【16】涼子・4

 次の日は地獄だった。

 四六時中噂され、心ない野次を飛ばされる。涼子が庇うのも焼け石に水だ。事情を知らない側からすれば当然の報いかもしれない。だけど男子が他クラスの男子を交えてまでひそひそとやってるのを見たときには、さすがに眩暈がした。

 女子はもっとあからさまだった。どこから聞きつけたのか、今まで見たこともない子たちがクラスにきて、未宇を励ましたりおれを罵ったりする。だが未宇は「朝希くんを悪く言わないでください」と突っぱねるので、それ以上何も言えず帰っていった。未宇に悪気はないはずだ。でも空気はますます悪くなった。

 窺う視線、潜めた声がすべて気になる。おれのことじゃない――そう思っても、「転校生」や「後輩」といった単語と簡素な非難が組み合わされて聞こえると、どっと気が重くなる。おれのことじゃないかもと思って、結局はおれの話で。虚しい気分の浮き沈みをずっと感じていた。

 机に突っ伏して寝たふりをしたい、いっそ逃げだしてしまいたい……だがそうして拒絶の姿勢をとるが最後、状況はますますひどくなる。そうなったらもう、戻ってこれる自信がなかった。おれは少ないプライドで席にかじりつき、無心で授業を聞いた。金曜なのがせめてもの救いだった。

 気を遣ってか涼子はおれの側から離れなかった。離れたのはトイレに行くときと、昼食を買いに出たときくらいだ。一緒に購買へ行かないかと誘われたが断った。まるで知らない人間にまで噂されたらと思うと怖かったのだ。それならここで遠巻きにされてるほうがまだマシだった。

 戻ってきた涼子の隣には史也がいた。それまで困り顔でいた彼は、おれと目が合うと真顔で去っていく。見られたのに気づいた涼子も苦笑しつつ席に戻った。どんな話があったかは想像に難くない。でも涼子は口にしなかったし、おれも触れなかった。

 おれたちに言葉は少なかった。でも目が合うと、涼子は穏やかな――包み込むような笑みを向けてくれる。それでよかった。涼子だけはおれを信じてくれる。そう思えた。

 だけどそれ以外のとき、彼女の表情は固かった。おれへの態度にはホッとしたけど、何か考えている様子は気がかりだった。涼子は信じてくれる……そう思うのに、心に小さなトゲが刺さる。あれはポーズで、本当は違うんじゃないか。涼子もおれを疑ってるんじゃないだろうか?

 悪魔の声だ。

 涼子が好きだと気づいてから、彼女を信じられなくなっている。褒められても、愛情を注がれても――本心は別にあるのではと考えてしまう。

 不安なのだ。おれの気持ちと涼子の気持ちが違うから。涼子が好きだから――傷つきたくないから――浴びせられる最悪を無意識に想像してしまう。積み重ねた信頼があっても抑えきれない。

 でも同時に、傍にいてくれることが嬉しかった。おれが涼子を想ってるように、彼女もおれを想ってくれるんじゃないかと――そうでなくても、その萌芽くらいはあるのではないかと――そんな気持ちになれた。

 学校に来れるのは涼子のおかげだ。彼女がいてくれなかったら、おれは何もできなかった。今日だけじゃない。きっと、あの夏祭りの日から。

 ――あたしがいなきゃなんにもできないのに。

 ふと反芻された声に、背筋が寒くなった。


「あのさあ……」

 呆れたように言ったのは言祝だった。

 放課後、おれたちは集まって準備作業をしていた。話題の渦中にいるおれと未宇を、涼子を除いた四人は腫れ物に触るように扱っていた(といってもそれは未宇だけで、おれは存在をないものとされていた)が、涼子だけでなく未宇までもがあまりにおれを気遣う態度を取るので、困惑が広がっていたところだった。

「矢代さん、なんでそんな……少しは田嶋に怒ったりしないの?」

「え?」

 声を出したのは未宇だが、おれも涼子も三者三様の驚きを見せていた。ここ数日のあれこれに対し、誰かに直接疑問を投げられたのは初めてだったからだ。

 未宇は首を傾げ「怒るって、なににですか?」と言った。

「なにって、ふ、二股? かけられてたこととか……」

「ふたまた……」

 口の中で噛みしめるように呟き、彼女は首を振る。

「適切な表現だとは思いません。日下部さんとはそうかもしれませんが、わたしたちは恋人ではありませんし」

「ええ? だって……」

 言いかけて言祝は口を噤んだ。教室が静まったのに気づいたのだ。おれたち以外の班もぽつぽつといて、会話に耳をそばだてていた。

 噂の詳細は知らないが、この様子だとおれと未宇はしっかり付き合った上で揉めているらしい。そりゃそうだ。可愛らしい転校生におれが迫るならまだしも、付き合ってもないおれに迫っているのが未宇だなんて、普通は考えもしないだろう。

「お似合いじゃん」三枝が吐き捨てるように言った。「矢代さんもそれでよくて付き合ってるんでしょ」

「友加里! そういう言い方ないでしょ」

「付き合ってないんじゃないの?」

「はい」

「だいたいみんな騒ぎすぎでしょ」

「それはそうだけど――」

「そもそも田嶋なんかのどこがいいわけ」

「朝希くんは素敵ですよ」

「ねー矢代さんのそれも怖いって!」

「怖い?」

「ちょっと、やめようよ……」

 涼子が鋭く手を二度叩いた。言い争いの様相さえ呈し始めていた少女たちは黙り込む。

「関係ない話はいいでしょ。やることやって、さっさと帰りましょ」

 よく通る声は空気を鎮めた。多くが彼女の意見に同意し、意識を作業へと向ける。だが片隅で動くものがあった。三枝だ。

「関係ないことはなくない? あんたの幼なじみの話でしょ」

 誰しもが――涼子もだ――意外な目を向けた。三枝は敵対的だった。涼子に対し、面と向かってそんな態度を取る人間はめずらしかった。

「あんただって思ってることあるんじゃないの? あっちこっちにいい顔してさ。気持ち悪いんだよ」

「友加里、だめだって」

「なにがさ」

 涼子はじっと三枝を見た。反対に三枝は一度も涼子を見なかった。ふたりを交互に見ながら桑原はごまかすように「始めよっか」と言う。だが涼子は無視して口を開いた。

「あたしは知ってるだけ。みんながあれこれ言ってることも知ってるし、それについてアキちゃんになんにも責任がないことを知ってる。だから誰かに対する態度とか、なにかを変えたつもりはない。そう思うなら、それは友加里の意識の問題だよ」

「なんにも責任ないことはないでしょ」

「ないよ」

 三枝の言葉を両断する。だが彼女も負けてはおらず「なんで」と食い下がった。一瞬沈黙した隙を突き「言えないんでしょ」と嘲笑する。涼子は冷たい目で三枝を見つめ、静かに続けた。

「じゃあ友加里、説明して納得する? しないよね。一度こうなったら、止めるのすごく難しいんだよ。みんないつだってなにかを攻撃したがってるんだから。未宇ちゃん、アキちゃんに怒ってないでしょう。少し考えればそれでわかりそうなものだけど。噂が事実と違ってて、悪意が混じってることくらい」

 静まった教室に彼女の言葉が染み渡る。堂々とした涼子には威厳があった。言い回しは考えなく噂に飛びつく人間を非難していて、自覚ある者の意識が空気を重くした。

「だけど――」

「友加里」

 なおも口を開く三枝をぴしゃりと遮る。

 この場は完全に涼子のものだった。その彼女が話を終わらせようとしている。それでも諦めない三枝は、こちらが落ち着かなくなるほど場違いだった。

「友加里が私のこと気に入らないのは仕方ないけど、アキちゃんにまで当たらないで。それはフェアじゃないし、見てて情けないよ」

 それまで三枝を見ていた涼子の視線は、いつの間にかどこかに逸れていた。

「そんなんじゃ――」

 彼女は言い返そうとしたが、ふとこちらを見た。一瞬ぎょっとしたが、よく見ると視線は横を通っている。辿ろうとすると途中で涼子と目が合った。

「……帰ろっか?」

 涼子は困ったように笑った。ゆっくりと周囲を見回し、桑原のところで目を止める。

「エプロン、週末家で作ってくるよ。あたしの担当と、アキちゃんの分も……それでいいよね?」

「う、うん」桑原は間仁田を見る。「大丈夫だよね?」

「うん」間仁田も頷いた。「涼子ちゃんがそれでいいなら……」

「帰ろ、アキちゃん」涼子は立ち上がった。

 帰らないほうがいい――漠然とそう思った。今帰ることで、この空気から逸脱するのではないだろうか。

 渦中の人物がいなくなれば抑止力がなくなる。残された人間は好き放題言えるのだ。そして新たな空気が形成される。そこにおれたちの居場所が残る保障はない。

 そう、おれたちだ。おれだけじゃなく――涼子も。

「残って」声が震えた。「作ったほうがいいんじゃないか」

 皆が意外そうな顔をしたが、一番呆けたのは涼子だった。おれも当然帰りたいものだと――そう思ってたのかもしれない。

「わからないところがあったら、間仁田に教えてもらえるし……おれもちゃんと自分の担当分作れるか、不安だから……」

「りょ、涼子ちゃんもすごい上手だよ」

 間仁田が口を挟み、慌てて首を振る。

「あっ、帰ってほしいんじゃなくてね! 私はもちろん、みんなで作ったほうが楽しくていいと思うけど……私の力なんかなくても充分だよってことを、言いたくて……」

 語尾はどんどん萎んでいく。合わせて視線も下がり、机に落ちた。

 続けて何か言う人間はいなかった。間仁田の言葉は本心だろう。でも今、この空気のなか“みんなで”作業をしたとして、楽しくなるわけがなかった。

「帰んない? アキちゃん……」

 涼子が乞うように言う。おれはこっくりと頷いた。

「ごめん。やっぱり帰る……」

 小さく言って立ち上がる。途端にホッとした空気が流れた。

 三枝はいろいろ言うだろう。おれについてか、涼子についてかはわからないけど。仲のいい桑原は同調するかもしれない。間仁田と言祝は……わからない。考えても無駄だ。

 横目で未宇を見る。彼女はどうするつもりだろう。おれたちだけじゃない――未宇だって渦中の人物だ。

 だが、何か言う前に彼女も立ち上がった。

「わたしも帰ります。担当分は家で作ってきますね」

 口調は柔らかいがよそよそしかった。いつもはあんなに表情豊かで、隠しきれないほどの感情を溢れさせてるのに。今は素っ気なく、空っぽの中身にそれっぽい表情だけ貼りつけたみたいだ。

 おれがいないときの未宇。

「一緒に帰ってもいいですか?」

 未宇はおずおずと尋ね、涼子が「いいよね、アキちゃん」と問う。おれは頷き、ひと言も発さず教室を出た。背にした扉の向こうはしんとして、おれたちが階を去るころにようやくざわめきが戻り始めた。

 帰り道でふたりは頻繁に話を振ってくれたけど、混ざる気は起きなかった。漠然とした不安とともに、脳内でひとつのフレーズがくり返し回る。

 このままでいいのだろうか。

 よくはない――答えははっきりしてる。でもおれにはわからなかった。この不安が、何に起因したものなのか。

 教室の空気は悪い。でもこれはおれだけの力では変えようのないことだ。それに涼子が味方である以上、他に望むものもない。周りに彼女しかいないのは今までと同じだ。

 未宇のことはどうにかしなくてはならない。でもその手段がわからず手詰まりになっている。たとえ正面からはねのけても彼女はすがりつくだろう。というか、今も似たような状況だ。未宇が宇宙人という前提が宙づりになってからは、彼女について考えるのをおれも半ば避けている。

 梨音のことは……考えても意味がない。彼女との話は終わった。あとは約束を果たすだけだ。それがどんなに吐き気を催すことであっても、する必要がある。涼子や母親を守るために。

 空は暗かった。黒を濃く感じる藍色で、遠く端に橙の残滓が残っていた。

 冷えた空気が頬を撫でる。夜気に混じってどこかの家のにおいがした。甘く煮たカボチャのにおい。淡く香るシャンプーのにおい。

 見知らぬ家々に足を止める。カーテンの向こうに暖かい光が透けていた。

「アキちゃん?」

 呼ばれて声の方を見る。ふたりとも立ち止まっていた。揃ってこちらを見つめている。

 瞬間、脳髄から冷たいものが下りた。ぶるりと身を震わせる。それが体と空間とを切り離し、周囲から隔絶したような気にさせる。世界のコントラストが強くなる。

 影が伸びていく。道が妙に広く、同時に先細っても感じられ、そこに立つふたりも歪んで見えた。行き先を塞ぐ黒い塊。目だけがやけに光っている。

「どしたの、アキちゃん」

「い、いや……」

 その感覚はすぐ消えた。困惑しながらも歩を進める。おれを待って、ふたりも再び歩き出す。

 恐怖を感じた。

 宵闇のせいだろうか。未宇だけならまだしも、涼子もいるのに。

「帰ろう……」

 だいたい、こうやって未宇と歩いてるのもおかしな話だ。こいつは人を殺した。涼子もなぜ受け入れてるんだろう。話を聞いたはずなのに。未宇を許容している?

 証拠はない。死体も、何も。あるのは己の記憶だけ。

 呼吸がしにくい。暗がりが、夜気が、おれの首を絞める。花火の光。白い手。少し前を歩く体の横で、小さく揺れるのと同じもの。冷たい空気が細い指となり喉へと絡む。

 幻の殺人鬼。甘いにおい。泡のエイリアン。涼子が好きで、教室には居場所がなくて、好きな子は一緒にいてくれるけど、おれが恐れるものにも優しい。エプロンを作る。そして宇宙人とセックスする。精通したばかりなのに。二ヶ月くらい前のことだ。二ヶ月。まだ二ヶ月しか経ってない。

 本当はわかってる。ただ思考があまりに濁ってるせいで、本当に大事なものを掬いとることができない。

 おれの問題。向き合わなくてはならないもの。

 こうしていること自体が――目を逸らしてる証だというのに。


 未宇と別れ、涼子とふたりになってからもおれは無言だった。

 普段より遅い時間なので、母親のほうが帰りは早い。家に帰って夕食の準備を手伝い、みんなで食べて。母親にミシンを借りる約束をとりつけたあと、涼子は「打ち合わせがしたいから」と部屋に行っていいか尋ねた。

 おれはずっと心ここにあらずで、とはいえ他に考えることもなかった。疲れきった頭にからっぽの枠組みが入っている。脳の代わりに何もない空間が体を動かしていた。

 部屋に行き、ふたりで床に座る。好きな子が相手でも何も感じられないときがあるのだと初めて知った。自室にふたりきりで、目には涼子が映っているのに、頭の中は空白で、心に感じることもない。

 涼子はおれの態度を察しているのかいないのか、静かに口を開いた。

「聞いてもいい?」

 こっくり頷く。入りの時点で打ち合わせでないのは明らかだったが、おれは気づかなかった。なげやりな視線を床に落とす。

「未宇ちゃんとなにがあったの」

 言ったはずだ、それは。

 目をあげ、視線がかち合って。聞かれてるのは“そのこと”じゃないと悟る。

「梨音ちゃんとも」

 唾液を飲み込む。乾いていたのか喉の滑りが悪く、痛みに近い感覚があった。

 涼子は悲しそうな目を向ける。噂を信じてるのかと思ったが、続く言葉は違っていた。

「みんな、アキちゃんが二股かけたって言ってる。梨音ちゃんはそれを知ったから教室であんなことして、未宇ちゃんも気づいて……そういうことになってるの。

 でも、あたし知ってるもの。この夏アキちゃんといちばん一緒にいたのは誰? あたしだよ。今年だけじゃない……ずっとあたし。

 そんなことする時間アキちゃんにはなかった。女の子とふたりで遊んだのも、梨音ちゃんとプールに行ったあの日だけ。文字のやりとりで仲良くなって、恋人になって……それだけならまだしも、全部あたしに隠して普通にしてる。そんな器用な真似、アキちゃんにはできないよ。ずっと一緒にいるんだもん。そのくらいわかるよ」

 自分に言い聞かせてる感じがした。視線は徐々に下がり、膝頭へと落ちる。

「話してくれるの、待ってたけど。なにも言ってくれそうにないから……」

 何よりもそのひと言が心を抉った。黙りこくるおれに彼女は続ける。

「そもそも、アキちゃんは二股かけるような人じゃないんだもの。女の子のこと、すごく真剣に考えてくれてる。この子だって決めたら、きっと大切にしてくれる。あたしのアキちゃんは、そういう人だよ」

 涼子から目が離せなかった。瞳が再びおれを捉える。

「あたしって、そんなに頼りない? なにも言えないくらい?」

 言葉を作れなかった息が、数度むなしく肺からこぼれた。

 違うのだ。できるなら全部ぶちまけたい。なりふり構わず話したい。

 小柄な少女が脳裏に浮かぶ。彼女は月と一緒に出てきて、青い顔で嗤う……。

「違うんだ……」

 呼吸がようやく形になる。握りしめた手のひらに爪が食いこむ。

「涼子が大事なんだよ! だから、おれ……」

 何も言えないんだ。

 言い切る前に手が拳へと伸びてきた。ぬくもりが触れ、柔らかく包まれる。

「あたしだって、アキちゃんのこと大事だよ。アキちゃんが嬉しいことなら応援してあげたいし、苦しんでるなら……分かち合いたい。ひとりじゃどうにもならなくても、ふたりならなんとかなる。そういうこともあるはずだよ」

 じわじわと力がこもる。おれの手は押さえ込まれて、少しだって動かせない。

「お願い、アキちゃん。あたしのこと信じて……一緒に考えよ? 二股してたなんて信じない。だけどなにかはあったんだよね? ずっと変だもん。アキちゃんも、周りも。

 誰にだって秘密はあるよ。もちろんあたしにも。でも、ひとりで抱えてたら押しつぶされちゃうものもある。アキちゃんが今持ってるのは、そういうものじゃないの?

 いろんな人にあることないこと言われてさ。教室でだって……アキちゃんがそういう扱いされるの、あたし耐えられないよ。このままじゃだめ。絶対に」

 涼子の顔が間近にある。その瞳は熱かった。重なる手のひらよりも、よっぽど。

「あたしのこと大事だと思うなら……隠さないで。一緒に背負わせて」

「涼子……」

 おれは小さく首を振った。「……なんで?」とこぼれた呟きには深い落胆と失望が感じられ、そのひと言だけで心臓が冷える気持ちがした。

「どこで……どうやって聞かれてるかわからない。今ここでだって、監視されてるかもしれないんだ。おれが話したのがバレたら……」

 涼子が殺されるかもしれない。

「ここでって……部屋の中だよ? こんなところまで監視?」

「人間じゃないんだよ!」

 言い切ってからハッとする。口を噤み、目だけで周囲を窺う。耳を澄ませる。

 何もいない――音もない。声も、気配も。

 数十秒はそうしてから、ようやく肩の力を抜く。涼子は固まっていた。そこには色濃い不安が見える。

「どう、したの……なにか……?」

「涼子の気持ちは嬉しい。おれも全部話したいし、聞いてほしい。でも……この世には、人間じゃないものがいて……得体の知れない力を持ってる。涼子のことは信じてる。話してほしいってのもわかるよ……でもおれは涼子が大切で……だから話せないんだ。守りたいんだよ……」

 一瞬、涼子はきつく眉根を寄せた。眉間に深い皺が刻まれる。見たくなかった――でも気づいてしまった。不満、怒り、不信、不快……あらゆるマイナスの感情が、瞳の奥に凝っている。おれの目が捉えた直後、それらは溶けるように消え去った。あとにはいつもの涼子が残る。軽く眉尻を下げ、心配そうな表情を浮かべて。

 だけど、おれにはそのままの顔に見えた。“心配そうな表情を浮かべた”だけの顔に。

 おれの変化に気づいたのだろう、彼女は取り繕うように首を振る。

「嬉しいよ? アキちゃんがそう思ってくれるの……でも……いや……違くて……」

 涼子自身、何が言いたいのかわかってないようだった。失った言葉が部屋にあるかのごとく、あちこちへと目を滑らせる。

 彼女がわからないことをおれがわかっているのはめずらしかった。口元が笑みの形に広がる。見ずともわかる。そこにはまぎれもない自嘲があった。

「……信じられない?」

 視線がまっすぐおれに向く。見開かれた目には、平たく伸びた動揺が貼りついていた。

「信じてるよ!」

 間髪入れず涼子は言ったが、おれには響かなかった。続く言葉も上滑りして聞こえる。

 彼女はしばらく何か、おれを信じているという類のことを言った。おれも返事はしていたが、芽生えた諦めとむなしさが頭の開けた部分まで侵食して、何もわからなかった。

 今まで涼子といると得られていた感覚。何も言わずとも理解され、心地よいぬるま湯に包まれる――そんな感覚が、今は微塵も感じられない。陸に放り出され、波にも見捨てられた海洋生物の気分だ。

 知らない場所へ置き去りにされる。今までの世界から隔絶されたところまで……。

「アキちゃん……?」

 涼子が覗き込んでくる。どんな顔をしていたのだろう。下がった口角を無理に上げ、こわばった頬を動かす。

「梨音には――近づかないでくれ」

 なんとかそれだけ言って、ベッドの淵にもたれた。涼子は何度も頷く。続けて何か言おうとするので、手をあげてそれを制した。

「ごめん……疲れてるんだ。続きは明日……」

 手の甲に指先が触れたが、すぐに離れていった。

「アキちゃんのこと信じてるよ。でも、ここまで言わせるくらいアキちゃんを追いつめてるものがあると思うと、カッとなっちゃって……。勘違いさせたのは悪かったけど……それが梨音ちゃんだとしたら、あたし……」

 思わず涼子を見る。目が合うと彼女は「近づかないよ」と口にした。それから顔を綻ばす。

「よかった、こっち見てくれて……もう目が合わないんじゃないかと思った」

 涼子はそっとほほえんで「行くね」と言った。

「また明日」

「ん……」

 部屋の扉が開いて、閉まる。廊下を歩き、階段を降りる音。涼子と母親が話す声。玄関のドアが開閉する。「お風呂に入りなさい」と声がかかる。

 今日が終わり、明日が来る。

 明日までに気力は戻るだろうか。でもエプロンを作るのだ……会わなければならない。

 涼子と会うのが億劫に感じたのは、生まれて初めてだった。

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