【18】朝希・5(2)

「せっかくだし、宗田さんの顔見てから戻るわ」

「あそ……」

 ついてくる史也の足取りは軽かった。鼻歌でも歌い出しそうだ。現金だなと思いつつ、悪い気はしない。気持ちはわかる。

 戻るとふたりは真剣な面持ちで顔を突き合せていた。重苦しい空気にぎょっとする。史也も意外に思ったのだろう。「どしたの」とかけた声は焦っていた。

「アキちゃん……!」

 涼子は心底ほっとした声を出し、おれたちは少し気まずくなった。史也がおれに何かするかもしれないと心配していたのは明らかだ。結局そんなことはなかった――あったかもしれないけど、過ぎたことだ――が、彼女の中では違うのだろう。

 素直に喜べなかった。背後を見なくたって、史也が傷ついてるのはわかる。

 涼子から目を逸らし史也を見上げる。案の定、表情はこわばっていた。

「史也、午後も教室にいんの?」

「あ? ああ……いや」

 突然の話題に、史也は鈍く反応する。

「運動部は今日だいたいそっちの準備するじゃん。バスケ部はいいのかなと思って」

 おれは続ける。気になっていたことだ。自分からの話題の提供。間違ってない。

 説明する気分じゃなかった。仲良くなった、仲直りした……どの言葉もしっくりこないし、それを涼子に報告する自分もしっくりこない。母親じゃないんだ。

 それに何より、彼女が史也を傷つけたことに……おれは少し腹が立っていた。

 事情が事情だからしょうがない、おれを心配してくれたからだ……弁護の言葉はいくらでも出る。どれも正しいから、責める気にはなれない。でも腹が立った。

「ホントはあるんだけどな。クラスのほうが終わらないからーって言ってある。今までは俺たち中心にやってたんだし、今日くらいはいいだろ。午後にはちょっと顔出すつもりだから、少し抜ける」

「そっか」

 史也と会話をしている。新鮮な感覚だ。そう思うくらいには、おれは彼と話してなかったんだろう。言葉を交わしてはいたけれど、会話じゃなかったんだ。

 チャイムがなった。昼休憩も終わりだ。

「待っててよ」

 弁当箱を取りに行く。手早く片付け、座ったままのふたりを「行こう」と促す。

「アキちゃん……」

 何か言いかける涼子を目で制した。今はこれ以上、何も言わないでほしい。

 史也は待っていてくれた。普段と違い、今日の行動の裁量権は生徒側にある。昼休憩が終わったら作業を再開することになっていたが、集合時間は特に決まっていなかった。

「戻ろ」

「ん」

 史也の隣に並ぶ。相変わらずでかかったけど、もう負い目は感じなかった。むしろ背後に壁を感じる。そのくらい今のおれは、史也に仲間意識を持っていた。

「仲直りしたんだ」

 肩が跳ねる。言ったのは涼子だ。声色は明るいが、どこか平坦だった。

 内心ひどく焦る。あれでわかってくれると思った。何も言わないでくれると思ったのに。

 史也は歩調を緩めて振り返った。頭上で「ん~」と声がする。聞こえかたで顔の向きがわかった。こちらを見下ろしている。

「そんな感じ」

 それだけ言って前を見る。その態度や声の調子で、いろいろとわかってしまった。涼子のことは好きだし、いいなと思ってるけど……それはそれとして、今はそんなに話したくないな、と。おれと似た気分、似た感情でいる。そんな気がした。

「お前部活入ってなかったよな。明日シフト何時からなの」

 涼子の答えを待たないまま、史也はおれに話を振る。それがますます思考を補強する。

「普通に朝から。ホール」

「まじ? なに着んの」

「……ゾンビメイド」

「きっしょ」

「積木もやるだろ!」

「めちゃくちゃキレてたぞ」

 そう言ってバカ笑いする史也は、なんというか、おれの嫌いだった史也と何も変わっていなかった。でも今は、普通だ。そんなに嫌いじゃない。

「へえ――」

 背後で小さく声がした。あまりにも遅い反応。拾っていいかわからず、おれは聞かなかったふりをした。

 そうして教室棟まで戻り、二階へ上る階段にさしかかったころ。外の方から、ガランガランガラン……と、金属のぶつかり合う音がした。

「なんだ?」

 階段を上りかけた足が止まる。やけに大きな音だった。屋台の骨組みがふたつみっつ、重なって倒れたと言われても納得するくらいの。

 誰かが何か言う前に、また同じような音がした。人の叫び声も聞こえる。

「屋台?」

「ぽいな。見てくるわ。うちのかもしれん」

「おれも行く」

 ふたりで玄関へと向かう。特に声はかけなかったが、涼子と未宇もついてきた。

 玄関にひとけはなかったが、外は驚くほどざわついていた。硬い物がぶつかり合う音がひっきりなしに聞こえる。ガンガンガン、と何かを打ちつける音。悲鳴と唸り、怒号。上のほうから――おそらく校舎の窓からだ――投げられる切迫した声。

「やだああぁああああ!」

 女子の声だった。外から聞こえたかと思うと、すぐ玄関に飛び込んでくる。彼女は止まることなく校舎内に上がり、おれたちの脇を通り抜け……正面にある、職員室への階段を駆け上っていった。

「なに……?」

 涼子がこぼす。

 少女は土足で。あっという間に視界から消えた袖口は、黒く汚れていた。

「なんか――」

 その影を追うように、覚えのあるにおいが流れる。

 生臭い鉄さび。

「やばいかも――」

 言い切らないうちに人がなだれ込んでくる。軽く二十人は超えていて、外にはたぶんもっといる。靴を履き替えようともたつく人間もいれば、そんなの知ったこっちゃないとばかりに土足で駆けていく人間もいた。彼らの動きは俊敏で、廊下に突っ立ったままのおれたちは道ばたの石のように蹴飛ばされる。勢いよく飛び込んできた男子生徒に突き飛ばされ、バランスを崩したおれは背後の未宇に支えられた。

「なにかあったんですか?」

 玄関でもたつく生徒のひとりを捕まえ涼子が尋ねる。彼は見開いた目を向けるとつばを飛ばして怒鳴った。

「警察呼べ、はやく!」

「けーさつ?」

 彼は携帯を握りしめていたが、手はぶるぶる震えていた。

 喧噪が近づいてくる。「やばいやばいやばい」「死ぬって」「警察」「やだ助けて」大小さまざまな声がして、戸口にはさらに人が増える。第一陣と違い、彼らのあちこちには赤黒いものが付着していた。

「来てるよお!」

 奥で誰かが叫び、思わずそちらを見る。風を切る音がした直後、視界を遮っていた下駄箱の――端から――床一面に赤い液体が散った。

「おえっ」

 誰かがえずいた。

 ひときわ大きな悲鳴が上がる。もう思考は麻痺していたけれど、流れるように目を向けた。彼らが悲鳴を上げた理由――おれにもすぐわかった。

 生徒でも教師でもない。細身で金髪の男が外に立っていた。デニム地のつなぎを着て、薄い色のそれにはまだらの模様がある。

 ただ、あれを生地の模様と思ったやつはいないだろう。男の足下には肉塊と水溜まりがあり、模様と同じ色をしていた。

 男は小さな斧を持ち、刃の近くを握っていた。足下に倒れる生徒は直前まで走っていた。うしろから男が追いついて、短く握った刃で脇腹を裂く。何かをぼろぼろこぼしながら生徒は数歩走り、やがてアスファルトに倒れたのだ。

 白い顔がこちらを向いた。室内の空気が凍る。男は斧を振って血を飛ばし、勢いのまま走り出す。生き残ってここまできた生徒の大半はドアから離れ、下駄箱の奥まで下がっていた。動ける者はいなかった。誰ひとり、彼から視線を外せないでいた。

「閉めろ!」

 誰かが叫んだ。玄関のドアは彼らがなだれ込んだときのままで、間抜けなくらい開け放たれていた。扉に近い生徒が声を聞き、取っ手を見ながら後じさった。

 それで充分だった。男は速かった。扉を閉めるという手段を思いついてからの一瞬の逡巡で、彼はもう――たとえ今から扉を閉めようとしても、その手が叩き切られるほうが速いと思わせるほど近くにきていた。

「いやああああぁあああ!!」

 悲鳴をきっかけに残った生徒も散り散りに逃げ去る。おれたちもあてられた――当然だ。男は一直線に向かってくる。このままここにいたら、確実に殺される。

「ぎゃっ」

 奥から短い悲鳴が聞こえた。汚れた廊下の方だ。数人が固まって、中心に立つ生徒を見ている。彼は妙な姿勢を取っていた。ややのけぞり、手を前にやって……眼前の何かを見上げるように背を反らせている。

 実際そこには何かいた。誰かが立っているのだ。それは硬直した少年を持ち上げ、足を宙に浮かせた。

 横にいた女生徒が座りこむ。少量の水が流れる音がこもって聞こえた。足が一本伸びて彼女の膝を踏む。「ああ」と悲痛な声がした。

 ドン、と玄関から音がする。さっきの男だ。やはり模様に見えたのはただの血で、全身が赤黒く汚れている。目測を誤ったのかドアの端にぶつかるが、ぎらついた目を内部に向けたまま、勢いの止まった体をゆっくりと室内にねじ込んだ。

「え……?」

 もう一方では、宙づりになった生徒の体が投げ捨てられようとしていた。影に見えるのはつなぎを着た大柄の男だ。彼は生徒から何かを抜き取る。ちらりと見えた肉厚の刃は斧だった。もうひとりの男が持っているものと同じ――。

 ふたりいる。

 一斉に悲鳴が上がった。座りこんだ女生徒のさらに奥――一年生の教室と、おれたちの背後――体育館の方からも。

 ふたりじゃない。もっといる。

 ふたりめの男が廊下に立つ。最悪な――本当に最悪なことに、それによっておれたちは分断されてしまった。玄関の中央付近に立つ史也と涼子。少し端に立つ未宇とおれ。

 涼子たちはふたりの男に挟まれていたが、幸いなことにすぐうしろには職員室への階段があった。史也の視線が緊張に揺らぐ。奥の男はまだこちらに注意を向けていない。そして今入ってきた男は、左手の史也たちよりも……右手のおれたちへ意識を向けているようだった。

 おれは後じさりながら顎で階段を示す。史也は頷くと涼子の手を取った。

「行こう、宗田さん」

「でも……」

「大丈夫だから」

 涼子のためらいで歩みが遅れる。奥の男が顔をあげたのが見えた。

「史也、急げ!」

 おれの声に滲む焦燥に気づいたのか、史也は涼子の手を強く引く。

「早く!」

 目は男たちから逸らせなかった。階段を駆け上がるふたりが視界の端に映る。

 早く。早く行ってくれ。

 相手も狙いを定めたらしい。今しがた声をあげたおれをふらふらと追い始める。

 史也たちの姿が消え、おれもふたりを意識から押し出した。今はこっちだ。おれたちも逃げなくては。

「未宇!」

「はい」

 一気に走り出す。途端、上から声が降ってきた。

「うわあ!」

 意識が乱れる。

 あいつの声だ――史也の。

 考える時間はなかった。男たちが追ってきている。だが嫌でも思考に爪が立つ。上にもいたのか。何人いるんだ? 史也は無事なのか。

 涼子は。

 階段にさしかかる。進路を変える視界の端で、背後の男――もう手が届くところまで来ていた――が、斧を小さく振り上げるのがわかった。

「――!」

 男の斧は当たらなかった。反対側からやってきた人影とぶつかったからだ。勢い余って床を転がり、男は視界から消える。もうひとつの影も反対側に消えた。金属が滑る音がする。斧も落としたらしい。

 おれは足を止めた。数段分を追い越した未宇が不安げに振り向く。

 戻って史也たちを追ったほうがいいか。ぶつかったのが生徒なら加勢すべきか。逃げることを最優先にするべきじゃないのか。迷いは致命的だとわかっているのに、多くのことが頭をよぎって動けなくなる。

 切り取られたような無人の空間に人の手がかかる。左側……おれたちを追ってきた男じゃないほうの人影。

 未宇を促し、自身も静かに階段をのぼる。踊り場を過ぎ、続く段に足をかけつつ、手すりから身を乗り出して階下の様子を窺った。

 それは正解だった。手の次に出てきたのは斧の先だ。見知らぬ顔。デニム地の肩。玄関で遭遇したふたりとはまた別の男。

 言葉もなく駆け上がる。戻るなんて選択肢はない。二階に行けば涼子たちと会えるかもしれない――そう思ったが、いつしか二階からも悲鳴が聞こえており、逃げようとする生徒たちが押し寄せて階段からは出られなかった。人の流れは上下に分かれ、おれたちはむりやり上への流れに乗る。下からは真新しい悲鳴が聞こえた。

 上へ向かう流れが強くなり、三階からも生徒が押し寄せ、狭い階段は人でごった返す。下からは悲鳴と粘性音と殴打音。そこに近い人間からは「さっさと上れ」と怒号が飛び、上の現状を知っている人間は「はやく下りろ」と絶叫した。堪えきれず手すりを越えようとして落ちた人間もいた。

 おれたちはどうにか三階へ出た。逃げてきた生徒たちからついたのだろう、赤黒い靴跡が教室の方から流れている。奥では逃げ遅れた人間のすすり泣きをかき消すように、粘性のものが打ちつけられる音が響いていた。

「朝希くん……」

 未宇の声は震えていて、胸が悪くなった。どういうつもりでそんな、か弱い女のフリをするんだ。ついひと月くらい前に、同じようなことがあったじゃないか。そのときおまえは何をしたんだ。何を……。

 眉をひそめ、鼻をひくつかせる。濃い血のにおい。鼻につくアンモニア臭。排泄物のにおいもする。煮詰まった死の香り。その奥に貼りつくもの。

 ねばついたにおい――信じられないほど甘く、べたついたそれ。

 思わず未宇をにらむと、彼女はびくりと身をすくめた。

「おまえ、なにか知ってるんじゃないのか」

「え……?」

「忘れたとは言わせないぞ。祭りの日の――」

「朝希くん!」

 未宇の鋭い声に、今度はおれが気圧される。しかし彼女の視線は背後にあった。振り返るおれの手を取って走り出す。目の前を風が切った。おれたちに続いて階段から出た生徒が、おれの代わりにそれを受けた。

「ぐぇ」

 潰されたカエルだ、と月並みなことを思った。でも現に彼の腹は潰れていた。斧がめり込み、一瞬へこんだようになる。そして弾けた。

 人間の腹が裂けるのなんて初めて見た――そう思った。さっき見たはずなのに。

 距離があったから、現実味に欠けていたのかもしれない。そんなバカなことを考えるくらいには、現実を感じる。頬にかかる血液。斧が当たり、衝撃で波打っただけに見えた体から、次の瞬間細長い臓物が飛び散る。排泄物と血の混じった悪臭。その向こうに存在する、甘ったるい香り。

 何度も、何度も……つきつけられ。刻み込まれて理解する。

 死のにおいは甘いのだ。甘ったるくて胸焼けがして、吐き気がする。

 四人目の男は大きかった。一階の廊下にいた男と同じくらいの体格だ。そのせいか斧は少し小ぶりに見えた。他の襲撃者たちと揃いのつなぎ。顔つきはレリーズや……祭りの日の男と比べてまだ正気があるように思えたけれど、目の焦点は合ってなかったし、歯は異常に噛みしめられていた。

 男は階段にいる生徒たちに注意を向けた。おれたちは走り続ける。自分じゃないという安堵、代わりに別の命が奪われることへの焦燥。戻ったほうがいいと思うのに、行ったって何ができるんだと思う自分もいる。実際その通りだろう。ただ死ぬだけだ。

 おれの手を握る力が強くなる。未宇の足取りに迷いはなかった。それまでの様子が嘘みたいだ。

「み、未宇」

 対しておれは震えていた。足取りもおぼつかない。彼女の先導に身を任せ、体を引きずるようについていく。

「反対側の階段から下りましょう。校内にはまだ生きてる人間も多いはずです。外から中へ入ってきたなら、逆に今……外は手薄だと思います。確認できただけで六人……人が集まっている学年側の教室から襲撃しています。特別教室側は後回しのはずです」

「未宇……」

「一階までは下りない方がいいです。玄関にはたぶん、まだいます。でも二階まで下りられれば……二階が手薄で、すでに“終わっている”教室に行ければ」

「未宇」

「窓から出られます。わたしが抱えて飛び降りますから」

「未宇!」

 未宇はようやく振り向く。頬は赤く色づいていた。うっとりとした目でおれを見る。

「そのくらいなら、私にもできます。朝希くんのこと、絶対守りますから」

 三階の特別教室は静かだった。血のにおいはないが人の気配もない。

 開け放たれた窓からは風に乗って悲鳴が流れる。サイレンの音も近づいていた。誰かが通報したのだ。当たり前だ。遅いくらいだ……。

 そこで初めてポケットの質量に気がついた。弁当箱はいつの間にか落としていたが、携帯はずっとそこにあった。通報できなかったのは――そんな状況になかったのは――おれも同じだった。

 たどりついた階段は、道程の静謐を裏づけるように真っ赤だった。道の両端にぽつぽつと人が倒れている。彼らはピクリともせず、何人かは人間としてのパーツが明確に失われていた。

「う……」

 口元を押さえる。たったそれだけで、吐き気は幾分かましになった。だが足は止まってしまう。ここを行かないといけないのか。道ばたの肉塊が今にも動き出しそうだ。自分の未来を暗示してるようで怖くなる。

「朝希くん」

 未宇が励ますように力を込めた。情けなくもすがってしまう。人殺しだと思って、警戒して、責めて……疑問は何ひとつ解決していないのに。繋いだ手が、今となってはおれの支えになっている。

 手を優しく引き、階段に足を下ろして――未宇は動きを止めた。空気が張り詰める。

 ぴちゃ、と音がした。

 ぴちゃ、ぴちゃ。下から近づいてくる、等間隔の水音。今、目の前に広がるような――濡れた階段を、一歩ずつ進んでいるかのような。

 手すりに真っ赤な手が叩きつけられる。湿ったそれは、今までは多少綺麗だったそこに赤黒い跡をつける。ごん、と続く大きな音。

 人影の動きはゆっくりだった。手で支えられ、少しずつ体の一部が露わになる。

 金色の頭。デニム地の肩。目はぎょろりと上を向いて、おれたちを捉えていた。

「あ……!」

 目が合ったと感じた瞬間、男の動きは俊敏になる。先ほどまでの重たい動きは見る影もない。手すりを支えに飛び上がり、勢いよく階段へと現れる。流れるように振り下ろされたもう一方の手には斧があった。まっすぐに未宇を狙っている。

 彼女はとびすさりそれを躱した。斧が階段で跳ね、反動で男も体勢を崩す。未宇の立て直しは早かった。よろめいたおれの手を引いてむりやり立たせる。

 教室側からはまだ殴打音がする。特別教室側の廊下にも悲鳴が流れていた。おれを引き寄せ、未宇は素早く周囲を見回す。

 おれの視線は一点にあった。男の横……上へと向かう階段。

「未宇、屋上」

「え? でも」

「開いてる、たぶん――」

 言い終わらないうちに男が飛びかかってくる。その動きに違和感を覚えた。素手で掴みかかろうとしたように見えたのだ。斧を持っているのに。

 何か変だ。動きは化け物じみているのに、なんだか……。

 未宇はおれを押しながら攻撃を避け、階段を駆け上った。男は通路を塞ぐようにして倒れる。即座に身を起こしたその床に、血でできた魚拓――この場合は人拓だろうか――体の跡がしっかりと残って、なんだか間が抜けて見えた。

 男の首が回転する。こちらを逃がす気はないようだ。屋上まで急ぎ、扉を押し開ける。やはり鍵はかかっていなかった。

 しかしすぐに「失敗した」と思う。そこに逃げ場はなかったし、鍵は――元はこちら側からこじ開けたのだ――かけることもできなかった。扉を塞げるものもない。だからといって体で塞ごうものなら、斧の餌食になるのは目に見えていた。

 それでもどうにかならないか試みる。だけど擦りガラスの向こうに人影が見え、慌ててその場から距離を取った。影は一瞬消え、次いでガラスがひび割れた。

 支えを失ったことで衝撃のままにドアが開く。向こう側には男がいた。斧を長く持ち、もう片方の手で緩慢に開く扉を叩き開ける。

 未宇がこちらをかばうように立つ。おれは男から目が離せなかった。焦点が合っていないのは他の男たちと変わらない。だが彼はやや上を見上げるような姿勢で、ずっと口を開けていた。

「大丈夫です」

 未宇は呟いた。先ほどまでとは違う、自分に言い聞かせるような口調だった。

「大丈夫……」

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