【14】朝希・4
無言のおれを前に梨音は大きく首を回した。様々なサイズの泡がぶくぶくと乱れ、輪郭を揺らめかせる。
「この姿がダメなら言ってくれ。いくらだって変更がきく。それが私のいいところだ。雌でも雄でも、サイズも感触も……なんでも思いのままになる。好みを聞かせてくれ」
脳裏を横切る人物。呼応するように梨音の体が脈打つ。表面が揺らぎ、一回り大きくなって……作られ始めるシルエットですぐに察した。立ち方、仕草。細部が詰まっていくにつれ、おれの呼吸は浅くなる。
「好きにしていいんだよ……アキちゃん」
「やめろよッ!」
顔だけじゃない。声までそっくりだった。梨音は――もはやそうなのかすらわからない――涼子の顔をして、おれの前で薄くほほえむ。
「どうして? 嬉しいでしょ。わからないと思った? あんなことしておいて……」
目の前に屈んで涼子は小首を傾げる。瞳に浮かぶ責めた色と目つき。向けられたことのない表情に苦しくなる。あの日、涼子が訪ねてきた直前……おれが梨音としていたことを知ったら。本当に彼女はこんな顔をしたかもしれない。
これは涼子じゃないのに。
「あたしのこと好きなんでしょ。だから梨音ちゃんのこと袖にしたんでしょ? あんなに可愛くて、アキちゃんのこと大好きだって……たくさんアピールしてたのに」
両腕で顔を覆う。情けない。今の自分も、涼子の口から突きつけられる過去の自分も。情けなくてたまらない。
「そうだよ……」
食いしばった歯の隙間から声を絞り出す。聞こえてるかもわからないくらい、細くて頼りなくて……惨めったらしい声。それがますます劣等感を煽る。情けなさに腹が立つ。
「そうだよ! 涼子が好きなんだ! だからやめてくれ、そんな……涼子を使って、そんなこと言うの……」
「そんなことって? アキちゃんが女の子に流されて守られるばっかりの、なっさけなぁいオトコノコだってこと? あたしがいなきゃなんにもできないくせに、一丁前にあたしのこと好きだって言ってること? 女の子に迫られたって手も出せないんだもんね。あれだけえっちしようって誘ってたのに」
聞きたくない。恥ずかしい。
涼子の声で。涼子の口で。嘲るようにおれの気持ちを曝かれて。
「あ、直接言われなきゃわかんないのか」
知られたくないから。馬鹿にされると。ひた隠しにしてきたことを。
「童貞だもんね、アキちゃん」
好きな子に。
声もなく泣いていた。涼子はこんなこと言わないと思うのに。ぬぐい去れない劣等感が偽の言葉を聞いてしまう。それが余計に情けない。好きな子を信じ切れない自分。誰よりも多い時間を一緒に過ごしているのに。こんな偽物の言葉が、容易く心に届いてしまう。
手首を掴まれる。逃れようともがいたが、梨音だったときと同じにそれの力は強かった。腕を引きはがされる。濡れた顔が外気に晒され、頬の熱を強く感じた。
梨音がおれを見下ろしていた。左目もちゃんとある。楽しそうに笑う姿は、今までが夢かと思うくらいに自然だった。
「起きて、朝希」
腕を引かれる。混乱で力が入らず、されるままにおれは上体を起こす。
体に芯が通ると梨音はそっと手を離した。隣にしゃがんで顔をのぞき込み、心配そうに声をかける。
「大丈夫?」
「り、梨音……」
夢なわけない。さっきまで地面に立っていたのだ。今はまるで別の場所にいて……それはつまり、今までのことは、本当に起こったことなのだ。
「ふふ」
梨音は暗く嗤う。その顔は一瞬奇妙に揺らぐ。
「これが一番やりやすいよね、お互いにさ。わかりやすくて、はっきりしてて……なにがなんだかわからないよりは、こっちのほうがずっといいでしょ?」
そうだ。わからないことが多すぎる。わかっていることなんて何があった?
「アタシは朝希とセックスしたい。できれば自発的な協力がほしい。協力してくれるなら希望にはできるかぎり応えるし、知りたいことがあれば教えてあげる」
「協力、しなかったら」
震える声で尋ねる。梨音はなんてことないように返す。
「わかるよね? アタシが人間じゃないことくらい。信じなくても別にいいけど。朝希にはなにもしない。五体満足でいてほしいしね。でも、協力してくれるまで……朝希の周りにひどいことはするよ。人間の――この星の技術じゃ捕捉できないことを、たくさんね」
細い指が伸びてくる。避けたいと確かに思ったのに、体は動かなかった。冷たい指先が鼻先を軽く突いて離れていく。
「簡単でいいよね。少なくとも朝希にはひとつ……大切なものがあるみたいだし」
意味深な笑い。おれの顔はたちまち歪む。いびつな曲線を描く唇を、爪先が辿る。
「協力してくれるよね。ヘタレな朝希クンが、なんにもつり合ってない大事な幼なじみにしてあげられる、唯一のことだよ」
冷静に考えたらとんでもないことだが、おれは思わず目をつぶった。いくら逸らそうとしても逸らしきれない。これが現実なら、もう何も見たくない。
ちゅ、と音を立て、冷たくて柔いものが唇に触れる。梨音の唇だと見なくてもわかる。目を開けたくない。そう思っているのに、瞼がゆるゆると開く。
そこには梨音の姿がある。おれを思い通りにできると信じ切って、楽しげに笑う姿が。
おれのことが好きな、人なつっこい後輩。小柄なのにスタイルがいいのか、ワンピースも浴衣も水着も、何を着ても似合ってて。意外といじらしくて、射的が得意で。それで。それで――。
「アタシとセックスして、好きな子をウチュージンの魔の手から守ってあげようよ」
暗闇が目に眩しい。空に手をついてる気分だ。
いつからこんな、イカレた世界に迷い込んでしまったんだろう。
力の入らない体で屋上の端まで這っていって。牢屋みたいな手すりの隙間から、広がる町を見る。
オモチャみたいだ。全部。
「自殺は止めてよね」
振り返って手すりに凭れる。梨音は一歩一歩、踏みしめるように近づいてくる。
少し距離を取ったことで気づく。月光だけじゃない。梨音自体が淡く発光している。この暗がりのなか一挙手一投足がはっきり見えるのは、そういうことだった。
「させてあげないけど」
広がる景色を一瞥し、彼女はおれに視線を戻す。嘲りを含んだ笑顔。しかしどこかつまらなそうでもあった。根底の部分が乾いているようにも感じる。
「お、まえは……なんなんだよ」
梨音はわずかに目を見開く。意外そうな顔でまじまじとおれを見たかと思うと、わざとらしくにこりと笑う。
「ウチュージン」
違う。そうだとしても、そういうことじゃない。
「怖い顔するね」梨音は笑う。「でも……そうだな。知りたいことがあれば教えると言ったんだ。応えるのが誠意だな」
顔がこわばっているのが自分でもわかる。今までずっと抱いていた違和感。それが解消される期待と、恐怖。
「でも、私の存在をこの星の言葉で表現するのなら、“宇宙人”が一番的確なんだ。発音できるように音を落とすとだな……プルドニコ系ピニーを拠点とするルグオム・ロロ。それが私の種族の名前だ。地球に住む地球人、みたいなやつだな」
ぽかんとするおれに梨音は首を傾げ「他にはなにを知りたい?」と言う。
説明されてもわからない。ぐちゃぐちゃになる彼女のシルエットを見ていなきゃ、頭のおかしい人間の妄言だと思っただろう。
「ふざけてる……わけじゃ、ないんだよな」
「勿論。信じるに足るなにかがほしいなら、ちょっとした芸当を見せてあげてもいい。五分くれたら、きみの母親の首をここに持ってきてあげるよ」
涼子なら三分だな、と梨音はウインクした。
「わかった、信じる。信じるから」
真実かどうかはどうでもよかった。重要なのは、梨音が何か――人間以外のもので。大まじめにこういうことを言って、それを実行するだけの自信を持ってるということだ。
乱れた呼吸を整える。おれの正面で彼女は屈む。スカートを抑えて、中身が見えないように。そんな普通の女の子じみた仕草が滑稽だった。
「どうして、人間の……遺伝子が欲しいんだ。せ……せっくす、なんて、しなくても……取ろうと思えば、いくらでも取れるんじゃないのか。おれからじゃ、なくても……」
梨音は笑みを深くした。よくぞ聞いてくれました、みたいな顔。でも口では「それは難しい話だな」と言う。
「でも実際、きみが一番知りたいのはそこだろう。なぜ? どうして? その通り。物事にはちゃんと理由がある。私たちが人間の遺伝子を欲する理由。そしてその交渉相手に、きみを選んでいる理由。
前者はまあ、単純な話だ。私たちは強い兵士を求めてる。そのために人間の……愚鈍な……感情の……本能的な……原始的な……? そう、原始的な。その素養がほしい。選別と交配とを重ねて必要な個体を作り出すなんて行為は、この星でだって行われていることだろう。ほら、メンデルの法則ってあったろ? アレみたいなものさ」
自称宇宙人の口から「メンデルの法則」なんて単語が出て、妙な気分になる。でも宇宙から来たのなら、彼女が発する言葉も知識も、一から学んだもののはずだ。それをここまで――話の一環――例えとして繋げられるほどに、自分のものとしている。
化け物だし、脅されてもいるのに。「すごい」と素直に思ってしまった。こういう馬鹿で単純な部分も、人間の原始的なところかもしれない。
「環境は世界の縮図だ。この小さな星にいくつもの国があり、それぞれに帰属意識のある個体が集い、絶えず争いが起きているように……宇宙にも無数の星があって、さまざまな種族が生き……星間の関係に苦労している。それでまあ、いろいろあって……多くの星は“連邦”というひとつのコミュニティーに属している。
この星のような“閉じた星”――これは存在を知っているかどうかにかかわらず、他星と交流を持たない星のことを言うんだが――そういった星は連邦の監視下に置かれることがほとんどだ。でもここのように星間移動の技術を持たない星は、閉じた星のなかでも更に“未開の星”として区別されていてね。そこに住む種族も“未開人”として――なんというか――あまり価値のあるものとして考えられていないんだ。この星もきみたちも、まあ、特筆すべきところのないものだからね。私たちにとってきみたちは、本来ならば……きみたちにとっての猿だとか、道端に落ちてる石のようなものなんだよ」
説明のほとんどは右から左に流れていく。でも、言葉の端々から感じ取れることもあった。彼女が人間並か――それ以上の――知的生命体というやつで。地球の外の理を持っているということ。
おれたちは、猿と石を同じカテゴリーとして考えない。
「だが、きみたちを興味深いと捉える者もいた。精神的な多様性や――架空のものに熱中する意識構造なんかをね。本来ならこんな辺境の星まで監視艇を回すことはない。しかしこの星に興味を持った学者がいてね。彼女たっての希望で、ここに監視艇が来るようになった。それがつい最近――百年ほど前なんだ。
いろいろトラブルに見舞われはしたが、なんやかんやと研究は続いている。今もね。だが注目してる者はほとんどいない。未開種族を保護して、その文明に興味を持ってなんになる? 連邦ではそういう考えが主流なんだ」
わかるかい、と梨音は言った。おれは返事をしなかった。言ってることはわかる、おそらく。だけど絶対に、理解はできていない。
「それで、ここからが本題だ――私の種族の話になる。ルグオム・ロロは本質的に柔和な種族だ。アルビュイトコーロのように他者の形を借りることもなく、ありのままの姿で星とともに暮らしてきた。こんな偽物の姿を取ることも、本来はしないんだ」
梨音は鼻で笑う。今までで一番の嘲り。向けられた先はおれじゃなかった。
「だが……それでは生きていけなかった。我々は戦わねばならなかった。そのための努力は惜しまなかったが――あとひとつ、なにかが足りなかった。
我々は合理的にものを考える。感情の振れ幅が少ないのも理由にあるだろう。勝てない相手には挑まないし、実力以上の力を出せることもない。だから私たちは弱かった。結局ベイシスという……軍事星団の……属星になったが、思うように成果があげられず、種として使い潰されるばかりだった。
我々には力が必要だった。なにか――限界を突破する力が。理性の枷を外す鍵。原始的な本能だ」
瞳がぎらりと光る。
「この星の知的生命体――人間についての研究に我々は興味を持った。理性さえなければ力を押さえつけるものもない。我々が求めたのはそういう因子だったんだ。
後退に思えるだろう。だが道が突き当たったのであれば、一度戻る必要がある。原初への回帰を伴って、更なる先へと進むんだ」
背筋が凍えた。
母親を殺すと言われたときより、涼子を害すと言われたときより。今が一番恐ろしい。そう思うほど梨音の眼光は強く、狂気を孕んでいた。
彼女の言う『本能』で理解する。
目的達成のためなら、この存在はなんでもするだろう。彼女にとっての“未開人”程度――何人だって殺すに違いない。
「この星の人間を確保して実験したとしても、肉体のベースはこの星の人間になる。私たちは宇宙で戦える兵士が欲しい。我々の肉体がなければだめなんだ」
梨音の瞳が、剣呑な光を帯びたままおれの体を舐めあげる。
「通常、他種族間で交配はできない。人間が犬とセックスしたって子どもはできないだろう? オスとメスの、遺伝子の凹凸がかみ合わない。そういう風になってるんだ。それは世界の理で、宇宙に出ても変わらない」
焦燥が広がる。
触れようとしている。今、まさに。
「ただ――まれに。本当にまれにだが、異種族と交配できる個体が現れることがある。遺伝などではなく、突然の変異として。その種固有の遺伝子を持っているのに、なぜか他種族との凹凸がかみ合ってしまう……それも、どんな種が相手でも。
私たちは『マヌラス』と呼んでいる。特別な存在だ」
梨音の手が伸びてくる。それは触れたそばから泡となり、おれの体表で弾ける。皮膚と泡とが混じり合い、胸元で白く発光する。何かが分け与えられてるようだ。実際、それは錯覚だったけど。
梨音がおれを見る。白く……狂った光のなかで。
「きみは、この星で初めて確認されたマヌラスなんだよ」
風が吹く。胸の泡がひときわ波打った。
「私たちはデータがほしい。人間の……本能が優先して表出される精神構造。環境からくるものなのか、遺伝子由来のものなのか。私たちとかけ合わせても問題なく機能するか。再現性はあるのか。製造された個体には、兵士としての価値があるか……」
ぐ、と胸を押される。手の先は泡になっているのに、込められた力を確かに感じる。
「なにを知るにもまずきみなんだ、田嶋朝希。きみの精子がほしい。セックスして、きみとの子どもを私が孕んで。ルグオムの未来はそこから始まる」
梨音の顔が近づく。ぼんやりと見つめていると、また口づけが落ちてくる。唇を舌が割り進んで、おれの舌を撫でて離れる。ほうと息を吐き、彼女は薄く笑う。
「協力してくれるよね……?」
思わず笑ってしまった。聞いてどうするんだ、そんなこと。
「断る選択肢なんかないんだろ……」
満足いく答えだったらしい。梨音は笑みを深くしておれに凭れ、首を抱き込んだ。重さをまるで感じない、淡い塊。
「賢明で嬉しいよ」
空気が変わったのを感じた。梨音は頭から爪先までしっかりと元に戻っていて、両手でおれの頬や首筋を撫でる。こめかみに、目元に、冷たい唇が降ってきて、それが体温を吸い取るほどに、全身の発光も収まっていく。キスが唇にきたころには、彼女の体はすっかり普通の女の子だった。
「このままでいい……?」
かすれた声でささやかれる。どうだっていい。けど、よくはない。
肩に触れた。埋もれてしまうんじゃないかと怖かったけど、ちゃんと手応えが返ってくる。押し退けようとして、きちんとその通りになって。意外だったしホッとした。
「今は、無理」
拒絶の言葉に梨音は体を離し、おれをじっと見た。責められるかと思ったし、無理にされるかとも思ったから、これも予想外だった。でもそうされたとして、この前の二の舞になるのは目に見えている。こんな精神状態で射精できる気がしない。おれにとっては勃起も射精も……ただでさえ一大イベントなんだから。
「花火大会の夜……未宇にされても勃たなかった。たぶん今も……無理だと思う」
梨音は黙ってこちらを見つめる。そこには事実を事実としてただ受け入れる熱だけがあった。空気は濡れたようなのに、視線はひどく乾いている。
「どうすれば射精できる?」事務的な口調で梨音は尋ねる。「本当に協力してくれる気があるのなら……いや……」
「なに……?」
初めて梨音が口ごもる。何か有意義な情報、場合によっては抜け道が見つかるかもしれない。淡い期待を抱くおれに向かって、彼女は気まずそうに言う。
「私たちの船に行けば上手い具合に搾精できる方法もある、と言おうとした。だが、きみが射精するところを他のクルーに見られることになると気づいて。私は構わないが……きみは嫌かもしれないと思ったんだ。この星の知的生命体で、第三者に生殖行為とそれに付随する行為を見られていいと考える個体は少ないと、資料にはあった。きみの性的嗜好は一般的なものからそう逸脱してはいないはずだ。だから……提案すべきではないと」
「ああ……」
「判断と行動にズレがあるな。精神汚染とまではいかないにしろ、この形を取ることでの影響が私にも出ているのかもしれない」
梨音は独りごちる。それを聞き流しながら、おれも気になったことを尋ねる。
「仲間がいるのか……?」
彼女はそれには答えなかった。にっこり笑い、おれの頬をひと撫でした。
「時間がほしい」
「いつまで?」
「……文化祭が終わるまで」
具体的な期限が求められてるのはわかっていた。あげた期間に意図はない。短すぎるとすら思う。でも、先延ばしすぎて実力行使に出られたのでは元も子もない。
「わかった」
梨音は簡潔に言った。立ち上がり、おれに手を差し伸べる。
初めて会ったときを思い出す。おれは腰を抜かしていて、梨音が助けてくれた。あのときから全部――始まっていたんだ。
「いい、立てる……」
手すりを使って立ち上がる。ふらつく足を乱暴に叩く。なんとか歩けそうだ。歩かなくてはならない。
入り口まで行きノブを握る。回らない。鍵がかかっているのに加え、錆びついたような手応えがある。屋上はずっと立入禁止だ。だからおれも今、初めて入った。
いつの間にか梨音が横にいた。おれの代わりにノブを握る。手元が光り、カチリと音がする。引くとバキッと大きな音がし、ゆっくりとドアが開いた。
「約束だよ」
校舎の空気が流れてくる。少し離れただけなのに、ひどく懐かしい。合わせて流入する屋上の風。冷たく異質な……非現実の気配。
「文化祭が終わるまで待ってあげる。それまでに、心の準備をしておいて。アタシは期日までなにもしない。涼子にも――誰にも」
おれは頷く。死刑宣告を受けてる気分だった。
「だから朝希もなにもしちゃだめ。アタシ以外で射精しないで。誘われても、ちゃんと断って」
よほど間抜けな顔をしていたのだろう。意地の悪い笑みを浮かべて、梨音はおれの顎を撫でる。
「……できるよね?」
頷く。しかし彼女はため息を吐いた。
「信用できないな~……朝希だもんな~……」
並んで階段を降りる。梨音の腕はおれの腕に絡んでいた。寄り添い、体重を預けて。恋人のように。
彼女の言葉に異論はない。言われたことはなんでもするつもりだった。
でも。
物事には理由がある――そうであるなら。梨音がわざわざ「自分以外で射精するな」と言うのにも……理由があるはずだった。
教室に戻るまでに何人もとすれ違った。そのたびに学校でいちゃつくカップルへ向けるのと同じ視線を投げられる。特に今はそういう時期だ。一度は明確に冷やかされ(おそらく上級生だろう)、梨音がおちゃらけた返しをしていた。おれはずっと無言だった。腹も立たなかった。
教室に残るメンバーは様変わりしていた。話し合いは終わったらしい。三枝と間仁田がいなくなり、入れ替わりに何人か男子の姿があった。そこには史也と積木もいて、涼子と話をしていた。
「遅かったね。もう終わっちゃったよ」
桑原が言って席を立つ。どうやら待っててくれたらしい。「ごめん」と言いかけるのを史也が遮る。
「忙しくて困っちゃうな、人気者はさ」
積木と顔を見合わせ揶揄するように笑う。そんなふるまいにも心は動かなかった。いろいろなものが麻痺している。
「おかえり、アキちゃん」
「うん、ごめん――」
教室に入りかけたおれの腕を梨音が引いた。まだ何かあるのかと振り返る。しかし彼女は無言だった。じっとおれの顔を見つめる。
「……梨音?」
腕を少し引かれて。前のめりになった体に、梨音の顔が迫る。ぶつかると思ったけれど痛みはなく。湿ったものが唇に触れて、背後で誰かが息をのんだ。
「マジかよ」
積木の声。史也は見えてなかったのか「は? なに?」と彼に尋ねる。女子たちの悲鳴に似た笑いと、動揺の滲む声。
「り……」
唇が離れる。割れ目から出た小さな舌が、ついでと言わんばかりにおれの下唇を舐めていく。
「彼女なんだから。いいでしょ、このくらい」
薄く笑い、梨音は挑発的な視線を背後にやる。その先に誰がいるのか、おれにはわからなかった。
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