【20】未宇・B
「もう大丈夫なのか。その、怪我は」
「はい。すっかりよくなりました」
家への道を歩きながら尋ねる。ためらいなく頷く彼女を見て、やっぱりこいつは人間じゃないんだと思う。普通は斧が背中に刺さって三日で“すっかりよく”はならない。
「それで、話って」
声が冷たくなるのがわかる。歩調も速くなり、未宇の姿も見えなくなる。はやく家に帰りたい。そう思うおれの手を未宇が掴む――強く。
足が止まる。振り返るとうつむく未宇がいる。
彼女の顔がちゃんと見えないことに不安を感じる。手の感触や力強さ、ふたりで進む道……金曜の事件とは多くが共通していたけれど、徐々に暗くなっていく周囲と意図の読めない彼女のふるまいは、平山でのことを思い出させた。
あんなことをされたのに、疑ってもいるのに、未宇の存在を受け入れている。ふたりきりでいるのがその証拠だ。おかしいと思うのに否定できない。酷くされたのに拒絶できない。
「朝希くん……」
未宇がいつだって、こんな……心細そうな顔をするから。そのくせ、おれが見つめただけで、たまらなく嬉しそうな顔をするから。
声を聞けただけで幸せだって、そんな顔をするから。
「朝希くんのこと、好きなんです」
頬は真っ赤で。目は潤んでいて。どうしてこんな顔ができるんだろう。全部あげます、みたいな顔。おれを信じていて、おれのためならなんでもできるみたいな、そんな顔。
「わたしと……セックス、してください……」
だけど、違う。これは違う。
「前にも言ったろ。そういうのは――」
言いかけて口を噤む。おれのほうこそ馬鹿げている。もう、そういう話じゃない。
よほど酷い顔をしていたのだろう、未宇の体が縮こまる。その態度がおれの気持ちをますます煽る。
表情ひとつで一喜一憂する未宇。それに優越感を覚え、いつまでも彼女を心の中から追い出せないでいるおれ。
いらいらする。
「どうしておれなんだ。はっきり言ってくれ。もう嫌なんだよ、そんな――適当な言葉でごまかされるのは」
「朝希くん……」
一度口から出たら止まらなかった。ずっと思っていたことだ。変だと、おかしいと思って――はっきりさせられずにいたこと。
未宇の手を振りほどき、人目もはばからず叫ぶ。感情のまま――怒りのまま。
「おまえもおれの精液がほしいんだろ!? だったらそう言えよ! 好きだとかなんだとか、綺麗な言葉で取り繕わなくたっていい! 嘘まみれの言葉なんて必要ない!」
未宇は言っていた。最初から。おれの精液がほしいって。
大きな目が虚ろにおれを映していた。何かがスコンと抜けたような顔。おれには未宇が……ショックを受けたように見えた。
そう感じることにカッとする。そんな傷ついた顔をするなと。おれのほうがずっとずっと、傷ついているんだからと。
「う、嘘じゃないです……わたし……朝希くんのこと……」
「好きだってか? おれがなにしたっていうんだよ! おまえに好かれるようなことなんてなにもしてない! 気持ち悪いんだよ、そんな――おれなんかのこと――」
さらに声を荒げる。絞り出すような反論を叩き潰すみたいに。
そうだ、気持ち悪いんだ。何もしてないのに好きだのなんだのと、おれの気持ちを弄んで……。
未宇の瞳には涙が溜まっていた。目元は真っ赤で、口の端は引きつっている。数度瞬きすると、大粒の滴がぼろぼろとこぼれた。
泣かせたという罪悪感。どういうつもりで泣くんだという怒り。これ以上ないくらい罵倒してやりたいのに、言葉が見つからなくて何も言えない。一方で、そんな自分にほっとする。未宇が本当に悲しんでるように見えるから。これ以上傷つけたくない、笑ってほしいって――そう思う自分もいるのだ。
未宇は涙を拭わなかった。濡れた目を歪めておれをじっと見る。そこには悲しみと憤りがある。
そんな目で見るな。おれの怒りが、苛立ちが――バカみたいじゃないか。
「朝希くんは……わたしのこと、ちゃんと見てくれました。一緒にご飯を食べて……おいしいものを教えてくれて……わたしを気にかけてくれて……」
「そんなこと――」
「それでじゅうぶんです! わたあめ、すごくおいしかった……! でも朝希くんが食べて、おいしいって言ってくれて……もっとおいしく感じました! 食べるのがあんなに楽しくて、幸せなことだなんて思わなかった! わたしが気にしてることに興味を持ってくれて、同じものを楽しんでくれて……嬉しいって思いました、幸せだって……これが『好き』ってことじゃないんですか!?」
「それは……」
感情にまみれた叫び。でも、今までのものとは何かが違う。おれに向けられているのは変わらない。だけど明確な違いがあった。
未宇の瞳がどろりと濁る。さっき感じた未宇は消えてしまう。残るのは見慣れた彼女。おれが好きで、おれのためなら何でもするって……狂気的な献身を抱えた少女。
「あなたで……朝希くんでよかった。朝希くんのためなら……朝希くんが喜んでくれるなら、なんだってします。あなたの赤ちゃんなら何人だってほしい。ずっと孕んでいたっていいです」
言いながら、平たい腹をゆっくりさする。その仕草の不気味さと淫靡さに、腰が抜けそうになる。
「お、おまえ……」
「でも、そんなぜいたく言いません。一回だけでいいんです。抱いてください」
動けなかった。何を感じているのか、自分ですらわからない。恐怖なのか、それ以外のものなのか。理解できない激情に、指先一本動かせない。
未宇が近づいてくる。指がおれの腹に触れ、胸を伝い上がっていく。優しく身が寄せられる。いいにおいがする。あったかくて、柔らかくて……女の子みたいだ。
「朝希くんに抱かれて、朝希くんのこと気持ちよくできたら……今までしてきたことも、報われる気がするんです……」
滴るような声。聞いてるだけで胸が締めつけられる。甘くて、息苦しい。
頬の膨らみ。切なそうに落ちる、熱い吐息。
「嘘でもいいです……わたしのこと、好きじゃなくても……」
ぎゅっと目を閉じる。目を開けていたら、泣いてしまいそうだった。
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