【15】未宇・3(1)

 梨音は帰っていった。目の前の混乱など少しも関係ないと言うように。

 実際どうでもいいんだろう。こそこそ言い合う生徒の中には「二年の教室で」と場所について言及する者もいた。だがそれこそ関係ないことだ。人間じゃないんだから。

 対しておれは針の筵だった。彼女が去った途端に好奇の視線が注がれる。時期も時期だし、この手の話はだいたいみんな大好きだ。特に史也は飛びつくように近づき「水くさいじゃねーか」と肩を叩いた。否定もできないし、肯定する気も起きない。おれは無言で荷物をまとめた。慌てた様子で涼子が続く。

「宗田さん、行かなくていいんじゃない? 朝希、彼女と帰るんじゃねーの?」

 おれは一度だけ涼子を見たけど、何も言えなかった。

 何を言えばいいんだ。あいつはエイリアンで、おれとセックスしたがってる。逆らえば大事な人たちを殺すと脅してる。好きな子を守りたいなら、言うことを聞けと。

 頭がおかしくなりそうだ。

 教室を出る。一瞬見えた未宇の顔は真っ青だった。

 言葉にはしなかったが、涼子が来てくれたらと思っていた。だから背後から足音がし、見慣れたシルエットが並んだときは嬉しかった。それでも帰り道は無言だった。

 全部ぶちまけてしまいたかった。この短時間で起きた、あまりに非現実な出来事。奇想天外な話。宇宙人。兵士。マヌラス。

 何割も理解していない。正しく伝えられるかもわからない。でもそんなことをしたと梨音が知ったら、涼子に何をするかわからなかった。

 涼子も何か言いたげにしていた。おれも話してほしかった。聞かれたところで答えられない。でも聞いてほしいと思っていた。わがままだ。

 無言のまま家に着き、母親に迎えられ夕食を取った。会話が少ないのを指摘され、涼子がうまく返す。だがごまかせなかった。「ケンカしたの?」とこっそり尋ねてくる。

 ケンカならどんなによかったか。

 食事を終え「帰るね」と涼子は言った。出入りは毎日のことだから、わざわざ迎えたり見送ったりはしない。でも今日ばかりは母親が「はやく仲直りしなさい」と小突くので、おれは玄関まで見送りに出た。

 とはいえおれたちはやっぱり無言だった。ケンカをしているわけじゃない。気まずいだけなのだ。

 ずっと一緒にいて。好きな子ができたら教える話すらしてたのに。一足飛びに彼女ができて、それをおれ以外から知らされて。

 ひどいことをしている。わかってるけど、言葉が見つからない。

 嘘と匂わせれば涼子はきっと理解する。でもそれが梨音にバレることを思うと、やはり嘘はつけなかった。

 認めるだけ。簡単だ。「梨音と付き合うことにした」と――そう言えばいい。

「アキちゃん」

 ハッと顔をあげる。涼子はじっとこちらを見ていた。もの言いたげな、どこか憂いを含んだ目。ありありとわかる。あのときの約束を信じ、自ら問うことはせず――おれが口にしてくれるのを、健気に待っている。

 でもおれは、何も言えなかった。

「……じゃあ、おやすみ」

 寂しそうに涼子は笑った。たちまち後悔したけれど、あとの祭りだった。ドアが閉まり、寒々とした玄関にひとり残される。

 嘘でもいいから言えばよかった。涼子のために、誠実に……約束を果たせばよかった。

 口の中で、言うべきだった言葉を唱える。梨音と付き合うことにした、あの子がおれの彼女なんだ……。

 涼子じゃなくて。

 去り際の彼女を思うと、胸の奥がぎゅっと締まった。

 梨音の罵倒は正しい。おれはいつも流されて、守られて……ひとりじゃ何もできない、情けない男だ。好きな子にあんな顔をさせても、彼女のために嘘すらつけない。

 頭の中がぐちゃぐちゃだった。


 噂が広まるのは早い。複数の人間に見られたこともあり、次の日にはクラスメイトの大半が昨日のことを知っていた。表立って聞かれることは少ないが、からかってくるやつはいる。そんなときに注がれる関心の量が、話の広まり具合をおれに教えた。

 特に史也はそれまでの態度などなかったように絡んできた。「いつから付き合ってんだよ」とか「どっちから告白したんだ」とか、仲間内でするような話をおおっぴらに聞いてくる。おれは言葉を濁すしかない。付き合うことになったのは昨日だし、告白なんてあるはずもない。なんなら脅されているのだ。

 そんな返しが彼を満足させるわけもなく、「相変わらずノリ悪ぃな」とぼやかれる。だが不興は長続きしないし、その理由も明白だった。

「宗田さんは知ってたの?」

 自分で言うのもなんだが、おれと涼子はべったりだった。その片方に恋人ができた。涼子に好意を持っているならこれ以上の好機はない。おれのノリがいかに悪かろうと、涼子がフリーになった(というより、おれのお守りから解放された)事実は、史也の機嫌を上向かせるのに十分だった。

 問われた涼子は静かに首を振る。「マジかよ」と嬉しさの滲む声でこぼし、史也は「やるなあ」とおれを小突いた。

「でもさ、幼なじみなんだから。ちょっとは宗田さんの気持ちも考えろよな」

 思わず眉根を寄せる。おれが涼子の気持ちを考えなかったと思うのか。

 不快を露わにした態度がかんに障ったらしく、史也の気配が厳しくなる。でもそれはすぐ和らいだ――消えはしなかったが。何を言っても、言わなくても。事実は変わらない。

「ね、宗田さん」

 仲間にだけ見せる親しげな笑い――向ける者以外を排斥する笑み。それを涼子に向けることで、言葉なく、しかし明確に、史也は意思を示していた。

 こうなってひとつ、気づいたことがある。涼子が話しかけてこなければ、おれたちの間に会話はないということだ。

 いつも涼子が動いてくれた。構ってくれた。そう思わざるをえないほどに、話し始めのひと言が思いつかない。わだかまりが解決してない負い目はある。しかしそれとこれとは別問題に思えた。

 放課後の作業は二班に分かれた。エプロン制作準備組と、制服のアレンジパーツ製作組だ。前者はモデルを数人募って被服室で、後者は教室で行う。間仁田、言祝、涼子が男子のモデルと共に前者を、桑原、三枝、未宇、おれが後者を担当することになった。

 おれは教室組のモデルだった。男子としてだけでなく小柄な人間としても、どう見えるか想像できるので使いやすいと桑原は言った。

 エプロン組はもっと大きくて体格のいいモデルを欲していた。皆で使い回すのでいくつかサイズがいるのだ。服飾班で一番身長が高いのは涼子だが、すらりとした体型のため、もう少し男子然とした体からも型取りをする必要があった。

 いち早く立候補したのは史也だった。高めの身長と部活で鍛えられた体はモデルとして丁度よく、歓迎されて連れて行かれた。

 楽しげに話す史也とそれに応じる涼子を見て、お似合いだと素直に思った。積極的なアプローチ、己への自信。どちらもおれにはないものだ。並ぶ姿もおれと比べたら断然さまになっていた。

 今の時期は何組もの男女が距離を縮める。おれという邪魔者がいなくなり、史也はより積極的に涼子に絡んでいくだろう。おれに止める権利はない。たとえそうしたくても。

 アレンジパーツ組の役割は完全に分かれていた。デザインの桑原と補佐の三枝。おれと未宇はふたりの前でまっすぐ立ち、布を当てられたり体を眺められたりする。それからデザイン組がなんやかんやと検討する。そのくり返しだ。

 おれたちもぜひ意見を出してくれと言われたけど、よしあしもわからないし、仲のいいふたりの中に混ざるには寡黙すぎた。だがそれだとさすがにいる意味がないので、デザインが固まりパーツの仮製作に入ると贖罪とばかりに手を動かした。

 お試しの意味が強いから、ひとまずは手縫いで十分だ。未宇は裁縫もうまかったので、それを加味すればおれが一番役立たずだった。

 いくつかのパーツが作られたあと、桑原と三枝は被服室に行くと言いだした。

「ちょっと合わせてみたいの。すぐ戻るから待ってて」

 未宇とふたりで残される――そのことに恐怖を感じた。教室には他の生徒もいたが、慰めにならない。だけど「一緒に行きたい」と言うだけの意気地はなかった。

 特に仲良くもない女子の間に割り込むこと。史也と涼子の元に出向くこと。迷惑じゃないか。勘ぐられるんじゃないか。「なにしにきたんだよ」と史也に言われる未来が容易に想像できる。そして、涼子から同じ目で見られるかもしれない、とも。

 今まで女の子たちと仲良くできていたのは、全部相手にその気があったからだ。そして涼子がいたから。ずっと、相手の好意や積極性に甘んじていた。

 気づいてしまうとますます動けなくなる。おれは何もできなくて、何もしないのに、人の目ばかりを気にしている。そして今回も……楽なほうを選んだ。

 机を四つ合わせた作業スペース。そこにふたり残される。会話はなかった。彼女の口数は多くない。前ならおれから話しかけていたが、もうそんな気はなかった。

 窓の外に目をやる。空は薄暗く、夕陽のなごりもない。昨日のことを思い出す。空から見た久鵺町は綺麗だった。

「朝希くん」

 一気に体がこわばった。か細い声。だというのに、もはやそれしか聞こえない。喧噪がたちまち消え失せる。

 おれは返事をしなかった。ただ全身の注意を未宇に向ける。動くのか、喋るのか。一挙手一投足を逃さないよう意識する。皮膚の表面がちりちりした。

「昨日のあれ……本当ですか」

 押し殺すような口調だった。思わず彼女を見てしまう。

 未宇は泣きそうな顔をしていた。濡れた目でおれを睨め上げる。

「日下部さんと、付き合ってるんですか」

 答えられなかった。肯定するのが正しいのに、涼子とは別の意味で言葉が出ない。未宇のあの激情。いつ逆鱗に触れるかわからない。すでに触れてるかもしれないのだ。

「わたしじゃダメ……だったんですか」

「それは……」

 どういうつもりで言ってるんだろう。

 あの祭の日より前なら、間違いなく答えに窮した。未宇も梨音も可愛いし、女の子としての魅力に明確な差はない。あとは好みの問題で、あのころのおれには自分の好みなんてわからなかった。

 でも、今は。

 可愛らしい容姿、控え目な性格。頭はいいのに常識的なことを知らなくて、それにすら気づいてない無垢さがある。漫画の中から出てきたみたいな女の子。

 でもそんな魅力を吹き飛ばすくらい、未宇には――死と性がこびりついている。

 白く光る胸はもちもちとして、上等なお菓子みたいだった。だけどそのうしろに倒れる首の折れた男を、おれは忘れることができない。

「もう、セックスしたんですか」

 ヒュ、と息をのむ音がした。おれから出た音だ。口が渇いている。そう思ったのに、続いて飲み込んだ唾液は結構な量があった。

「それでもいいです。わたしともしてほしいです」

 周囲に視線を巡らす。誰もこちらに注意を払ってない。喧噪は続いている。そのはずなのにやけに遠い。

 未宇の指先が伸び、おれの膝に触れた。意識がそちらに向く。白くて細い指――。

「だめ……ですか?」

 染まった頬、潤んだ瞳。体が少し震えている。学校なのに、人目もあるのに、そこには欲望の影があった。あのときと同じだ。祭の日と。

 このセックスへの執着。その異常性。

「未宇、は」

 たちまち表情が明るくなる。おれの反応があるだけで、彼女はいつも嬉しそうだ。何がそんなに嬉しいんだろう。前は、おれのことが好きだからなのかと思っていた。でも今は思う。絶対にそんな理由じゃない。

「なんでそんなに……したいんだ」

 未宇は不思議そうに首を傾げる。彼女は素直だ。よくも悪くも――考えてることが顔に出る。わざとに思えるようなふるまいでも、本心からやってるに違いない。きっと彼女にはわからないのだ。どうしておれがこんなことを聞くのか。

「普通、彼女がいる……ってやつに……そんなこと言わない。いや、言うやつもいるかもしれないけど……」

 そういうタイプの女子は、他の男子にも同じことを言うはずだ。未宇にそんな様子はない。少なくとも、おれの知るかぎりでは。

 自分で言うのもなんだが、おれは至って平凡だ。頭もよくないし、帰宅部だから体つきだって貧弱だ。背も低い。男としての魅力に乏しいのは自分でもわかる。

「誰とでもいいのか? それとも……」

 おれは。

 そうだ、おれは。

「おれだから……?」

 答えを聞くのが怖い。でももう、わかってる気もする。

 おれのことが好きで、諦めきれなくて。彼女がいると知ってても体を繋げたい……なんて健気な解答もあるけれど。それが違うことくらい、おれにだってわかる。

 未宇はますます頬を赤くし、懸命に訴える。

「朝希くんだからです。朝希くんだからしたいんです」

 未宇はセックスがしたいのだ。彼女の主張はずっとそれだ。

 おれが好きだからしたいんじゃない。おれとセックスすることが重要で、そのためにおれが好きだという態度を取っている。

 未宇の性格上、嘘をつくのは難しいはずだ。でも、目的のためにおれを好きだと思い込む――そのくらいならしそうに思えた。だって彼女は……あんなに頭がいいのに……知らないことが多すぎる。

 おまえも宇宙人じゃないのか。梨音が言ってた――他のクルーがいると。それがおまえなんじゃないのか。

 思えば未宇が一番おかしかった。出会った初日にあんなことを言って。ずっとおかしいと思っていたのだ。彼女も宇宙人だというのなら、すべて辻褄が合う。

 おれの精子を狙う地球外生命体(エイリアン)。

 絶対にそうだ。そうじゃなかったら、普通の人間だったら。あんなことは言わないはずだ。未宇は「セックスしたい」としか言わない。出会ったときからずっと。

 それなのに、そう思うのに。いざ違ったときを考えると怖じ気づく。「おまえはおれとセックスするためにやってきたエイリアンじゃないのか」? 考えなくてもわかる。これほどイカレた質問なんてない。

 未宇の体が近づく。張りのある体つき。そこに乗る愛らしい顔には無垢なあどけなさがあって。でも頬と唇にはしっかりと……性を感じる赤みが咲いている。

「お願いです。後悔させませんから。一回だけでいいんです……」

 カッと頭に血がのぼった。この清楚ぶった手を、思いきり振り払ってしまいたい。

 一回だけでいいなんて、体目当てと一緒じゃないか。未宇の事情だのなんだのと考えていたのが馬鹿みたいだ。全部わかってる。おまえは人間じゃない。その考え方も、おかしな挙動も、人間じゃないからだ。

 こいつもどうせ、おれの精子さえあればいいんだ。それを隠して近づいて、思い通りにしようとしてる。正体を明かした分だけ梨音のほうがまだマシだ。おれをなんだと思ってるんだ。猿か何かだと思ってるのか。思ってるんだろうな。こいつらにとっておれたちは――猿だとか石ころだとか――とるにたらないものと同じなんだ。

 でもおれは。他の男がこういうときに、どう考えるかはわからないけど。

 どうせしなくちゃならないなら、初めては好きな子とがいい。

 ぎゅっと両手を握り締める。馬鹿みたいだ。叶わないってわかってるのに。

「たっだいまー!」

 聞きたかった声。ぱっと顔をあげると涼子が手を振っていた。頬が緩む。振り返したかったけど、強く握りすぎて手がこわばっていた。

「おかえり」

 涼子はまっすぐこっちに来る。彼女のうしろからきた史也と、未宇。ふたりの視線を引きはがすように立ち上がる。未宇の手が膝から落ちた。一瞬引き止めるように力がこもったが、おれは無視した。

「寂しくなかった?」

 ふざけた調子で涼子は言う。おれが普通に返したからか、彼女も普通に接してくれる。それだけで、全部どうでもよくなった。

 気まずかったのはおれのせいだ。いつも通りにしていれば、涼子も話してくれるんだ。

 未宇とはセックスしない。梨音とは約束があるけれど、それきりにする。恋人宣言は期日までの行動を制限するためだろう。それと、余計な虫がつかないように。だったらそのあと別れたことにしたって何も問題はないはずだ。

 約束が果たされても生活は続く。おれは教室に通わなくちゃならなくて、涼子はずっと幼なじみで、お隣さんで、クラスメイトだ。

 うまくやって、望みを叶えて。そして解放してもらう。そのあとはおれの自由だ。

「それなりにやってたよ。あんまり役に立ってなかったけど」

「そんなことないよ! 針仕事頑張ってたんでしょ? アキちゃん裁縫苦手じゃない。だからちょっとそわそわしてたけど、見せてもらったら全然! うまくできてたよ」

 背後で三枝が苦笑していた。きっと、そうよくはない出来だったんだろう。比較対象の未宇がいるからなおさらだ。

 こういう空気に気づくと、甘やかされてるなと思う。

 涼子はいつだっておれを認めてくれる。出来が悪くても褒めてくれるし、何があっても味方する。表向きおれが悪くても、理由があるんだと庇ってくれる。

 それに救われたことは数多い。でも、肩身が狭く思ったことも少なくない。

 周囲を黙らせる人気が彼女にはあった。子どもでもわかる温度差があっても、涼子が庇うから責められない。その影から向けられる苛立ちや嘲笑は、表立って糾弾できない鬱憤もあって粘ついている。恥ずかしさといたたまれなさで息苦しいほどだ。

「ならよかった」

 三枝の苦笑、おれの作品を見た人間がかもす微妙な空気。何か言いたげな史也、背後の未宇。それらを全部黙殺して、涼子に笑顔を向ける。

 何を思われたっていい。涼子に悪く思われないなら、それだけでいい。

「涼子たちは? 順調?」

「型紙作りは終わったよ。あとは作るだけ! 間仁田さんが慣れてて手際いいんだ。あたしたち立ってるだけだったよ」

「宗田さんは明日からまた大変なんじゃない。本番はこれからだし。俺は今日でお役御免だけど」

 すかさず史也が入ってくる。軽い調子で涼子の顔をのぞき込む彼は、改めて見るとずいぶん背が高かった。今までおれたちが並んだときどう見えてたのか考えると、少しやるせなくなる。

「そっか。もう型紙できちゃったもんね」

「寂しい?」

「あはは。笠月くんも装飾頑張って」

 史也の言葉や話し方は――おれでもわかるくらいに――涼子への好意と、彼女の関心を引きたい願望に溢れていた。そして涼子の返しは――おれでもわかるくらいに――ただのクラスメイトに対してのものだった。

「宗田さんがいてくれたらもっと頑張れんのに」

「うまいねえ。ありがと!」

 拗ねた口調も意に介さない態度で礼を言う。かと思えばおれに向き直り、キラキラした目で話し始める。

「ねね、アキちゃん。アキちゃんちミシンあったよね? 週末借りてもいいかなあ?」

「いいと思うけど、一応母さんに聞けよな」

「アキちゃんも手伝うんだからね」

「……なに作るんだよ」

「エプロンに決まってるじゃない! ミシン持ちは協力すること!」

 勘違いしそうになる。涼子の態度は変わらない。だけどおれの気持ちがあるせいで、感じ方がまるで違う。当然のように彼女の予定にいる自分。ライバルへの優越感と、相手にされないことへの哀れみ。そんな思考を持つことへの嫌悪感、罪悪感。それを吹き飛ばすほどの高揚。

 好きな子に誘われて週末を共に過ごす……毎日過ごしてはいるけれど、約束があるだけで特別に感じる。

 恋をしてるからだろうか。土日を思うと、もう胸がそわそわする。

「ん。わかっ――」

「朝希くんっ!」

 教室中に声が響いた。固く張り詰めた音。切迫した呼びかけに振り返る。そうして身を固くした。

「わたしの――わたしのなにがだめなんですか」

 立ち上がった未宇の顔は真っ赤で、瞳は潤んでいた。目の縁の涙が今にもこぼれ落ちそうだ。胸の前で体を抱くようにして手を固く握り締めている。拳は小刻みに震えていた。足元もどこか覚束なくて、やっと立っている様子だ。

 まずいと思った。どうして気づかなかったんだろう。いつかこうなるんじゃないかと、始めに――それこそ初日に考えたはずだ。未宇は隠しごとができない。それは彼女と付き合いだして、ますます浮き彫りになったことだ。

 興味も、思考も、感情も。未宇はそのまま表に出す。まるで幼い子どもみたいに。

「わからないんです。わたしは全部だめで、これだけしかないのに……これもだめなら、もう……もう……!」

 教室中の視線が集まる。おれも目が離せなかった。それほどまでに今の未宇には、目を引く何かがある。駆け寄って、守ってあげたいと思わせる何かが。

 腕の下で変形する胸、摺り合わされる太もも。声や表情だけでなく、その全身に媚がある。彼女の力になって、救ってやれたら、甘美な報酬がある……そう確信できる香気を全身から放っている。

 意図してではないはずだ。だからこそ余計に恐ろしい。

 おれにすらわかる。これに抗うのが、どれほど難しいか――。

「お願いします、朝希くん。わたしと――」

「未宇っ!」

 慌てて彼女の肩を掴む。何を言うかはわかっていた。今ここでは、絶対に言われたくない言葉。

「未宇、落ちついて……!」

 表情が明るくなる。わずかながらも冷静さを取り戻したように見え、おれもホッと息を吐いた――愚かなことに。

『受容』だと思ったのだろうか。おれは『理解』だと思った。その明確なすれ違いは、致命的だった。

「誰よりも気持ちよくできます! 日下部さんよりも、絶対……! お願いします……試してくれるだけでいいんです! 一回だけ、チャンスをください……!」

 直接的な単語はない。でも何を言ってるかおれにはすぐわかったし、周囲の人間も察したようだった。未宇の仕草や雰囲気は、あまりにも性的なものを想起させた。

 それにおれと梨音は表向きには恋人だ。一緒にする気持ちいいことなんて、ひとつしか思い浮かばない。

「朝希くんのためなら、なんでもしますから……!」

 だめ押しのひと言。教室の空気が明確に変わるのを感じ、おれは動けなかった。

 見慣れた影が隣に立つ。涼子はおれの手をそっと外し、未宇を抱き寄せた。

「未宇ちゃん、ちょっと出よう」

「やです、離して……」

「ちょっと、ちょっとだけ。ふたりで話しよう。ね?」

 力任せに抵抗されたらという恐怖が一瞬よぎったが、意外にも未宇はおとなしかった。始めこそ涼子の腕の中でむずがったが、結局は暴力も振るわず出ていった。

 おれも一緒に行くべきだった。すぐにそう思う。同性同士のほうが――未宇の心をかき乱すおれがいないほうが――冷静に話ができる。涼子の考えはわかったし、もっともだ。でも一連の流れで生じた疑問はすべて、残されたおれに向かう。痴話げんかじみた会話。転校生を泣かせて……。

「お前、マジ?」

 口火を切ったのは史也だった。呆れと責め、不快、不満。読み取れるだけでこれだけの感情が、短い呼びかけにこもっている。

「矢代さんにも手ェ出してたの」

 梨音に、未宇に。彼にとっては涼子も。

 揶揄しただけの発言かもしれない。でも否定せずにいられなかった。出してないと……言い返そうと振り向いて、言葉に詰まる。

 浴びせられる厳しい視線。何対もの責める目つき。

「だ……」

 焦燥が背筋を駆け上がる。指先が冷たく固まる。

「出してない……」

 彼らの耳に届いたのだろうか。

 とてもそうは思えなかった。

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