【15】未宇・3(2)
梨音が来なかったのは幸いだった。いたらもっとこじれていたに違いない。
ふたりは少しして戻ってきた。針の筵のおれは手持ち無沙汰でとっくに帰る準備を済ませていて、それを見た涼子は笑顔で「帰ろっか」と言った。
彼女の態度は平時と変わらず明朗で一分の影もなかったから、誰も口を挟めなかった。ただ史也だけが「宗田さん」と非難と疑問の混じった声をあげた。
「未宇ちゃんも、帰ろ」
涼子の背後でうつむく未宇はこっくりと頷いて準備を始めた。一緒に帰るのは気まずかったが、ふたりがどういう話をしたかや、未宇の意図などを知りたい気持ちもあり、おれは反対しなかった。
帰り道は無言だった。未宇は当然ながら、涼子も学校から出た途端に取り繕うのを止めてしまって、何か考え込んでいた。その空気に割って入れず、おれも黙って歩いた。
もはや教室での信頼はどん底だろう。ただ梨音とのことがあるからか、そこまでショックはなかった。元々、涼子以外とはそう親しくないのもある。まだ文化祭の準備が残っているのは憂鬱だが、宇宙人にセックスしろと脅されてる現状を思えば、クラス中に嫌われるくらいは些細なことに思えた。いや、その前に……これも一部かもしれないのだ。
前方――うつむきながら歩く未宇の背を見つめる。
出会ったときから変だった。内気なのに性に関してだけ積極的で、頭がいいのに常識的なことを知らない転校生。
頭の中は落ちついていた。おれはこれから二週間もせずに、人じゃないものとセックスする。梨音の口ぶりからすると、死ぬことはないのだろう。だがそれは肉体的な保障だ。心は死ぬかもしれない。人でないものに変質するかもしれないのだ。
失うものがないとき、こんな気持ちになるのだろうか。今のままじゃダメだと強く感じる。おれがおれでいられる時間は少ないかもしれない。なら今すべきことは、今――この瞬間にするべきだ。したいことを先延ばしにしても、“先”がくるとは限らない。
未宇の家とおれたちの家との分かれ道にさしかかる。未宇は小声で挨拶をする。悲しそうに目をあげ、おれを見てますます悲しげな顔をした。
「未宇」
そのまま通り過ぎようとするのを呼び止める。嬉しさを隠しきれない様子で、彼女は即座に返事をする。
「はい、朝希くん」
「聞きたいことがあるんだ」
涼子が驚いた顔をする。でもこれはふたりの話だ。待っているよう涼子に伝え、おれは未宇を促し少しだけ歩いた。
涼子の姿が見える距離。電柱の下、虫のたかる明かりのなかに未宇の体を押し込める。多少強引な自覚はあったが、未宇は抵抗しなかった。頬を染め、潤んだ目をして、次の行動を待っている。
彼女には『受容』があった。きっとおれがひどく叩いたって、今ここで服を剥ぎ取ったって、彼女は許し、受け入れるだろう。その態度は聖母のようだ。
でも、望むことは娼婦のそれで。
そのいびつさが気持ち悪い。まっすぐで、一生懸命に見えるのに。近づけば近づくほど、からっぽに感じる。
「……聞きたいことがあるんだ」
「はい。なんでも聞いてください」
おれから与えられるものはなんでも嬉しい。言葉でも、態度でも、視線でも……。
「あの日――祭りの日のこと」
そんな態度を続けていた未宇の目つきが、明確に変わった。目の縁に力がこもる。瞳が奇妙な輪郭を取る。
気圧されそうだ。初めて未宇にそう感じる。大きな目を更に見開き、見定めるようにおれを見る。瞳に住む潤みは膜となり、視線を増幅させる。頬の赤みはすっかり消え、電灯に照らされた白い顔をさらに蒼白にした。
「あれは……起きたことだよな? おれの見間違いや、勘違いじゃなくて。あの日……あの場所に、おれたちはいたんだ。あの男も」
未宇は答えない。ただじっとおれを見る。
愛らしい顔立ち。空虚な表情。病的な目の色。あのとき……あの花火の下で。男はこの未宇を見てたんじゃないだろうか。あのときこの子は、こんな顔をしてたんじゃないか。
「正直に答えてくれ」
こんな前置きをしなくても、未宇は嘘をつかない。彼女は自分をごまかせない。答えないなら、それは肯定だ。
「おまえも……宇宙人じゃないのか?」
意を決して問いかけ、どんな変化でも見逃すまいとする。認めるか、つたないごまかしをするか、答えないか……。
だが未宇は呆けていた。きょとんとした表情。体中から力が抜け、それまでの緊迫感が嘘のようだ。
「わたしも……?」
おまけのようにぽろりとこぼし、次いでクスクスと笑い出す。合間にほう、と吐き出された吐息からは、心底ほっとした感情が伝わってきた。
「わたしは人間です。頭のてっぺんから爪の先まで……れっきとした人間ですよ」
「え……」
確信に近かった推測が突き崩され、一気に混乱する。未宇の様子は自然だった。意図して嘘をついたようには見えない。
未宇じゃないのか。梨音が指していた相手……おれにセックスしようと誘ってくる人間――いや、宇宙人だ――そんなやつ他にいない……。
「人間……」
「はい。人間ですよ、ちゃんと」
未宇はにこにこしていた。おれの問いにきちんと答えられて嬉しい――そう言っているように見える。
「……大丈夫ですか?」
「え? う、うん」
押し黙ったのを逆に気遣われ、適当な返事をしてしまう。「それじゃあ」と未宇が帰路につき、その背が遠ざかってようやく、混乱が落ちついた。
「あ……」
と同時に気づく。未宇が人間だという自称こそ得られたものの、虚を衝かれたせいで、あの場所でのことについてちゃんと聞けなかった。
未宇は宇宙人だと思っていた。確信していたと言っていい。だって、それだとすべてがすっきりするのだ。真っ向から否定されたのに、おれはまだ考えを捨てきれないでいた。「未宇は嘘をつけないだろう」と推測していた自分を棚に上げ、自称はあくまで自称だからなどと考え始めていた。
そして、ふと疑問に思う。
問いの答えが正しく返ってきたこと。それ自体について。
何を言ってるのかとか、どうしたんだとか。そういう反応を挟むのが普通じゃないか。
宇宙人じゃないかと聞かれて、人間ですと返すのか?
それは――宇宙人の存在を前提とした反応じゃないか。
「アキちゃーん……?」
すぐ傍から心配そうな声がかかる。振り返ると肩に手が伸びていた。反応を示したことで慌てたように手は引っ込む。
「未宇ちゃん帰ったのに、ずっと動かないからさ……どうしたのかと思って……」
「涼子……おまえ、宇宙人だったりしないか」
「あえ!?」
涼子は素っ頓狂な声をあげ、両手を行き場なくさまよわせる。それからおれの顔を覗き込んだり、ためらいがちに手に触ったりして、錯乱しているわけじゃなさそうだと悟ると「どうしたの、急に」と言った。
「なんかそーゆー本でも読んだ?」
明るく言う涼子を無言で見つめると、彼女は困った顔をした。
「アキちゃん、あたしが人間じゃないものに見えるって言うの? 今さらあ?」
「全然」
「やめてよ、もー」
再度未宇の去った方角を見る。もう彼女の姿はない。
「人間……」
ほぼ初対面の相手とセックスしたがって、自由に服や食べ物を選んだことがなくて。人の首を折って。レイプじみたことをして。おれとセックスしたいがために、集団のなかで情緒不安定になる。
未宇は嘘をつけるタイプじゃない。事実にも、自分の感情に対しても。だから未宇がそう言うのなら、彼女は人間なんだろう。
だからといって、この違和感を無視していいとも思えない。
梨音との会話で得た情報。おれはあれがそのまま、未宇の話だと思った。そう考えたら納得いくのだ。初対面の人間とセックスしたいと言う理由。生で欲しいと言う理由。おれへの執着、強引さ。そして諦めの悪さ。
おれは至って平凡だ。肉体的にも精神的にも、ちょっと面白みに欠けるくらいには。そんなおれにここまで固執する理由がない。それこそ、梨音と同じ目的でもないかぎり。
他に仲間がいると聞いたとき、間違いなくそれは未宇だと思った。
「自分以外で射精するな、誘われても断れ」という言葉。それは裏を返せば、おれを誘ってくるやつがいるということだ。
そしてそれは未宇以外にない。
思考がまとまらなかった。
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