【17】楓・2(2)
広場への道を過ぎ、さらに奥へと踏み込んだ。旧社殿へ向かう道は、登山者の負担を軽減するため右に左にと折れている。単調な斜面をしばらく行くうち気持ちも落ち着いた。けれどそれまでの無言が気まずくて、口は開けなかった。
その沈黙にすら慣れたころ、楓がぽつりと言った。
「なんかいいね」
彼女が立ち止まったのでおれも倣う。視線の先――道を覆う木々の隙間から、町のかけらが見えていた。人の存在を感じる……しかし姿は見えない……不思議な世界。
「今この景色を見てるの、私たちだけなんだよ。山に隠れてさ、こっそり町を見て……。なんだか特別な感じっていうか……人じゃないものになったみたい」
いいもの見つけたね、と表情が語っていて。おれはこっくりと頷いた。
「楓は……今までにそういうもの、見たことあるの」
「そういうものって?」
「おばけとか……人じゃないもの」
整備されてない道は落ち葉で埋もれている。隙間からは踏み石のようなものが見え隠れしていた。かつてこの道が使われた証左だ。
「うーん……ないかなあ。残念だけど……」
楓は何気なくおれを見て、同じ調子のまま尋ねる。
「朝希は?」
自分で振った話題なのに言葉に詰まった。態度に感じるものがあったのか「あるの?」と彼女は続ける。否定も肯定もできないおれは、苦し紛れに質問を重ねた。
「そういうものがいるって、楓は信じてる?」
否定こそなかったが、含みのある目を向けられる。質問で返すなということらしい。でも言葉を切ったが最後、回答権はこちらにくる。それは避けたかった。
「幽霊とか……妖怪とか……」
思考を停止して言葉を積む。楓が好きそうなもの。信じていそうなもの。
「宇宙人、とか……」
信じているか知りたいもの。
口が滑った――そう思う。だが楓は快活に笑った。声にも今までの倍張りがある。
「もちろん! 信じてなかったら心霊スポット巡りなんてしないよ!」
強い風が吹く。ざざざ、と乾いた音の流れがおれたちを包んだ。のみこまれそうになり、一瞬気を奪われる。
それが過ぎると静寂が戻る。喧噪は遠くにあり、聞こえるのは自分の出す音だけだ。
「幽霊はいる。宇宙人だっているよ」
もちろん、楓が出す音も。
力強い声にハッとする。目が合うと彼女は静かに続ける。
「朝希は感じない? 目の前の景色……これすら私たちは抱きしめることができない。地球はもっと大きくて、その向こうにはずっと広がる銀河がある」
楓は町のかけらに手を伸ばす。当然空を掴むが、実体があるように指先は動く。再度風が吹き、彼女はそれにも触れようとする。細い指の間を風が抜ける――そのさまが見えた気がした。
「この風すら……手には収まらないほどの力を持ってる。ここにあるのにすり抜ける。決して思い通りにはならない。存在を感じるのに捕まえられない」
楓は風から手を離す。おれを見つめる瞳には木漏れ日が溜まっている。
精霊のようだと思った。地に足は着いてるし、さっきまで一緒に歩いてたのを知ってるのに。それほど神秘的に見えたのだ。輪郭を失い、別のものに変じたっておかしくない。それは梨音との経験からの連想だったが、不思議と恐怖は感じなかった。
「私たちは小さくて……時に無力だよ。ここでしか生きていけない、世界の一部なんだ」
楓は森に視線を向けた。旧社殿のあるだろう方角だ。その様子は悲しげに見えた。
「私たちの知らないところには、人間の想像力なんかじゃ思いつきもしないものがある。私はそう信じてる。だから幽霊はいるし……宇宙人だっていると思う」
楓が瞬きすると、目から光がちらちらとこぼれた。
動けない。ここは道の途中なのに。
「朝希は?」
楓から目が離せなかった。意識せず口だけが動く。「おれも」と落ちた言葉は小さかったが、彼女には届いたようだった。
「行こっか」
おれたちは再び歩き出す。言葉はない。自然な沈黙だった。
ふわふわとした気分でいた。なかなかの距離を歩いたはずだし、整備の跡があるとはいえ今は山を登っている。情緒の乱れもかなりある。
けれど疲れは感じなかった。じわじわと枝葉を伸ばした興奮が電気信号を乱すのか、目が冴えているのに思考はぼやける。リズミカルな運動も心地よい負担だ。鋭敏なのにはっきりしない矛盾した体の中で、彼女の言葉が反響しては溶けていく。
時間の感覚がなくなり、楓の先導にただ従う。歩いて、曲がって、また歩いて……そうしているうちに道が開けた。
褪せた鳥居の向こうにはいびつな広場があった。奥には少し傾いだ木製の社が佇んでいる。かつては色があったのだろうが、今は鳥居と同様褪せていた。背後には山肌が迫り、周囲の植物が奇妙な軌道を描いて外壁を覆っている。
鳥居をくぐると、楓はほうと息を吐いた。立ち止まり遠巻きに社を眺める。おれも彼女に倣ったが、小学生のときに見たものよりも小さいな、というのが感想だった。
あのとき涼子とはどんな話をしただろう。
神社での取材が終わって、彼女が言ったのだ。旧社殿に行ってみないかと。昔は子どもが参拝できたんだから、自分たちに行けないはずがないと。母親が知ったら怒るだろうから、ふたりの秘密にしようと。
大人が「やってはいけない」と言うことをする。それに当時のおれは興奮していた。近くに寄って、社を眺めて……今は閉じている旧社殿の扉も開けた気がする。
社の背後に回り、山肌を近くに見た。崩れた跡だろうと涼子が言った。柔らかそうな壁だった。触れたら手が埋もれると思うくらいに。でもそんなに柔らかいなら、壁として存在できないはずだと彼女は言って。触ってみようと言われ、ふたりで山肌に触れたのだ。
「朝希!」
意識が現実へと戻る。楓は広場の中央、旧社殿を一段高くする石段の前で手招きをしていた。
「見て」
腰かけ、隣にくるよう誘う。おれが座ると視線で正面を指した。
「ほら」
鳥居の向こうはちょうど草木が低く、視界が晴れていた。切り取られたような空の中を雲がゆったりと流れる。木々を揺らす風の音、四方からする虫の声。昔の木材が音を吸い込むのか、背後の社はしんと静かで、現実と幻想の狭間にいる心地がした。
自然に身を任せ、おれたちはしばらく鳥居の中を眺めた。向こう側には人がいない。空と地面と木しかない。そんな世界に、不思議と心が安らいだ。
「面白いもの見せようか」
楓がそう言ったのは、この空間に馴染み、おれの心が相当凪いだころだった。呆けた口調で「なに?」と返せば、彼女はこちらを見ないまま抱えた膝に顎を乗せる。
「私が幽霊や宇宙人なんかの……存在しないと言われるものを信じてる、本当の理由」
「え……?」
手が片方伸びてくる。おれの手に触れ、そっと握る。
「私……超能力を持ってるんだよ。人の心が読めるんだ」
冗談なのか本気なのか判別がつかない顔だった。うつろなようで、目だけはしっかりとおれを捉える。口元は薄く笑んでいたが、どこか作り物じみて見えた。
「こうやって触れればわかるんだ。朝希がなにを考えてるか」
体がこわばる。手を抜こうとして……思いとどまった。楓も気づいたのか、繋いだ手に目を落とす。そこにあるのを確認すると「いいの?」と尋ねる。
「わかっちゃうんだよ。なんでも」
「……たとえば、どんなこと?」
空気に飲まれたのかもしれない。楓は非現実の続きにいた。そのせいか、超能力なんて荒唐無稽な言葉がスッと心に入ってくる。そこにあると信じられる。少なくとも、学校で出会ったエイリアンよりは……。
「たとえば――」
二度、彼女は小さく瞬きをした。瞳の端で何かがちらちらと揺れる。
「朝希の周りに宇宙人がいること。そして朝希も――それを知っていること」
息をのむ。それきり呼吸をするのも忘れてしまう。心臓の音が大きくなり、こめかみにまで上がってくる。
「朝希はそれを公にできない。なぜなら宇宙人も『朝希が自分の存在を知っている』ことを知っているから」
手のひらが湿る。思わず浮かしかけるが、きつく握られて離れない。
「宇宙人は強い力を持っている。人間なんかじゃとても……太刀打ちできないくらいに。その力で彼は……朝希じゃない……周りの人たちに危害を加えると脅してる」
楓は目を閉じる。長く濃いまつげが白い顔に影を作る。目が離せない。まつげの震えと唇の動き。かすかに上下する華奢な肩……そのすべてから。
「宇宙人はなにかを求めてる。朝希が持っている……でも、渡しても朝希自身にはあまり影響がないもの。それでいて彼らは持たないもの……なんだろう?」
指先が震えてる気がした。動悸のせいか、それとも恐れからか。
両方かもしれない。
見透かされてしまう。もうすぐ。
「彼らはそれがとても欲しい。なにをおいても……。単純なものじゃない……顔……戸籍……違うな、物質的なものじゃないんだ。物質の形を取ったとしても、本質は……」
まぶたがゆっくり持ち上がる。向こう側にあるものが、少しずつあらわになっていく。
「情報……」
虹彩の奥。強く光を放つ何かが、ぐねぐねとうねっている。
「血……?」
捕まる――。
手を振り払ったとき、思ったような抵抗がなくて拍子抜けした。いつの間にか楓は力を抜いていて、しかし急に質量が消えたことに驚いた様子だった。
「……あたり?」
少し得意げに彼女は言った。そこに突然拒絶されたことへの怒りはなかった。
否定も肯定もできない。心臓がバクバク鳴っていた。呼吸は大きく、けれど浅い。
「ほんとに……」
こぼれたのは、そんな質問にもならないような言葉だった。
楓は含みのある笑みを浮かべた。しかしすぐ、先ほどの延長のような顔をする。得意と茶目っ気の混じった目。そこにあの奇妙な光はない。
「びっくりした? 本当はただの推理。あとは……私の願望?」
「願望……?」
「宇宙人がいる前提で話してるところ」
私も宇宙人肯定派だから、と楓は笑う。楽しげな彼女をよそに、おれは落ち着かない気持ちで視線を逸らした。
「おれってそんなにわかりやすい……?」
「うん」
一も二もなく肯定されショックを受ける。返す言葉もなく黙っていると、楓が身じろぎする気配がした。
「いや……どうだろ。私が朝希のことよく見てるだけかも」
思わず隣を見る。楓は待ち構えたようにこちらを見ていて、目が合うとにこりとした。
「朝希の関心があるのは宇宙人だよね。心霊スポットの話から、幽霊や……百歩譲って妖怪が連想されるのはわかるよ。でも宇宙人はちょっと、私の感覚だとジャンルが違う。あのとき朝希が聞きたかったのは、幽霊なんかのオカルトと同様に、宇宙人というオカルトを私が信じてるかどうか……そうじゃないかな?」
その通りだ。先ほどとは別の意味で言葉に詰まるおれをよそに、楓は続ける。
「朝希はなにか理由があって、宇宙人がいると思ってる。だからあんなに深刻そうな顔で私に聞く。『いる』と言われてほっとする反面、自分では『信じてる』と断言できない。なにを疑ってるのかな。私が信じてること? でもそれを疑うのは、宇宙人の存在を疑うのと同義だよね。じゃあ、そんな朝希が『宇宙人はいる』と思ってるのはどうして?」
楓は鳥居に視線を向けた。片肘を膝につき、目を眇めて空を見る。
「朝希はなにかを見たんだ……その目で。だから自分の信仰がどうであれ、宇宙人の存在を認めざるを得なくなっている。
にもかかわらず、直接的なことは言わない。見たなら見たって言えばいいのに。それをしないのは、言えない理由があるから。信じてもらえないからじゃない。それなら明らかにオカルトを信じてる私の前で、言わない理由がわからないからね。
信じてないけど、それがいることを知っている。朝希はなんらかの接触を受けているんだ。強大な力を見ていて、自分の矮小さを感じてる……」
楓は再度こちらを見た。値踏みするような目つきに背筋が凍る。
「宇宙人は口外を禁じてる。守らせるために何をする? 生命を脅かすのが簡単だよね。でも朝希には恐怖が足りない。自分の命がかかってるなら、もっと恐れて……怯えてもいいはず。下手したら外にだって出られないかもしれない。
朝希という個人にだけ接触してることを加味すれば、彼らの目的は朝希自身や、その所有物にある可能性が高い。朝希にしかできないことをやらせるにしたって、一介の高校生には限界があるしね。
以上から、宇宙人が生命を使って脅すなら朝希以外のもののはず。大切な人……人間関係を把握できるほど、彼らは近くに潜んでるんだ。
じゃあ、目的はなんだろう? 命じゃない。顔や戸籍みたいな、取られたら生存に関わるものでもない。わざわざ接触してまで欲しいもの。朝希だけが持っていて、あげても特に支障はないもの。だけど朝希を殺してしまったら手に入らないもの……」
楓は言葉を切った。細めた目でおれを見て、緩く口角を上げる。
「どう?」
「……ホームズみたい」
明確な情報を与えた記憶がないのに、態度や空気でここまで読み切られている。それをただの推理と言い切るところが、昔見たホームズのドラマを思い出させた。
楓はおれの言葉を受け、今日一番の笑顔を見せた。
「じゃあ朝希がワトソンね。それとも、ベイリとダニールのほうがいい?」
「なにそれ?」
「その場合は私がダニールかもね」
楓はふふふと笑った。教えてくれる気はなさそうだった。
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