。彼女を見ても何も感じない。愛着も、恐怖も。

 彼女のまとう空気は、ギラギラしたものから倦怠的な雰囲気のものへと変わっていた。それは視線を通じておれにも伝わり、内心振り上げた拳や喉から出かけた棘は、いつしか行き場なく心の沼に沈んだ。

 梨音が何も言わないのなら、家に帰ろう。

 そう思い、無警戒に背を向ける。何もされないという確信があったし、実際その通りだった。彼女は動かなかったし、まとうけだるい空気が揺らぐこともなかった。

「……ま、限界か」

 自嘲気味にこぼれた言葉には諦観が滲んでいた。

 おれは振り向かず歩き続ける。遠ざかっていく気配。呼吸がしやすくなって初めて、先ほどまでの空気が重苦しかったことに気づく。

 こんなことばかりだ。いつもいつも……なくなってから気がつく。

「私が一番優しかったこと――覚えておいてほしいね!」

 背中に声が投げられる。それにも振り返らなかった。

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