→応じない【21】梨音・B1

 両肩を掴み引き剥がす。それは驚くほど簡単に離れる。

「だめだ、やっぱり」

 未宇は黙っていた。彼女の顔が見れない。視線を脇に落とす。

「できないよ……」

 細く息を吸う音が聞こえた。しばしの沈黙。明るく――でも影が隠しきれない――呟きがこぼれる。

「……日下部さんがいるからですか?」

「違う……」

 そんなことじゃない。梨音のことがなくたって、きっと同じ選択をしていた。未宇はおそらく人間じゃない。だけど、そんなことでもないんだ。

 未宇の愛情は、献身は、歪んでる。彼女は自分が消費されることをよしとしている。おれが好きだと信じて……そう扱われる自分に……納得しようとしている。

 おれは嫌だ。未宇がどんなに求めても。おれは、そういう人間になりたくない。

「……いいんです。わかってました。わたしじゃダメなんだろうなって……結局……わたしなんかじゃ……」

「未宇……」

 ささやく声が湿り気を帯びる。自虐的な言葉が孕む悲痛な色に、胸が締めつけられる。

 精液がほしいならいくらでもやる――それは本心だったけど、口に出すのにためらいがあった。そうしているうちに未宇が顔をあげ、タイミングを逸してしまう。

 瞳は昏く濡れていた。それにはおれを完全に黙らせ、動きを止めるだけの力があった。平山のときとはまるで逆だ。姿も、顔も見えているのに……あのとき彼女を包んでいた闇が、瞳の中に詰め込まれている。

「こんなことしたくないって……嫌だって思ってたんです。でもどうしてでしょう、今となっては、嬉しく思うわたしもいる……変ですね」

 声の調子は落ち着いていて……どこか慈愛すら感じるのに、目からは涙が落ち続ける。伏せたまつげが上がる。水滴がきらきらと光り、瞳をますます昏く彩る。

 指先が伸びてくる。

 未宇はほほえむ。頬はずっと濡れている。

「だいすき」

 聞こえた瞬間、視界が真っ白になった。何かが全身を通り抜けて、足がもつれる。肘に痛みを感じた。手がひりつく。側頭部に固いものが当たって、一瞬体が硬直した。

 音は聞こえなかった。自分の心音すらしない。突然感覚器を一斉に失ったように思う。体の上に何かが降ってきて、さまよわせた手はそれに当たった。

 呼吸音はないのに、荒く息をしているのはわかる。ざらついた空気が喉を通る。みぞおちの辺りが痛い。咳が出る。

 視界が戻る。直前まで見ていた景色とまるで違い、おれは混乱する。未宇はいないし、空は右手にある。目の前には崩れた壁があった。奥には家があり、はめ込まれたガラスの向こうには横向きに立つ人がいる。目が痛かった。涙がにじむ。

 息が苦しい。焦げくさい。半壊した壁がさらに崩れて、ゴトリと音がした。瓦礫までの距離と音までの距離がちぐはぐだ。口の中がざりざりしている。砂の味だ。

「えぐ~……」

 空の方角で誰かが笑う。女の子の声だ。頭の向きを変えると、厚い雲のかかった暗がりを背におれをのぞき込む顔がある。軽く揺れる短めの髪。アーモンドみたいな目。

「り……」

 行き場のないおれの手を梨音が掴む。力が込められると上半身が持ち上がり、上下左右がまたぐちゃぐちゃになる。

 めまいがする。

「逃げよ。人が来るよ」

 言われるまま立ち上がる。ふらつく足をなんとか立たせ、促された通りに走る。

 何も考えられなかった。真っ白な光が思考を消して、それきり返してくれない。感覚が戻ってきても、自分のものじゃない気がする。繋いでる手だけが確かなもので、他はすべて後づけのような。

 しばらく走って、どこかで止まる。梨音が振り向き、おれは「もういいのか」と思う。ここがどこかわからない。見覚えがあるような、まるで知らないような。

「な、なにが……」

 かすれた声で尋ねると、梨音はくっと喉を鳴らす。

「見てなかったの? 『大好きな朝希くん』を巻き込む自爆テロ。ただのポンコツだと思ってたけど、根性あるじゃん」

 嘲り混じりの声。その内容に動揺する。

 女の子が目の前で爆発した。字面だけなら頓狂な話だが、すんなりと心に入ってくる。納得してしまう。

「し、死んだのか?」

「……さあ? 死んだんじゃない?」

 梨音の声には含みがあった。きっと見えていたんだ――おれとは違って。

 想像してしまう。舞う土埃の奥にある崩れた道路。その中心にばらける人の残骸。指、手、足……。

「そんな……」

 想像のものに負けず劣らず真っ白な手が伸びてくる。おれの両耳を横切り、首に巻きつく。視界が白い。まださっきの光が残ってるんだろうか。

 梨音は笑う。その体に熱はない。密着するところからおれの体温を奪っていく。

「だとしてもどうでもいいでしょ? 朝希はアタシのなんだからさ」

 冷えていく己を感じながら、それまでの自分に確かな熱があったことを知る。

 未宇の最期。熱い息。ぬくもりと爆発――。

「約束。覚えてるよね」

 耳元で梨音はささやく。そこにすら熱がないことが、ひどくおれの心を抉った。未宇を思い出して苦しくなる。

「してくれるんでしょ? セックス」

 梨音は言う。“確認”する。おれは答えられない。“YES”と言えない。

 未宇がほしがったもの。梨音のほしがっているもの。

 その存在のせいで――多くの命を奪ったかもしれないもの。

 黙りこくったおれの顎を指先が伝う。くいと上向けられ、梨音の顔が大写しになる。

 後輩の顔じゃない。宇宙人の顔をした梨音。

「そんな顔して……わかってる? 朝希の家族だって、幼なじみだって……アタシの気分ひとつでどうとでもなるんだよ」

 噛んで含めるように彼女は言う。指先は顎から唇を伝い、おれの鼻頭を弾く。

 かわいらしいたわむれ。その向こうにある冷徹な瞳。

 未宇の涙を思い出す。おれが最後まで信じてやれなかったもの。

「ホント、かわいいんだから……」

 おれを殺さないといけないくらい思い詰めてた未宇。

 おれの服従を微塵も疑っていない梨音。

 精液。死。マヌラス。

 守りたい命と、もう戻らない命。

 梨音の唇が近づいて――鼻先が触れ合った。

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