【18】朝希・5(1)

 週明け、事態は沈静化していた。

 許されたわけではない。クラスメイトからの拒絶は変わらなかったが、金曜日のやりとりと時間を経て、教室はおれを空気として扱うように意志を統一したらしい。遠巻きに何か言われたり、直接悪意をぶつけられたりすることはなくなったが、代わりに気にも留められなくなった。用があるなら言葉を交わす。しかし私的なやりとりは一切ない。

 涼子以外とほとんど話さないおれにとっては、元に戻っただけのこと……とはならなかった。親しく話すのが涼子だけなのであって、他のクラスメイトとまったく話さなかったわけじゃない。玄関で会えば挨拶もする。何気ない話をすることだってあった。それらが一切なくなったのは、思った以上にきつかった。

 ただ、ゴミのように扱われるよりはないものにされるほうがましだった。先週と比べると穏やかに時間は過ぎていった。

 おれの懸念も現実となった。涼子はそれまでの信頼があるため、変わらず教室での立ち位置を保持していた。物怖じせず存在感もあるので、無視は難しいのだろう。だけど未宇は……あの日一緒に退室した未宇は、腫れ物じみた扱いを受けるようになった。

 教室でパニックを起こしたことも原因だろう。だが彼女に気にした様子はなかった。己に話しかける人間がいなくなり、おれも遠巻きにされているので、これ幸いとばかりにおれたちのところへ来るようになった。

 梨音からアクションはなかった。一度学内で見かけたが、クラスメイトに囲まれて忙しそうにしていた。彼女の偽装した性格――明るく、人なつこく、ちょっと生意気で――あれをクラスでも通しているなら、人気もあるだろう。こうしたイベントごとでは中核にいてもおかしくない。

 おれから会いに行く理由はない。だからこの一週間、梨音とは口をきいていなかった。

 そうして金曜日になった。学祭の前日。この日は授業がなく、丸一日を準備に充てる。その代わり五限目が終わるまで帰ってはいけない。そういう決まりだった。

 おれたちのクラスはやることがたくさんあった。会場のセッティング、掲示物の撤去、飾りつけ。メニューの試作、動線の確認。同じ階にある教室の一角を調理スペースとして使えることになっていたので、そちらへの機材の運び込み。衣装の試着、シフト確認。何人かのクラスメイトの指示のもと、おれたちは仕事をこなした。

 おれと涼子と未宇はだいたい一緒に行動した。ときどき涼子が誰かに呼ばれ、そのときはふたりきりになる。おれから未宇に話しかけることはなかった。彼女のほうは会話を試みていたが、おれの反応が鈍いのでだんだんと口数も減っていった。

 露骨だったと思う。涼子といるときは気分も明るく、よく笑ったしよく話した。だけど未宇といるときは、ただ一緒にいるというのが正しかった。気が合うわけじゃないけど、他に相手がいないから共に行動する……よくあるいびつな友人関係。おれたちの空気はあれに似ていた。

 実際、未宇からのアプローチがなければ話すこともなかっただろう。今の関係だって友人とは違う。同情と関心と庇護欲と……そんなものがごちゃごちゃになって始まったつながりだ。加えて、そのころ感じていた愛着はもはやない。

 おれは未宇が人間じゃないと思っている。彼女は「人間だ」と言うし、嘘をついてるとは思えない。でも広場が一日で森になるわけはないし、あんな音が地面の下から聞こえるはずもないのだ。

 未宇は人間じゃない。「人間」だと言うのなら、それは思い込んでいるだけだ。

 未宇の熱烈さや視界の狭さは、思い込みの強さにつながる。あの言葉は嘘にならない。彼女が信じているのなら。

 死んだ男の話になると明らかに態度が変わった。だからあれはあったことだ。現場がなくても死体がなくても……においを、空気を、おれが覚えている。

 ――もっと自分を信じるべきだよ。

 ――間違ってるとしたら、それは世界のほうなんだ。

 楓の言葉を反芻する。何度思い返してもしっくりこない。強くて、傲慢で……おれじゃ逆立ちしたって出そうにない。

 だけど頭から離れない。思いあがった言葉だ……そう思うのに、今となってはおれの視界を晴らし、自分を信じる気にさせる。違和感があるのに頼ってしまう。だめだと思うのに手放せない。麻薬みたいな言葉だ。

 涼子が何度目かの呼び出しを受けて、おれたちはまた教室の隅に残される。

 ふと顔をあげると、反対の壁際に史也がいた。隣に積木の姿もある。バスケ部のほうはいいんだろうか。運動部はだいたいこの日で準備をする。だから三枝や町田など、運動部所属の生徒はほとんどがこの場にいなかった。

 視線を感じたのか史也がこちらを向いた。まずいと思ったが逸らすのが遅れ、ばっちりと目が合ってしまう。

 しかしそれも一瞬だった。無関心に顔を背け、史也は積木との会話を再開する。少し様子を窺ったが、おれを揶揄してるそぶりもなかった。

 ほっとする反面悲しくなる。史也にとってはその程度のことなのだ。

 そして、そう思う自分にも驚いた。

 クラスでも存在感のある史也と皆無なおれ。目が合ったって言葉も交わさない。そんな元の関係に戻ったくらいで、どうしてショックを受けてるんだろう。

「……朝希くん?」

 未宇の言葉にハッとして、ようやく視線を逸らした。いつまでも見てるのを積木にでも気づかれたら、何を言われるかわからない。

「なんでもない」

 そう言って視線を落とす。どこかで塗料でもついたのだろうか、おれの中履きは汚れていた。


 昼休みになった。各々が教室を出ていったり近くの席を確保したりする。カフェの席はおれたちの机で作られていたが、予定数以上の椅子は運び出されていたので座れる場所は少なかった。

 外で食べようと涼子が言い、おれたちは彼女の昼食を買いつつ適当な場所を探した。正門や校庭付近は部活の屋台が並んでいて人も多い。探し歩いて、辿り着いたのは体育館へ続く西側通路だった。未宇に迫られ、梨音に屋上まで放り投げられたあの場所だ。

 壁際に陣取り弁当を広げる。遠くに喧噪の火はあったが、ここは静かで心地よかった。人目がないから気にせず話もできる。

 といっても今の話題はたいていが文化祭のことで、衣装が上手く作れてよかったとか、誰々にはあの格好が似合ってたとか、明日頑張ろうねとか、そういう話だった。未宇の存在は心地悪かったが、涼子が彼女を気にかける以上何も言えなかった。

 昼休みが半分過ぎたころ、もたれていた校舎の壁――おれの頭上についた窓が静かに開いた。ふたりの目がこちらに向く。おれも振り向こうとしたが、涼子が「笠月くん」と口にしたので動きが止まった。

「今いい?」

「うん。大丈夫だけど……なにかあった?」

 立ち上がりかける涼子の動きが止まる。史也が制したらしかった。

「いや、宗田さんじゃないんだ。朝希に用があって」

 ドッと空気が重くなる。おれもだが、涼子も表情をこわばらせた。

「あー……アキちゃんに?」

 口調は硬く、拒絶がある。背後で史也が苦笑するのがわかった。

「だめならいいよ」

 呆れと嘲笑が混じった台詞。誰に向けられたものかはわかりきっていた。背中にそれがぶつかった瞬間、とっさに「いいよ」と返していた。

「いいよ、行くよ」

「アキちゃん……」

 心配そうな涼子を無視して振り返る。史也は表情なくこちらを見ていた。

「おれに用なんだろ」

 語気は少し荒く、自分でも感じが悪く聞こえた。史也は答えず、顎でおれを促す。

「すぐ戻るよ」

 立ち上がって即座に後悔する。おれへの用なんか思いつかない。何を言われるかわかったもんじゃない。それでもこれだけは確信がある。きっと、傷つくことを言われる。

 だけどここで逃げるなんて、それこそ涼子の影に隠れてることの証明だ。さっきの嘲笑はおれへのものだ。涼子の許可なしじゃ前にも出られない、おれに対しての。

 廊下に出ると史也は無言で歩き出した。背が高く堂々としてるから、並ぶと自分が余計に小さく見える。そんなことを考えて萎縮したことがあるのは否めない。

 それじゃだめなんだ。

 ずっと見ないふりをしていた。でも、逃げ続けてちゃだめだ。

 教室の中心には行けない。存在感もない。背も大きくないし、コンプレックスだって強い。だけどプライドを持たなきゃだめだ。涼子に男として見られたいならなおさら。

 虚勢でもいい。立ち向かわなきゃいけない。

 教室棟の方へ少し戻り、ひとけのない角で史也は足を止めた。ポケットに手をつっこんで傍らの壁へもたれる。おれは少し離れたところで彼の言葉を待った。

「……悪かったよ」

「……え」

 予想外なことに声が出る。呆気にとられるおれを一瞥し、史也は廊下に視線を落とす。

「俺さ。宗田さんのこと好きなんだよな」

 知っている。わかりすぎるほど。

「だから幼なじみって立場に甘んじて、お前が宗田さんにかわいがられてんの……すげえムカついてた」

「甘んじてって……」

 ぎろりとにらまれる。史也とはたぶん十センチ以上背が違うから、威圧感も重なって気圧されてしまう。

「じゃあお前、宗田さんに好かれるためになんか努力したことあんのかよ?」

 おまけに投げられた言葉にはぐうの音も出なかった。涼子の影響で身ぎれいにしてるとはいえ、それだけだ。“相手に好かれるため努力する”……聞けば当たり前のことだとわかるのに、初めて触れた考え方。自分がどれだけ傲慢に涼子との関係に甘んじてきたか、まざまざと突きつけられた気分だった。

 図星を突いたことに気づいたのか、史也は「ほらな」と鼻で笑う。

「俺はしてる。報われてはねーけど。どうしたらかっこよく見えるかとか、宗田さんの気が引けるかとか。毎日考えてるよ」

 いたたまれなかった。涼子から相手にされてない史也に対し、優越感を持ったことは一度や二度ではない。おれのほうが涼子に近い。おれのほうが好かれている……。結果だけ見ればそうかもしれない。けれど、史也はきちんと考え努力していた。おれは何もせず、その努力を嘲っていたのだ。

「お前は?」

「え……」

 いつの間にか下がっていた視線をあげる。史也はまっすぐおれを見ていた。力強い、意志のこもった目だ。プライドと己を持った人間の。

 答えられない。史也の前で「涼子に好かれるため努力したことはない」だなんて。彼の努力を踏みにじるし、何よりそれは敗北宣言に等しかった。

 だけど史也の聞きたいことは、おれが思うものとは違っていた。

「お前は宗田さんのこと好きなの?」

 同じくらい答えにくい質問。「そ、それは」と口ごもるおれへ間髪入れず続ける。

「宗田さんはお前のこと好きなの」

 史也は何を聞きたいんだろう。そんなこと、おれのほうが知りたい。

 何か言おうとしながらも、何も言葉が出てこない。視線をさまよわせていると、史也は大きくため息をついた。

「矢代さんといい、あの一年といい。なにがいいんかね……」

 呆れたような、諦めたような。こぼれた言葉は紛うことなく本心だった。正面切って批判されてるのに、思わず頷きそうになる。三ヶ月くらい前のおれも、まったく同じことを考えていた。

「宗田さんがお前のこと猫かわいがりしてんのは知ってるよ。おれが知りたいのは、お前から見てそれがどう映ってんのかってこと。ただの幼なじみとして可愛がってんのか、男として見てんのか。わかるだろ? それくらい」

 心臓が跳ねた。史也は続ける。

「俺は宗田さんのこと好きだけどさ。お前らがお互い好き合ってて、それに割り込もうとしてるなら、こんなにアホくさいことってないだろ。なんでお前があの一年と付き合ってんのかは知らんけど、好きで付き合ってんじゃねーだろなってのはわかるしさ」

「えっ」

 気づいてるとは思わなかった。よほど間抜けな顔をしていたのだろう。史也は皮肉っぽく口角を上げる。

「だって蹴落とすチャンスだろ、言っちゃ悪いけど。宗田さんをお前離れさせるには絶好の口実じゃないか」

 だから黙ってたのか。未宇とのことが続いて、おれが教室に居場所をなくしても。

 責める気にはなれなかった。かばってくれというのもおかしな話だ。でもやっぱり気分は悪くて、おれはむっつりと黙り込んだ。

「まあ、そういう細かい事情はどうでもいいんだ。お前があの子と付き合ってるなら、現実的な話、宗田さんとは表立って付き合えないわけだしな。でもそれとは別に、お前が宗田さんと一番近い男子なのは事実だろ。宗田さんはお前のこと好きなの? それとも、他の男が入る余地ある?」

 どうして今、こんなことを聞くんだろう。告白でもするつもりなのだろうか。

「おれが知りたいよ……」

 絞り出すように言うと、史也は満足げに「ふうん」とこぼした。

「じゃあやっぱりお前、宗田さんのこと好きなのにあの子と付き合ってんだ。噂もあながち間違いじゃねーじゃん」

「仕方ないんだよ……」

「そうなってくると、まだ頑張る価値あるな」

 言って史也は体を起こす。壁から離れて自分の足で立つ彼は、やっぱり堂々として、大きくて……かっこよく見えた。

 顔だけなら、史也より整ってるやつは全然いる。だけど彼には自信があった。自分だけじゃどうにもできないことを少しでもどうにかするために、努力していると言い切れる。その姿勢がすごいと思う。

 認めると同時に気づいてしまう。心で蠢く黒い感情。昨日今日得たものじゃない。ずっとそこにあって、けれど見ないふりをしてきたもの。

 体格に恵まれて、男としての機能もきっと問題がなくて。友だちが多くて、女子に健全な人気もある。

 憧れ。

 嫉妬。

 劣等感。

 ようやくわかる。史也が絡んでくれて、でもうまく“友だち”ができなくて。いろいろ彼に思うところがあったから、そのせいだとばかり思っていた。

 おれのせいなのだ。おれの……この感情が。無意識に表に出ていたから。

 じわじわと頬に熱が溜まる。恥ずかしかった。周りの男子より劣ってると思い込んで、ずっとうじうじしてきた。それは幸せな幻想だったと思う。

 今おれは心の底から感じてる。自分が劣っていることを。体格とか、精通とか、そんな話じゃない。もっと根本的なところで、史也のほうが一枚も二枚もうわてだと感じる。

「お前はせいぜい、好きじゃない子と付き合ってれば」

 嘲るような口調にカッとした。史也のこういうところが本当に嫌いだ。負けたと感じた相手に追い打ちをかけられ、怒りにわけがわからなくなる。

「涼子は――」

 だめだ。こんなことしたって、惨めになるだけなのに。

「涼子はおまえのこと、相手にしてないよ……」

 言葉の途中から罪悪感が膨れ上がり、言い切るころには後悔しかなかった。負け惜しみだ。それ以外の何物でもない。自分が一番わかっていた。

 史也は何も言わなかったけど、空気が悪くなるのはよくわかった。言葉もないのに、動きもないのに、それがわかるのはどうしてだろう。おれたちみたいな普通の人間にも……何か、そういう感覚器があるのかもしれない。

「……だから?」

 史也の口調は予想以上に平坦だった。怒りなんて微塵も感じられない。一瞬安堵したものの、すぐに空虚な気分になった。相手にする価値がないと思われただけかもしれない。

 完全な敗北感に息が詰まりそうだ。だけど史也が大きく舌打ちをして、おれの喉に風穴を開けた。

「お前になんだかんだ言われる筋合いないんだよ。宗田さんいてのお前じゃねーか。宗田さんがいなけりゃ誰も認識してない、ただの金魚のフンのくせに。あんまりでかい口叩くなよ、ダセえから」

 複雑な気分だった。実際に敵意を向けられて“やってしまった”と思う反面、独り相撲にならなくてよかったとも思う。でもやってることは、誰に対しても自慢できない、惨めの極致みたいな行為で。負けたと思った相手がこんな安い挑発に乗ったことに、無責任に腹が立った。

「それとも、いっぱしの発言権持ったつもりでいんのか? お前が?」

 お前なんかが俺に並べると思ってんの?

 史也の口調も表情も、続く言葉を明白に物語っていた。わかりきったそれを改めて突きつけられ、何もかもがどうでもよくなってしまう。

 嫌な人間になっていく。プライドも何もない、情けない人間に。今おれは、史也を傷つけることだけを考えている。何を言ったらやり返せるか、こいつにおれと同じ気分を味わわせられるか……それだけを考えている。

「そうだよな」

 こんなことしたって意味ないのに。史也にとっても、おれにとっても。

「おまえ、涼子目当てでおれに声かけてきたもんな」

 史也の空気がこわばって、おれは望みを遂げたことを悟った。格下のおれを利用して、それを見透かされて、あげくに指摘される。おれが史也だったらどんな気分だろう。少なくとも、最悪な気分だ。

「自分で行けばよかったのに。おれなんかに頼らないで」

「うるせえな……!」

 秋なのに、戸口が近くて外の風だって入ってくるのに、辺りはやけに熱かった。熱が思考を奪って冷静な判断ができない。感情のままに言葉が出てくる。

 おれはこいつが嫌いだ。おれにないものをたくさん持ってるのに、持たない人間への配慮がまるでない。自分と違う視点があることなんて認識しない。無意識に人を傷つけて、そんなことがあったことにも気づきやしないんだ。

「意気地なし」

「根暗野郎」

「性悪」

「ノリ悪いしよ」

「デリカシーもない」

「ヘタレ」

「自分勝手で」

「女の影に隠れて」

 悪口の応酬。バカみたいだけど必死だった。思ったことを全部出し切って、先に言うことが尽きてしまう。

「タマナシ野郎」

 そこに投げられた言葉は、予想以上に刺さった。

 不自然なくらい綺麗にすべてが途切れる。言葉も、呼吸も、動きも。おれが何も言い返さないから、史也も口ごもった。

 何も出てこない。だけど目も逸らせない。眉間が引きつっていた。視線が湿ってるのが自分でもわかる。泣きはしないけど、悲しかった。

「……なんだよ」

 史也が言う。文句があるのかと言いたげな虚勢のなかに焦りが見てとれて、なんだこいつ、と思う。そんな感じになるなら、最初から口に出さなければいいのに。

 でもそれは全部、おれにも返ってくることだった。きっかけはどうあれ、直接始めたのはおれだ。こうなることはわかりきってたのに。

「おれ、史也のこと嫌いだ」

 声も湿気っていた。細くて、投げやりで、情けない。

「俺だって嫌いだよ。お前みたいな女々しいやつ」

 史也も吐き捨てるように言った。

 おれたちの会話は終わったけれど、史也はその場を離れなかった。なぜだろう? おれも同じだった。お互いに言うことを言って、終わりを認識した。互いに嫌いだとまで宣言したのに。それでもまだおれたちは、このどうしようもない空気を共有していた。

「……でも」

 史也の意識がこちらに向く。おれは素直にそれを受け止める。

 苛立ちとか、悲しみとか、怒りとか。名残は確かに体表でくすぶっていたけれど、もう内には残っていなかった。今おれのなかにあるのは、何もない空間だけだ。

 そしてその空間は、史也を拒絶してはいなかった。

「涼子のこと好きなのは……センスいいなって思う」

 史也は何か言いかけてためらった。視線を逸らして、眉根をぎゅっと寄せる。それからもう一度口を開き、やっぱり何も言わなかった。

 ころころ表情を変える史也をただ見ていた。怒っているようで、困っているようで。そのうち口をきつく引き結び、不満げにおれを見る。

 言いたいことがあるなら言えよと思ったけど、それもそのまま返ってくるんだろうなと思った。おれは今どんな顔をしてるんだろう。あまり情けない顔じゃないといいけど。

 史也は大きく息を吐いて、同じ勢いで息を吸う。それを少しの時間肺に留めて、ふはっと吐き出した。短くて大きな音。笑ったように聞こえ、見れば口角が緩く上がっていた。

「……だろ?」

「うん」

 今度こそ本当に、終わったと感じた。でもそれはこの、重たい空気の終わりだった。

 史也は改めて壁にもたれ、うつむいて肩をさすった。おれを見下ろし、歯切れの悪い口調で言う。

「なんつーか……わかるだろ? 確かに俺はお前のこと、宗田さんのおまけっつーか……そういう意味で声かけたよ。でもそんな風に……使うだけ使っといて、いざああなったら手のひら返すってのは……別に俺には関係ねーことだけどさ……なんか……」

 おれも視線を落とす。史也の制服の膝の辺りが、擦れて光っている。

「いいよ、別に。あるだろ……立場とか、いろいろ……」

「うーん……」

 史也はその場にしゃがみ込んだ。壁に背をつけたままだから、制服が変に持ち上がる。襟が上がるのを気にした様子もなく史也はおれを見上げた。

「フーリがな。お前のこと嫌いなんだよな」

「それは、まあ……なんとなく」

 史也はおれに話しかけてくれるけど、おれは史也の友だちとは話さない。拒絶じみた雰囲気を感じるから、彼らの誰か……あるいは全員が、そうなんだろうとは思っていた。

「さっき、矢代さんと教室の隅にいるの見てさ……なにしてんだよって思ったんだよな。別になんか……馬鹿にするとかじゃなくてさ。ただ“なにしてんだ”って思ったんだ。お前もこっち見てたじゃん。前なら……」

 一度言葉を切って、史也は大きく頭を掻いた。

「前なら普通に絡みに行ってたのに、今はこうだからしないだろ。そんとき思ったんだ。今まで特に、考えなしに動いてたのにさ。今はなんか……体動かす前にわけわかんねーこと考えて……それで動くのやめるんだな、ってさ」

 史也は後頭部で壁を打つ。ごん、と少し痛そうな音がする。

「宗田さんも相変わらずお前にべったりだし、お前と距離取ったら宗田さんとも離れるし……結局なんにもならんなら、お前と仲良くした意味ないだろ。おれはただ打算でお前に近づいたやつになるし……実際そうだけど……でもそうじゃないって言い逃れできる免罪符みたいなのがさ……こうなるとまったくなくなるじゃんか。おまけに人に話しかけるとか話しかけないとか、いちいち考えるのが……」

「……史也っぽくはないよね」

「だろ?」

 史也は食い気味に同意し、すぐに小さく咳払いした。おれを睨め上げるものの、照れが混じっているのは明白だ。先ほどよりも軽く舌が鳴る。

「お前、もうちょっと男子と付き合えよ。周りに女子ばっか侍らせてるから、こうなったとき味方いないんだぞ」

 史也の言葉は正しかった。おれにもっと同性の友だちがいたら、違った結果になったはずだ。涼子は発言権も存在感もあったけど、特定のグループに属してなかったから、集団のバランスを崩すほどのパワーは持たなかった。正面切っての攻撃は防げても根本的な空気は変えられなかったし、女子への牽制力はあっても、交流に乏しい男子への影響力は低かった。

「どうやって仲良くなればいいかわかんないんだよ……」

「そんなの好みの女の話すればすぐだろ」

 勇気を出して吐露した悩みは一刀両断される。史也の世界はそれでいいかもしれないけど、おれの感覚ではそうもいかない。なんと返そうか迷っていると、史也は呆れた調子で続けた。

「男が好きそうな話題なんて限られてるだろ。お前俺にベートーベンの話振るのか?」

「振らない……」

「ちょっとは頭使えよ。歩み寄ればいいだけだ。簡単だろ? 同性より異性のほうが気が楽で……って言うやつたまにいるけど、そんなん男女問わず地雷だぞ。友だち作れないやつの言い訳だ」

 完全に同意はできない。でも、間違ったことは言われてなかった。おれは女の子の話が苦手だったけど、たいていの男子が女子の話を好むのは知っていたし、それに対して自分から歩み寄ろうとしたことはなかった。

「確かに下心はあったけど、俺はお前と仲良くする気あったんだぞ。だけどお前はなかったろ。お前のほうから俺に話振ってきたこと、何回あったか覚えてるか?」

 とどめとばかりに言い放たれる。それでおれは今度こそ――完全に言葉を失った。

 今まで何をしてきたんだろう?

 ずっと誰かの好意に甘んじていた。自分からは行動も起こさず、ただ流されるまま。

 こうなったのは当然だ。おれはいったい、何をしたことがあるっていうんだ?

「そう考えたら、やっぱり俺悪くねーじゃん。罪悪感持って損したな。お前なんか友だちじゃねー、二度と話しかけんな」

 幸いだったのは、史也のまとう空気が変わらず軽かったことだ。言葉はきついし口調も投げやりだったけど、おかげでおれはその言葉が冗談だと気づくことができた。

「そこまで言う?」

 勇気を出して言い返すと、史也はにやりと笑う。彼の言うとおりだと認めるのは癪だったけど、おれはびっくりするほど女々しかった。史也にとってはきっと何気ないやりとりだ。友だちと腐るほどやってそうなその言い合いを、自分ができたこと。それがなぜだか……泣きたくなるくらい嬉しかった。

「言われたくなかったら宗田さんに好かれるようなヒント一個くらいよこせ」

 内心を悟られないよう、懸命に情動を押し殺す。おれがこんな……史也との友だちっぽいやりとりに感動してることが知られたら、間違いなくドン引きされる。おれ自身ちょっと引いているのだ。

 思考を散らすため、言われたことを考える。史也が涼子に好かれるのに必要なこと。

「……あ」

「あ」

 声が重なった。史也も思いついたらしい。だが口には出さず、視線でおれを促す。

 内容が内容だから言いだしにくかった。でも待たれているのは明らかだし、あまり黙っていてもよくない。せっかくうまくいってるのに。

「……今のおれに優しくしたほうが、涼子には好感触なんじゃない?」

「俺もそれ思った」

 史也は再度食い気味に返した。視線を合わせたまま、おれたちは少し沈黙する。

「やっぱ仲良くするか!」

「最悪……」

 思ったままを口に出せば、史也は弾けたように笑った。おれもこらえきれずくつくつ笑う。そのうち互いが互いの笑いに引っ張られ、いつしかおれたちはふたりしゃがみ込み、ヒーヒー言いながら肩を揺らした。

「悪かったよ」

 史也が笑いながら言った。

「おれもごめん」

 返すと史也は頷いた。謝罪の理由を理解してるかはわからなかったが、彼がただ頷いてくれたことで、おれも気が楽になった。

「頑張ろうぜ」

 軽く肩を小突かれる。こんなとき、今まで……変なプレッシャーを感じていた。何か含みがある気がして。あるいは、おれが理解できないことを押しつけられてる気がして。

 でも今は何も感じない。史也は「頑張ろうぜ」としか思っていないのだ。こいつはきっとそういうやつで……それを知らなかったのは、おれが知ろうとしなかったから。

 デリカシーはないし、現金だし、自分の物差しでものを測る。史也の嫌だと思う部分がなくなったわけじゃないけど、おれにも同じくらい嫌なところがあって、お互いさまなんだろうなと思う。おれのそういう部分を史也は受け入れて……だからというわけじゃないけど、おれも史也のそういう部分を受け入れられるようになった気がする。

 今までの乏しい人間関係。無条件の好意、信頼、接触……。史也との関係は、どれにも当てはまらない。すごいと思うところがあって、同じくらい嫌なところもあって。嫉妬したり、考えさせられたり、不愉快に思ったり。それでも最終的には「まあいいか」と感じて……今までより少し、近づいたような気さえする。

 この言葉が適切かはわからないけど。すごく……健康的に感じた。健康的で、普通の人間関係に。

 ――無条件の好意。無条件の信頼。

 ――不健康な人間関係。

 誰かに見られてる気がした。ここにはおれと史也以外……誰もいないのに。

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