【19】朝希・6

 学校は休校になった。おれたち以外の日常は変わらない。月曜になると母親は仕事に出た。不安そうではあったが。

 涼子は週末おれの家に泊まったが、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないと、今日から自宅で寝起きすることを宣言していた。ただそれ以外の時間はこっちの家にいることになっていて、おれたちはふたり同じ家で過ごした。

 あまり会話はなかった。話したとして脳裏にあの日のことがよぎり、自然とおれたちの口を重くした。クラスメイトの通夜の連絡はきたりこなかったりしていた。狭い地域で一度に大量の人間が死んで忙しいのだろう。史也の通夜の連絡はまだきていなかった。

 今日はともかく、明日は通夜の予定が入っていた。間仁田も死んでいて、彼女のものだった。たまたま同じ作業グループになっただけだ。裁縫が得意だということ以外、彼女のことはよく知らない。でも彼女にもおれと同じように人生があり……それが断ち切られ、二度と続かない。そう思うと悲しくなった。

 おれはほとんどリビングのソファの上にいて、ぼうっとしたり、まどろんだりした。史也との最後の会話を反芻して、そのたびに少しずつ泣いた。突き上げられるような激情は最初の一度きりだった。あとはずっと平坦で……鬱々とした気分の中、思い出したように悲しみが襲ってきた。それを必死に耐えて……でも耐えきれずに涙をこぼし……また陰鬱な沼に身を沈める。その繰り返しだった。

 この間まで「嫌い」のほうが勝っていた。たまに話すだけの、ただのクラスメイトでしかなかったのに。ちょっとわかり合えた気がして、友だちになれるような気がして――でも全部“まだ”だった。おれたちは友だち未満だったんだ。

 それなのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。

 日が西に落ち始めるころ、チャイムがなった。おれはそのとき夢と現実の狭間で、史也と会っていた。史也は涼子が好きだと楽しげに語る。おれも涼子が好きなのに、応援するような気持ちでそれを聞く。友だちがするみたいな何気ない会話のあと、「明日どっか行こうぜ」と一度もしたことのない約束をする。「うん、明日な」と当然のように返し、明日があるのか、と思う。それで少し嬉しくなる。

「アキちゃん。アキちゃん」

 涼子の声。体が揺れる。目を覚ますと彼女がのぞき込んでいた。泣いたあとのように胸が詰まっていて、慌てて目元を触る。そこは乾いていた。

「刑事さんが来てる」

 体が勝手に反応する。勢いよく起き上がり、玄関まで急ぐ。開け放たれた入り口には男性が立っていた。見たことのない格好だが、見覚えのある人だ。

「呉竹さん……」

 呉竹刑事は軽く片手をあげた。

「覚えててくれたんだ。嬉しいね」

「そりゃあ……」

 そう返しつつ彼の背後を伺う。視線に気づき、呉竹刑事は苦笑した。

「嵯峨さんはいないよ。今日は俺だけ」

「え? なんで……」

「きみと話したくて。嫌なら断ってくれていいんだ。強制力はない。なんなら俺って今日非番だしね」

 ただ断られたら、俺は「嵯峨さんには内緒にしてくれ」ってきみにめちゃくちゃ頭下げないといけないんだけど。

 呉竹刑事はそう言って笑った。おれは涼子と彼とを交互に見る。視線の意味に気づき、彼は続ける。

「きみだけでいいんだ、とりあえず。ここじゃなんだから、少し外に出れるか? 散歩しようぜ、ちょっとそこまで」

「待ってください。あんなことがあって間もないのに――」

 異議を唱えたのは涼子だった。呉竹刑事は不愉快そうに眉根を寄せる。

「日が経ってないから、外に出ない方がいいのか? 何日経ったって変わらないぞ。報道の通り――残った犯人は捕まった。動機やらなにやら解明しないといけないことはあるだろうが、だからって大局が変わるわけじゃない。そのうち学校だって再開される。嫌でもあの場所に戻ることになるんだ」

 口調が冷たいのに驚いた。涼子は口を噤み、じっと彼をにらむ。呉竹刑事はごまかすように手を振った。

「何度も言うけど、私的に来てる。断ってくれて構わない。だけど付き合ってくれるなら、こんなにいい散歩相手もないと思うぜ。なんせおまわりさんだからな」

 おちゃらけたように言って、呉竹刑事はおれを見る。背後からは涼子の視線を感じた。

 あのときと似ている。史也と最後に話したときと。

「行きます」

「アキちゃん……」

 不安のこもる声。これもあのときと一緒だ。予期せぬ誘いがあって、それに乗って……戻ったら世界がめちゃくちゃになった。

 今回はどうだろう。同じだとしたら、何か起こるのだろうか。

 地球が爆発するかもな――なんてふざけたことを思って、内心ひとり笑う。それならそれでよかった。今以上に最悪なことなんて、いったいいくつある?

 でもあのとき、史也の誘いを断ってたら。今ほどつらくはなかったかもしれないけど、一生後悔したはずだ。

「心配することないよ。呉竹さんの言うとおりだ。おれも外の空気吸いたいし……一緒に散歩するなら、これ以上頼りになる人もいないよ」

 呉竹刑事は小さく口笛を吹いた。涼子の目がそちらに向くと、音はぴたりと止まった。

「じゃ、行こうか。ちゃんと送るから安心して」

 そう言うと、おれを促し外に出る。おれも靴を履いてあとに続いた。

 母親が帰るころには話も終わるだろう。さすがに心配するはずだから、それまでには戻っておきたい。

 二日ぶりの外気は心地よかった。陽は優しい色がついていたものの、しっかりと眼球に爪を立てる。その痛みも気持ちがいい。健康的な刺激だと思う。

 近所に小さい公園のようなスペースがあるのを呉竹刑事は知っていた。そこまで行こうと誘われ、おれも頷く。

「応じてくれてうれしいよ」呉竹刑事は言った。「断られたら、本当にどうしようかと思ってた」

 彼はポケットから金属製のライターを取り出した。開けて、締めて――キンと澄んだ音がする。

「吸わないよ」

 呉竹刑事は苦笑する。それでおれは彼の手元を長々と見ていたことに気づく。

「きみの前だからじゃなくてね? もともと吸わないんだ。嵯峨さんもタバコ嫌いだし。これはなんつーか、お守りみたいなやつ?」

「お守り……」

「俺、妹がふたりいるんだけどね。去年の誕生日にプレゼントしてくれたんだ。わざわざバイトしてお金貯めてさ」

「お兄さんだったんですね」

「見えなかった?」

 得意そうに言われて言葉に詰まる。嵯峨刑事と一緒にいるところしか見たことがないから、なんとなく弟じみたイメージがあった。

「使わないけど、持ってるだけで勇気が湧いてくる。なんだってできる気がするんだ。心の支えって言うのかな。そういうの、きみにだってあるだろ?」

 すぐに反応できなかった。おれの心の支え。何かに立ち向かうためのもの。

 そんなものあるのだろうか。そもそも、それ以前の問題じゃないのか。

「恥ずかしいから内緒な」

 呉竹刑事は照れくさそうに頬を掻く。思わず「恥ずかしいですか?」と尋ねると、彼はくしゃりと相好を崩した。

「なんかシスコンっぽいだろ。俺のイメージじゃないんだよなあ」

「そんなことないと思いますけど……」

 彼の表情には優しさが滲んでいた。妹たちを大切に思ってるのが見てとれる。

「と・に・か・く! 男同士の秘密だ! 頼むぞ田嶋少年!」

 呉竹刑事は笑いながらおれの首を抱き、髪の毛をかき回した。

「わ、わかりました……」

 困惑しながらもされるままでいた。なんというか、近い人だ。前のおれなら距離を置いたかもしれない。合わないと感じ、馴れ馴れしいふるまいに辟易したと思う。でも今はそんな気も起きなかった。外見も体格もまるで違う。でも近さとか、距離の詰め方なんかに……おれは史也を思い出した。

 目的地はひとけもなく無人だった。こぢんまりとした家一軒分くらいの空き地に小さな滑り台があり、色つきのタイヤが地面から半分顔を出して敷地を囲む。公園かは知らないが、そう扱っていいスペースだった。

 呉竹刑事はタイヤをまたぎ敷地の内側に入った。視線を巡らし、近くの赤いタイヤに腰かける。おれもそれに倣う。ひとつ離して隣、黄色のタイヤに腰を下ろした。

 キン、とライターの音がする。待っていると、彼は静かに話し出した。

「きみの周りで起こってること……どう思ってる?」

 夕日がじりじりと肌を焼く。一方で、空の向こうから灰色の雲が伸びてくる。

「一度目はたまたまかもしれない。二度目も看過できる。だけど三度目になれば、それはもう偶然じゃない。なにか原因がある……そう考えたほうがすっきりするんだ。きみ個人か……きみの周りに。三つの現場すべてにいたのは、きみと矢代未宇さんだけ……違う?」

 肯定しかけて言葉を呑む。口調は柔らかかったが、呉竹刑事の目は警官のそれだった。推し量るような瞳。左側に下りた前髪が深く影を作り、顔つきを険しく見せている。

「きみが狙われてる感じはあった? 怪我はなかったみたいだけど……前の二件みたいな共通点は感じた?」

 答えなきゃと思うのに、思考がまるでまとまらない。制止の意味で片手をあげると、呉竹刑事は黙ってくれた。

「す、すいません。混乱して……」

「いいよ。当然だ」

 いつしかおれをのぞき込むように前傾姿勢になっていた呉竹刑事は、体を起こして空を見上げた。大きい人だ。改めてそう思う。

「よくわからないんです。おれの周りでばかりこんなことが起きるのは……変だって、おかしいって思うけど……じゃあなんでこんな風になってるのかってのは、なにも……。

 二度目のことがあって、ひょっとしたらレリーズのときも、おれのことを狙ってたのかなとは思ったけど……今回のはまったく、そんな感じはしませんでした。おれも襲われはしたけど……おれ個人というより、出会った人をそのまま襲ってたって印象が強いです。相変わらず、というのは変ですけど……みんな、なんだかクスリでもやってるような顔つきではありました。甘いにおいもして……」

 ライターをいじりながら、呉竹刑事は足下に視線を落とす。髪の毛が目元を隠して表情は読めなかったが、沈んだ雰囲気から何やら考え込んでいるのがわかった。

「おれも……聞いていいですか」

 言うと彼は顔をあげた。こちらを見て「いいよ」と笑う。

「どうしてひとりで、その……」

「嵯峨さんがいたほうがよかった?」

 茶化すようなつっこみに、慌てて首を振る。

「そういうわけじゃないですけど。非番だっていうのに、わざわざおひとりで来て……こういうこと聞くなら、お休みじゃないときでもよかったんじゃないかなって……」

「きみの住所なんて、完全に職権乱用して取ってきてるしね」

 呉竹刑事はアハハと快活に笑う。まるで他人事のような態度に、少し肩の力が抜けた。

「それに、たいら山での話は……信じてもらえてないと思ってました。おれもあのあと、あそこに行ったんです。ずっと森が続いてて……開けた場所なんてなかった。場所も、死体もないから……あれがあったことだと思ってるのなんて、おれだけなんだろうって……」

「矢代さんは?」

「未宇は……」おれはうつむいた。「よくわかりません」

 沈黙が落ちた。言えることは何もなかったが、無言が続くにつれ、このままではまずいのではないかと思い始める。警察の目が未宇に向くかもしれない。

 彼女のことをどう説明すればいいかはわからなかった。未宇は人間じゃないと思っていたし、背中から垂れる血をもってしてもその疑いは拭い去れない。でもこの異常者たちについて、彼女はおそらく何も知らない。程度はともかく、おれを守ろうとしただけだ。

 言葉に迷っていると、先に呉竹刑事が口を開いた。

「きみが、そういう……つまり、警察をからかおうとするような人間じゃないことは……嵯峨さんも、もちろん俺も。理解してるつもりだよ」

 ひと言ひと言選ぶように彼は話す。慎重に、どこか言いにくそうに。

「でも。きみはなにか……知っていて。隠していることがあるんじゃないかな」

 心臓が跳ねる。手がわずかに痙攣した。

「嘘はついてない。でも言ってないことがある……そう感じる。そこが、嵯峨さんと俺の違うところだ。

 嵯峨さんはきみが純粋な被害者で、今後もなにかに巻き込まれる可能性があると思ってる。でも事件の輪郭が掴めてないから――まだ掴めてないんだ、おかしいよね――きみを守る案も出せない。わかってるのはきみが狙われるという結論だけ。本当を言えば、それすらもわかってない。おそらくこうだろうという推測によってる。

 でも俺はきみが……狙われる理由を知ってるんじゃないかと思ってる。今までの襲撃と結びつけることはできなくても……なにか、自分の……なんて言うのかな。特別性? 他の人間とは違う、自分だけの要素。狙われる理由。それを知ってるんじゃないかって。

 嵯峨さんは俺の上司だ。顔は怖いけど、子どもには優しい。強く出れないんだ……特に“被害者”になった子どもには」

 いつしか彼はまっすぐおれを見ていた。雲が太陽を隠し、空は暗くなっている。だが彼の視線には、わずかに夕日の名残があった。

「だからひとりで来た。きみと、嵯峨さん抜きで話がしたくて」

 手が伸びてきておれの膝に触れる。そこには熱があった。ぬくもり。人間の温度。

 ――マヌラス――。

 慣れない単語が胸を貫く。おれを特別たらしめるもの。自覚はないし、今の今まで半ば忘れかけていた。だけどおれが狙われて、その理由がおれ自身にあるのなら……他に心当たりがない。

 おれの精液を巡って、あんなに人が死んだ??????????

 くは、と口から息が漏れた。笑ったような音だった。でも直後に口元は歪み、視界がぼやけていく。瞬きをすると目の縁が濡れた。

 バカじゃないのか。そんなことってあるのか? じゃあなんだ。おれが精子を出してさえいれば――いつどこに出せばいいかなんて知らないけど――それさえあれば、あんなことにはならなかったのか? 間仁田も史也も死ななかった?

「た、田嶋くん?」

 動揺した声。何か返そうとするけれど、震えた吐息しか出ない。両目を押さえて、体を丸めて。指の隙間から涙がぼろぼろとこぼれた。

「大丈夫だから、落ち着いて……」

 体温がすぐ隣に来て、大きな手が背を撫でる。それにますます感情が高ぶる。

 そんなことで。そんなバカみたいなことで。史也。あいつの家族も、友だちも……おれだって。こんなに悲しい。精子――おれの精液!?

 こんなものいくらだってくれてやる。どうして史也を殺す前に、学校をぶっ壊す前に、おれに言ってくれなかったんだ!? それで全部済む話じゃないか!!

 眼前にハンカチが出される。夢中で掴んで目に押し当てた。水分が吸われていく感覚。香水だろうか、風通しのいい森の中みたいなにおいがする。

 しばらくそうしていた。呉竹刑事は何も言わず待っていてくれた。雲の間からまだ陽光は見えていたけれど、空気の熱は失われつつある。忍び寄る夜の影が茹だったおれの頭を冷ました。

「……大丈夫?」

 肩の震えが収まり呼吸も落ち着いたころ、呉竹刑事が尋ねた。おれは頷き、重たい頭を持ち上げる。

 瞼も重くて、他人のものみたいな違和感があった。こめかみは痛いし頭痛もする。その代わり気持ちは凪いでいた。

 おれのせいだという確信があった。

 実際そうなんだろう。おれのせいだ。全部。

 どこで間違ったかはわからない。何をしたら未来が変わったのかも。なんなら、何も間違ってないかもしれないのだ。

 でも、おれのせいだ。

 おれがいたから。おれがそんな、マヌラスだとかいうものだから。学校に不審者が侵入して、六十八人死んだ。

 呉竹刑事はおれの隣に移動していた。筋張った手と長い足が視界に入る。綺麗なシルエットのパンツとジャケット。おしゃれな人だ。時計は五時を指している。真剣な表情。心配してくれてるんだろう。きっと信頼できる人だ。嵯峨さんと同じく……。

「田嶋く……」

 声が止まる。彼はおれのうしろを見ていて、思考能力が落ちてるおれは、刷り込みされた雛のように彼に続く。

 そこには少女が立っていた。熱のない風に髪の毛がそよぐ。ぎゅっと体を抱きしめるようにして、何かを決めたような固い目で。彼女はおれたちを見つめていた。

「未宇……」

「あー……」

 背後で呉竹刑事が唸る。「まいったな」と小さく続く。

 未宇は元気そうに見えた。あれだけ苦しんでたのが嘘みたいだ。自分の足でタイヤの枠組みの外に立ち、弱々しくほほえみかけてくる。

「待ってます。お話が終わるまで」

 おれたちは顔を見合わせた。呉竹刑事はまだ話がありそうだったけど、未宇の前で話す気はないようだった。彼女も立ち去る気配がない。少し待って、呉竹刑事はわかりやすくため息をついた。

「……ダメだな。もう行っていいよ」

「でも」

「また次の機会にするさ。本当は今、話してほしかったけど」

「……はい」

 未宇の方へ促され、タイヤをまたごうとする。その手をぐっと掴まれた。

「く、呉竹刑事……?」

「次があるなんて思うなよ」

 彼の表情は険しかった。行くよう促されたのに止められて、「次でいい」と言われたのに責められて。相反する行動を浴びて焦燥が再来する。掴んだ手からそれが伝わったのだろう、込められた力がふっと緩んだ。

「少なくとも、俺がきみなら……そんなこともう思えない。そりゃあ、次はあるさ。俺ときみも、次の機会に会えるだろう。話はそのときでいい……それはそうさ。でも、絶対そうなるってわけじゃない。わかるだろ?」

 言葉に熱がこもっていく。視線に射すくめられる。同じくらい熱量のこもるそれ。

 そうだ――わかる。『明日』は、『次』は……等しく得られるものじゃない。

「今この機会が、関係が……次も同じなわけじゃない。きみがなにかの容疑者になってるかもしれない。俺が死んでるかもしれない。明日しようと思ったことが、明日にはできなくなっている。そんなことは普通にあるんだ。だから俺は今日きみに会いたかった。きみから話を聞きたかった。今日できたことを後回しにして、後悔したくなかったんだ」

 言い終わると彼は手を離した。浴びていた熱がすべて消え、喪失感を覚える。

「行っていいよ……もう止めない。本当に、この話は次でいいんだ。俺たちはまた会えるだろうし。ただひとつだけ、俺がきみに会いにきたことは、嵯峨さんには内緒にしてくれると――」

 軽い口調で彼は続ける。その服の裾を小さく握った。驚いたように口を噤む呉竹刑事を隠すように立ち、おれは小声で言う。

「心当たりがあります。ただ、あまりにも……ふざけた話だから。信じてもらえないと思う」

 呉竹刑事の目つきは警官のそれに戻った。押し殺した声が返ってくる。

「それはおれたちが決めることだ。きみが信じることなら、それをそのまま伝えてくれたらいい。悪いようにはしないよ」

「長い話になるんです。今は……」

 背後を見やる。未宇は変わらずそこにいて、言葉なくおれたちを見ていた。

 呉竹刑事は頷き、おれの手を取ると軽く握った。それに勇気づけられる。

「次……会ったときに、必ず話します。信じてもらえなくても……。だからそのときまで……呉竹刑事も、死なないでください」

 おれは真剣に言ったのに、呉竹刑事は破顔した。茶化された気がして不満に思う。それに気づいたのだろう、彼はなんとか表情を整えようとしていたが、そのうち諦めたのか隠す気もない笑顔を向けた。

「大丈夫、俺は死なないから」

「本気で言ってるんですよ」

 おれのふてくされた声に呉竹刑事は頬をさする。物理的な手を加えても笑ったような口元は変わらなかった。

「嬉しいからだよ。心配してくれるんだなって」

 そう言って立ち上がり、おれの頭を撫でる。

「優しい子だね、きみは」

 そんなことない、と返そうとして思い直す。こんな調子の彼に気を遣うのも癪に障る。無言で呉竹刑事を見上げると、彼はまたおかしそうにした。好きに笑っていればいい。人の気も知らないで。

「そんなにむくれるなよ。ご機嫌ナナメになったからって、約束反故にするのはなしだぜ」

「わかってますよ……」

 呉竹刑事はタイヤを乗り越え、軽く手を振り去っていった。安堵と不満を抱えつつその背を見送る。

 茶化していいところと悪いところがある。さっきのは、茶化してほしくないところだった。嫌な大人。

 でもあの人は、きっとそういう人なんだ。そう思える自分に成長を感じた。

「朝希くん……」

 満足感に浸っていると、うしろから声がかけられた。その音に背筋が震える。

 振り向くと未宇が立っていて、おれの視線を受け嬉しそうに笑う。学校がないから、当たり前だけど私服で。ずっと変わらないクラシカルな格好。襟が高いシャツに大きなリボン。腰の細い、エプロンみたいなスカート。フリルのついた長いソックス。

 普段は気弱な彼女が決して変えない、個性的な服装。

「お話があるんです」

 ――まだ終わりじゃない。

 漠然とそう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る