【12】朝希・3(2)
ぴんぽーん。
チャイムの音に動きが止まる。ドアの方に目をやれば、磨りガラスの向こうに長身の影が見えた。
ドアノブがひねられる。鍵がかかっているので当然開かない。それを確認し、再度チャイムが鳴らされる。電子音の余韻が消えるころ、小さな呼びかけが聞こえた。
「アキちゃん……」
「――りょうこ」
耳元で息をのむ音がした。おれはといえばたちまち焦りと罪悪感を覚え、嘘のように行動力を取り戻す。梨音を脇に押しやると、ドアに飛びつき鍵を開けた。
いたのはやはり涼子だった。目元にうっすらくまがある。おれの顔を見るとほっと息を吐き、弱々しい笑みを浮かべた。
「アキ。よかった……」
「涼子……」
「……あれ」
視線がおれの背後に向く。「梨音ちゃん?」との声に振り向けば、すぐうしろに梨音が立っていた。それまでしていたことを思い出し、急速に頭が冷えていく。
「り、梨音。ごめん、おれ……」
「聞きたくない」
梨音はぴしゃりと言った。明確な拒絶の意思を感じる。彼女はおれたちの脇をすり抜け、振り返りもせず行ってしまった。ふたり呆然とそれを見送る。
「梨音ちゃん、来てたんだ」
「うん……」
肯定しかできなかった。涼子も聞いているのかいないのか、ぼんやりとした口調で「そう」と返す。
「……入ってもいい?」
「うん……」
涼子を招き入れドアを閉める。鍵はかけなかった。いつもの通り上がるものだと思っていたが、彼女は土間で足を止める。
「今日はここでいいよ」
そう言って玄関に腰を下ろす。気遣いだとわかっていたが、先ほどまでそこでしていたことを思うと憂鬱な気分になった。だが言えるはずもなく、黙って隣に腰かける。
「昨日……」
切り出したのは涼子だ。しかし言葉の続きが出たのはしばらく経ったあとだった。
「なんかあったん、だよね?」
その通りだ。何かはあった。でも詳細は言いたくなかった。
この様子だと梨音からは聞いてないのだろう。未宇が言うはずはないから、あのことは涼子と楓には伝わってないに違いない。
否定も肯定もしなかったけど、それは肯定と同義だった。涼子もわかったはずだ。彼女が何か言う前に、おれはその後のことを尋ねる。おれが逃げるように帰ったあと、変わったことはなかったか、と。
何もなかったと涼子は言った。おれから、未宇から、梨音から。先に帰ると連絡が来て。残された涼子と楓も、よくわからないまま解散したらしい。
「いつもの……祭りのあとって感じ。違うとしたら、アキちゃんがいないことくらい」
涼子は冗談めかして笑ったが、無理をしている感じだった。おれが鬱々としてるせいかもしれない。笑おうとしてみたけれど、上手くできなかった。
「ちょっと……ここにいて」
そう言うとおれは自室に向かった。携帯を持って戻ってくる。手元を覗かれたくなかったから、涼子のうしろで操作した。異常な量の着信を無視し、検索ボックスに単語を入れる。たいら山納涼祭、事件。いくつかのページがヒットする。
梨音には聞けなかった。涼子にも言えない。もはや調べるしかないのだ。
ひとりでは無理だ。結果を受けとめる自信もない。今――涼子がいる今、やるしかない。
目的の記事は存在しなかった。祭りの開催時期とか浴衣の着こなしとか、関連として抽出されたものを除けば、平山の事件に関するページは三種しかなかった。
十五年前、山へUFOが着陸したという情報を載せたオカルトサイト。もうひとつは八年前、納涼祭の運営委員会と地元有志とが対立したというネットニュース。花火目的の客が屋台の運営の邪魔をして問題になったというアレのことだろう。そして最後は、ドリームパーク関連記事。これが一番量が多く、内容も多岐にわたっている。
今年、死体、首……単語を変えて検索したが、結果は変わらなかった。出てくるページにも差異はない。
まだ見つかっていないのだ。
携帯を下ろし、涼子の隣に戻る。彼女は何も聞かなかった。それをありがたく思う。
既にネットニュースくらいにはなっていると思っていた。もうすぐ昼だ。この時間になっても情報がないなら、死体自体が見つかってないと考えて間違いないだろう。
梨音に聞くべきだったと今更ながら後悔する。死体が今もあそこにあるなら、通報したほうがいい。でもあれから半日は経っている。同じ場所にあると読むのは甘いかもしれない。少なくともおれなら、隠そうとする。
携帯に視線を落とす。しばらくそうして、ふと思い出した。使ったことのない番号。念のためにと入れてそれきりだった。
電話帳を開き、しばし考える。これは別件だ。番号をくれた意図とは明らかに異なる。それにどう言えばいいんだ。友だちが男を殺しました。死体が平山にあると思うので見に行ってくれませんか?
結果的にはひどいことをされたが、あの瞬間の未宇は確かにおれを守ろうとしていた。このまま彼女を告発していいのか。そもそも、信じてもらえるのか?
悪ふざけだと――そういうことをする人間だと思われたら。初めておれを認めてくれた男性に、失望されてしまったら?
「警察?」
おれの手元を覗き込み、涼子が尋ねる。平坂警察署。嵯峨刑事と呉竹刑事――レリーズ通り魔事件のときの警官たちがいるところ。
「電話するの?」
どうして、と目が語っている。おれにだってわからない。全部話して、なりふり構わず助けを求めてしまいたい。そう思うくらいには近ごろいろいろなことが起きていて、頭がおかしくなりそうだ。しかも全部が別の事件で、まったくつながりが――。
「ん……?」
つながりがない。そう思った途端に気づく。
違う。おれは昨日、あのときと同じだと思った。あのとき。レリーズと。
未宇を無視してまっすぐおれに向かってくる、常軌を逸した男。
最終的に未宇が男を殺したから、ふたつがばらばらになっていた。レリーズの通り魔と未宇の殺人。それらは確かに別の事件だ。
だけどその直前。男がおれに襲いかかった件だけでいうなら――。
意思を失った獣のような顔つき。痛みや恐怖を感じないふるまい。漂う甘ったるいにおい。
あのときと同じだった。レリーズで対峙した男と。
寒気を覚える。体の震えを抑えるように携帯を握った。これは――これなら。電話する理由になる。警察を頼る理由になる。
発信ボタンを押す。もらった番号は平坂警察署につながった。刑事第一課……嵯峨さんの名前を出すとすぐに代わってもらえる。
『田嶋くん。どうした』
「さ、嵯峨さん」
『……あれから、なにか気づいたことでも?』
おれの様子を不審に思ったのか、電話越しの声が真剣味を帯びる。怖じ気づき膝の上に目を落とすと、残された左手がかすかに震えていた。握り締めたが力は入らない。
涼子の手が伸びて手の甲に重なる。右肩に触れる肌から熱が伝わって、震えを少しずつ吸ってくれた。それに勇気づけられる。
「関係あるかは……わからないんですけど。昨日、たいら山の納涼祭で……変な男に襲われました」
『襲われた?』
「男の様子がレリーズのときとそっくりでした。目を見開いて、歯もむき出しで……獣みたいな感じだった。おれたちの言葉なんて聞こえてないみたいで。手を……ぶつけても、痛みを感じてなさそうだった。一緒にいた女の子を無視して、おれだけをまっすぐ狙ってきました。あと、甘いにおいもしてた」
『きみと女の子は大丈夫だったのか?』
「……大丈夫です。隙を突いて、逃げてきました」
嘘をついてる。見抜かれなければいいけれど。
「男が……倒れたんです。急に、動かなくなって。おれには死んでるように見えたけど、確認できなかった。怖くて、そのまま逃げ帰りました」
電話の向こうで嵯峨さんが唸る。バレるかもしれないという焦燥と罪悪感とで、心臓がうるさかった。嵯峨さんに――刑事さんに、意図的に情報を隠している。男の手は折れていて、おれには未宇がやったように見えたこと。急に倒れて動かなくなったが、直前には首を絞められていたこと。倒れた男の首は、折れているように見えたこと。
嵯峨さんは証言の内容には触れず、現場の位置を聞いてきた。「今から行ってみる」と言われ、嬉しさと安堵で脱力する。
「ありがとうございます……!」
『なにかあったら連絡する。この番号でいいね?』
「はい。お願いします」
『場合によってはきみと、同行していた女の子に話を聞くことになると思う。一緒にいたというのは宗田涼子さんかな?』
会話中、涼子は一度も反応しなかった。おれの方を向くことなく、神妙な面持ちでただ横にいた。だから意識してなかったが、彼女にも聞こえていたのだろう。自分の名前が出た瞬間、手がはっきりとこわばった。
「……いえ。矢代未宇のほうです」
涼子の指先を握ると彼女も握り返してきた。こわばりは解け、体温が柔らかく重なる。
そこで初めて、寄りそう涼子を見た。本当はすぐにでも問いただしたいだろうに、彼女はいまだ目もあげず、おれの隣でじっとしている。それがいじらしくてたまらなかった。
『とにかく、きみたちが無事でよかった。ゆっくり休んでくれ。体だけでなく気持ちの面でも……気になることがあったら、すぐ親御さんに相談してほしい』
「はい。わかりました」
『……それじゃ』
最後に嵯峨さんは何か言おうとした。だがそれが何かわからないまま、電話は切れた。
通話終了を示す画面を眺め、小さく息を吐く。
終わった。あとは何があっても――嵯峨さんがなんとかしてくれる。
腕に何かが絡まった。そっちに注意を向ける前に、ぎゅうと締めつけられる。涼子の腕だ。彼女は顔もあげないまま、おれにしがみついていた。
「涼子……」
なだめるつもりで名前を呼んだが、柔らかい感触に気づいて落ち着かなくなる。でも振り払う気にはなれず、しばしされるがままになった。
「もーいや!」
力が緩んだかと思うと唐突に涼子が声をあげる。
「あたしがいるところで危ない目に遭うのも嫌だけど、あたしがいないところで危ない目に遭われるのはもっと嫌! 最近変だよ、どうなってるの……!」
彼女は項垂れた。長い髪が垂れて顔を覆い隠す。たゆたう香りは甘かった。
「大丈夫だよ……」
口に出した言葉は気休めにもならなかった。彼女に対しても、おれ自身に対しても。
涼子は顔をあげる。乱れた髪と真剣な眼差しは普段とまるで違っていた。そんな顔をしないでほしい。涼子が笑ってくれないと、不安でたまらなくなる。
「ほんとに? ほんとに大丈夫だって言える? 昨日はたまたま襲ってきた人が倒れたから無事だったんじゃないの? レリーズのときだって、楓ちゃんがいなかったらアキちゃん死んでたじゃない。プールのときは? 監視員さんがいなかったら、大変なことになってたんじゃないの?」
昨日のことを除けばだいたいその通りだ。自分だけじゃ何もできないと突きつけられてるようで正直つらい。だが、実際にそうなのだ。ここ最近妙なことに巻き込まれ続けているけれど、いつも偶然に助けられている。
「梨音にも言われたよ。涼子と離れるなって……」
自嘲気味に言うと涼子は顔をあげた。「そういえば梨音ちゃん、なんの用だったの?」と問われ、おれは口ごもる。蘇る記憶――ぬくもりと舌の感触。言えるはずがない。
涼子はそれを見て、おれと同じような顔をした。どこか自嘲気味な、寂しげな表情。
「アキちゃん、最近秘密増えたよね」
責める気持ちはないだろう。でもおれは罪悪感を抱く。悩みを相談し合える――そういう関係でありたいと思ったはずなのに。言えないことばかりが増えていく。
「ごめん……」
涼子はふるふると首を振った。
「気にしないで。言いにくいこととか、タイミングとか……いろいろあるもん」
納得できない気持ちを押し隠しているのがわかる。それをますますいじらしく思う。理解を示そうとしてくれる。おれの気持ちを尊重して、寄り添おうとしてくれている。
「だけど、覚えててほしいの。あたしはアキちゃんの味方だって。どんなことだって受けとめる自信があるし、なんだって一緒に考えられる。だって生まれてからずっと……ずっと一緒にいるんだよ。アキちゃんだって……」
涼子の目が向く。熱っぽく、潤んだ視線。おれの心を柔らかくくすぐる。
「アキちゃんもそう思ってくれてると、嬉しいけど……」
「うん……」
幼いころからおれたち家族は仲がよかった。ふたり一緒に写った写真がたくさん残っている。涼子の両親が長期出張に出てからはあまり撮らなくなったけど、赤ん坊のころから小学校低学年ごろまでの写真は、アルバム一冊に収まらないほどあるはずだ。
おれたちはずっと一緒にいる。互いを一番よく知っている、とまで言うつもりはないけれど。だいたいのことは知ってるし――何より――互いのことをとても大切に思ってる。
涼子の手を握ると、優しく握り返してくれる。互いに寄りそって肩を預ける。そうして体温と呼吸を感じ、おれたちはまたひとつの生き物みたいになる。
一連のそれがなんのためらいもなく、自然に行われたことに気づいて。どうして自分が梨音とのふれあいでなく涼子を優先したのか……その理由がわかった気がした。
心に広がる暖かい気持ち。この人とずっと一緒にいたい――。
気づいた瞬間、今までの比じゃないくらい苦しくなる。呼吸もなんだか怪しくなって、いつもより深く息を吸う。涼子はそれすらめざとく気づき、顔を覗き込もうとする。「大丈夫?」と心配そうに言うものだから、視線を振り払うように彼女の腕にしがみついた。涼子は一瞬固まって、それからちょっとだけふざけた様子で、おれの頭に軽く頭をぶつけて「甘えんぼさん」とささやく。
好きだ。
特別なことなんてされてない。おれたちはずっとこうだった。でも今ならはっきりわかる。こんなこと、おれ以外にしてほしくない。涼子にとっておれだけが――こんなことをするような――特別な人間であってほしい。
今まで涼子に抱いてきた気持ち。弟みたいに扱われたくなくて、デートを応援されると寂しくなって。涼子への感情を彼女自身に否定されると、自分のこと以上に悔しくなる。
全部が、こんな簡単な言葉でストンと胸に落ちてくる。
憧れはあった。幼いころから涼子はきれいで、明るくて、なんでもできた。友だちからも先生からも人気があった彼女は、自慢の幼なじみだった。涼子のようになりたいと――隣にいて恥ずかしくないような自分でありたいと――かつては思っていたのだ。
いつからだろう、それが苦しさに変わったのは。冴えない自分を受け入れて、彼女のオマケであることを容認するようになったのは。
顔を見たら泣いてしまいそうだった。ずっと麻痺してた心の一部が力を取り戻していく。褪せた記憶が鮮やかに色づく。
時が経つにつれ、涼子はどんどん魅力的になり、おれはどんどんいびつになった。教室の中心にいる彼女とぱっとしない自分。第二次性徴が来るころには、それはますます加速した。
涼子はずっと傍にいてくれたけど、おれが彼女のオマケなのは変わらなかった。今だってそうだ。教室のほぼ全員が、おれを涼子に付随する何かだと思ってるだろう。おれたちはまったく釣り合わない。
でも。
気持ちが膨れ上がって止まらない。顔を見ることもできずうつむくおれに「アキちゃん?」と訝しげな声がかかる。おれは「ごめん」と呟き体を離す。
視界に涼子の顔が映る。ここぞとばかりに覗き込んできたのだ。顔が見れない――そう思っていたのに、いざ目の前にくると吸い寄せられるように見てしまう。しっかりと目が合って、恥ずかしく思うのに……視線が逸らせない。
おれはどんな顔をしているだろう。いつも通りにできてるだろうか。
親指が目の下をなぞった。困ったような顔をしたまま、涼子は口を噤む。
「涼子?」
何か言ってほしくて名前を呼ぶ。ねだるような声が出て、慌てて口を閉じた。気持ちの悪い喋り方だった。甘ったるい声色。
「泣きそうな顔してるよ」
そう言って再度目元をなぞる。流れてない涙を拭うみたいに。昨日の記憶がおれに泣きそうな顔をさせているのだと、そう感じてるみたいだった。
今おれが泣きそうだとしたら、それはおれに好きな子ができたからだ。好きな子がおれを見て、おれの心配をしてくれる。おれに触れてくれている。それが幸せだからだ。
口をついて出そうになった。涼子が好きだと。だからそうされると苦しいのだと。でも言葉にした瞬間すべてが壊れてしまいそうで、何も言えなかった。
結局おれは逃げたのだ。ただの弟じみた幼なじみへのたわむれを、もっと享受していたいと思って。
涼子はおれを抱き寄せて、優しく背中をさすってくれた。肩口に首を埋めると、彼女の匂いがいっぱいに広がる。
こんなことをしてくれるのは、男として意識してないからだ。おれが涼子に抱かれながら、髪の香りとか体の熱とか、いつもより近い彼女の存在を思って、心臓をうるさくしてるだなんて、想像してないに違いない。
さっきまであんなに寒かったのに。涼子が隣にいるだけで、こんなにも暖かい。
彼女はしばらくそうしてくれ、おれもされるがままでいた。自分からは離れたくなかった。ぬくもりを意識しなくなり鼓動も落ち着いたころには、自覚した気持ちはすっかり心になじんでいた。
「お昼、どうするの?」
涼子の問いをきっかけにおれたちは体を離す。まだ物足りなかった。食べるよりも、もっと抱き合っていたい。
離れがたそうな顔をしてたのだろう。涼子は一瞬意外そうにして、次いで優しく笑っておれの髪を撫でた。
「なにか作ろうか?」
迷いなく頷く。抱き合うことはできなくても、まだ一緒にいてほしかった。帰ってほしくない。
「今日のアキちゃん、なんか……素直ね」
大人しく撫でられているおれに涼子は小さく笑った。心外な表現だ。本当に素直なら、今ごろ全部ぶちまけてる。梨音とのことも、おれの気持ちも、全部。
「そんなこと……ないけど」
素直なら、気持ちのままに動いてる。もっと涼子に触れたいし、触ってほしい。涼子の体温が一番いい。触れなくても、その存在をできるだけ近くで感じていたい。
こういうことなんだ。あのとき梨音が言っていたこと。好きって気持ち。特別な感情。
触りたいとか、キスしたいとか。そう思ったら……。
思わず涼子の唇を見る。柔らかそうで、つやつやとした膨らみ。
心臓がまたうるさくなった。あれが与えられたら。優しく肌に触れて、ひとつになって。濡れた舌の感触と、粘膜を擦り合わせる快感。好きな子とそれを分かち合えたら。
好きな子と――涼子と。
想像だけで力が抜ける。顔を逸らし口元を抑えた。バカみたいに心臓が鳴る。苦しくて怖いくらいだ。
「アキちゃん?」
心配げな涼子の声がますます罪悪感を煽る。心配しなくていいと声を大にして言いたいのに、心配してくれるのがただ嬉しい。
「大丈夫……大丈夫だから」
「お水取ってくるね」
涼子は急いで靴を脱ぎ、リビングへと向かう。そのうしろ姿を見て、腰のラインがやけになめらかことに気がついた。
ツバを飲む音が大きく聞こえてぎょっとする。おかしい。同じものを見て、同じ音を聞いても。感じ方も考え方も、さっきまでとまるで違う。一瞬で作り替えられたみたいだ。
急いで涼子のあとを追う。流し台の前で捕まえて、奪うようにコップを受け取る。彼女はまた勘違いしたのか、そっと背中をさすってくれる。慈しむような触れかた。なのに、神経を直接刺激されてるみたいで。ぞわぞわした感覚に、思考がのまれそうになる。
「涼子は――なに食べたい? おれ作るよ」
焦って口にした言葉はさっきと真逆の内容だった。涼子も気づいているだろうに、笑顔で調子を合わせてくれる。
結局、ふたりでそうめんを作ることにした。夏のなごり。毎日のように食べていたそれを、今日も食べる。ハムやミョウガを出してきて、涼子が切る間に麺を茹でる。
彼女はミョウガをたっぷり入れるのが好きだ。だからいつからか、おれもそれが好きになった。同じものを一緒に食べて、おいしいと笑い合う。
さっきまでのことなんてなかったみたいだ。いつも通りの涼子との時間。何気ない――飽きるほどあった時間だ。それなのに、今はひどく満たされる。
これが恋なんだ。
もっと一緒にいたいと思う。同じものを体験して、同じように感じたら嬉しくなる。できれば触れていたいし、触れてほしいとも思うけど……それがなくたって、隣にいるだけでいいと思える。彼女を感じていられるだけで幸せだと思う。
おれのほうが先に食べ終わった。残りの時間で、最後のそうめんを啜る涼子を眺める。邪魔にならないように結われた髪の毛。すぼめられた口と、わずかに膨らむ頬。
視線に気づき、涼子が目をあげる。少し気まずそうな顔をして、でも口の中にものが入ってるからしゃべりはしない。急いで飲み込んで「なによぉ」と言う。
拗ねたような口調が可愛かった。でも言うつもりはなくて、おれは首を振る。「おいしかった」と改めて言うと、涼子は破顔して「おいしかったね」と返してくれた。
片づけが終わるころ電話が鳴った。皿洗いをしている最中で、先に気づいたのは涼子だった。「鳴ってるよ」と水を止め、それでおれも気づく。急いで手を拭き電話に出た。
『田嶋くんか』
嵯峨さんだった。返事をする自分の声はたちまち切羽詰まった色を帯びる。
「どうでしたか」
『きみに言われた場所に来た。会場の上の……斜面側の屋台の奥の道だね』
「はい」
『その道を行くと、五分もしないで開けた場所に出る。そこで襲われて、男が倒れた。間違いないね』
「はい」
電話の向こうが静かになる。遠くの方で『だめですね』と呉竹刑事の声がした。
『田嶋くん』
「はい……」
立っている床が遠く感じる。頭だけが別の世界にあるようだ。脳の奥で声がぐるぐると回っている。
『ないようだ』
「ない……」
何が、なんて聞く気も起きなかった。想像した通りになったのだ。
そう思っていた。
『きみが言う道は確かにあった。だが、途中で切れている』
「え?」
『行き止まりになってるんだ。呉竹に周辺を探させているが、広場のようなものはないらしい』
「え……」
『もう一度思い出してほしい。本当にこの道だったか。間違いはないんだね?』
はい、と答えた声はかすれていて、届いたかどうかもわからなかった。
床が遠い。それは激しくひび割れ、音も立てずに崩れていった。
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