【12】朝希・3(1)
あれだけ動転していたのに、荷物入れを落とさなかったのは幸運だった。混雑するバスに飛び乗り、下りるときになってようやく存在を思い出す。腰の重みに視線を落とし――そこで初めて、浴衣が乱れてることに気がついた。胸元がはだけてかなりのところまで見えている。裾も乱れ、脛が片方丸出しだ。なんとか羽織って帯で留めている……そんな印象。実際それは正しかった。
本来羞恥を感じて然るべきなのに、おれは「そうか」としか思わなかった。そうか、ずっとこんな格好でいたんだな。他に何か思う間もなく停留所に着き、お金を払ってバスを降りた。
家に入る前に気持ちばかり浴衣を整える。リビングにはまだ電気がついていた。ドアを開け「ただいま」と言ったが、ほとんど声が出ていなかった。
母親が出てきて何か言う。ちゃんとただいまって言ってだとか、今日は楽しかったかだとか、そんなことだった気がする。答えを考える気力すらなかった。せめてものプライドで平然と努める。楽しかったけど、疲れた。今日はもう寝るよ。そんなことを言って自室に戻った。
電気もつけずに部屋に入り、震え続ける荷物を投げた。携帯が鳴っている。涼子、楓、梨音に、未宇。着信とメッセージ。全部無視してベッドに倒れた。
自分のにおい。安心できる場所。
体が震えた。始めは小さく、しまいにはがくがくと。落ちつこうと深呼吸しても、鼻腔の奥に鉄錆の臭いがこびりつく。耳の奥では何度も音がする。鋭くて速い音。人間の骨が折れる音。
あの場から逃げる一瞬でおれは見た。男は右腕だけでなく、首もいびつに曲がっていた。
伸ばされる手。ズタズタになった腕と、真っ白な手のひら。
気分は最悪で思考はぐちゃぐちゃだ。疲労感で体は重い。何も考えず眠ってしまいたいのに、冴えた脳があの情景を繰り返す。臭い、音、暴れ回る手足、消える首。
未宇。
誰かがチャイムを鳴らす。母親がそれに応対する。話し方からして相手は涼子だ。通してしまうかもしれない――そう思ったが、上がってくる足音はなかった。
そのうち隣家の明かりがついた。カーテンを閉めてないことを思い出す。おれの部屋の窓から見えるのは涼子の家の二階廊下だ。そこに人影が立っている。
それはしばらくそこにいて、おれの部屋を覗いている。涼子だ。そのはずだ。耐えられず窓に背を向ける。背筋をちりちりしたものが走る。恐怖で鼓動が強くなる。
涼子じゃないかもしれない。涼子の姿に似せてはいるが、ガラス戸を開けた向こうにいるのは、まるで別のも何かかもしれない……。
携帯が鳴る。電話だ。
「うう……!」
頭を抱えて丸くなる。携帯はしばらく着信を伝えたが、やがて静かになった。
いつの間にか眠っていた。日の出と共に目が覚める。寝不足で朝日が目に染みた。
開けっ放しだったカーテンを閉め、乱れた浴衣を脱ぐ。適当な服を身につけリビングに下りた。母親はまだ起きていなかった。
しんとした家にひとり立つ。こんなことは初めてかもしれない。
ソファに腰かけ、しばらくぼうっと宙を眺めた。そのうち肌寒く感じてきて、閉まっていたカーテンを開ける。日ざしが入るがあまり違いを感じられず、ソファの上で膝を抱えた。半袖半ズボンで下りてきたことを後悔する。夏でも朝はこんなに寒いのか。
それでも動く気が起きなくて、クッションを引き寄せ抱きしめた。家のにおいがする。普段は気づかないそれを、今はやけに求めてしまう。
瞼は下りたがっていたが、脳は昨日と変わらず冴えていた。頭の中が白く澄んでいる。けれど思考はできなかった。感覚に対する閾値がやけに低い。
テレビの真っ黒な画面に目が行く。何分そうしていただろう。ようやく、昨日の出来事がニュースになってることに思い至った。
重い体を動かし、リモコンを探すとテレビをつける。朝のニュース番組は始まっていたが、政治とか世界情勢とか、全国区のニュースばかりだった。
地元の――地方のニュースはどう仕入れたらいいんだろう。番組の最中とか、番組と番組の間とか。そういう短い時間に、地方局のニュースが流れた気がする。そのためにあと何分待てばいいのか。
「ネットのほうがはやいのか……」
呟いてから思う。そりゃそうだ。頭の巡りが恐ろしく鈍い。
携帯はまだ自室にあった。取りに行く気も起きなかった。見たくない。触りたくない。たとえ求めてる情報がそこにあるとしても。
テレビを消してソファに戻る。二階から物音がして、びくりと体がこわばった。驚いたネズミみたいに身を縮める。母親のはずだ。それ以外ない。頭で理解したあとも、聞き慣れたリズムが降りてくるまで緊張は解けなかった。
「わっ、びっくりした」
母親はおれを見て仰け反った。彼女もラフな格好だ。寒くないのだろうか。
力ない声で「おはよう」と言う。母親は「どうしたの」と眉をひそめた。
「昨日から変じゃない。具合でも悪い?」
「ちょっと寒い……」
もっと厚着をしてきなさい、なんて小言を言われるかと思ったけど、母親は「待ってて」と二階に戻ると冬用の毛布を持ってきた。どこにしまわれてるのかわからない、季節が変わったら勝手に出てくるもの。もっとちゃんと手伝いをしなきゃダメだなと思う。
「熱測っておきなさい」
体温計を差しだされ脇に挟む。毛布をかぶるとじわりと体が暖まり、震えも治まった。そのうち体温計が鳴り、確認するより先に母親に取られる。
「熱はないみたいね。まだ寒い?」
「ちょっとあったかくなってきた」
「仕事行っても大丈夫?」
この歳になって、仕事を休んで側にいてほしいだなんて言えない。緩慢に頷くと、母親はおれの額に軽く手を添え、汚れた髪の根元を撫でた。
「入れそうだったらお風呂入りなさい。お湯溜めてきてあげようか?」
「ん……シャワーでいいよ……」
「今日も勉強会するの?」
おれは口ごもる。約束はしていない。でも止めるとも行ってない。未宇はさすがに来ないだろうが、涼子はそのうち来るだろう。いつものように。
「……体調悪いみたいだし、今日は遠慮してもらおうか。お昼ご飯とかは、涼子ちゃんにお願いして……」
「――!」
勢いよく顔を上げたおれに母親は言葉を切る。おれもおれで言葉が出なくて、彼女の首元に視線を落とした。
「……ひとりで大丈夫?」
優しい声が降ってくる。おれは小さく頷いた。未宇には会いたくない。でも、涼子にも会いたくなかった。今の自分を見られたくない。こんな自分を――。
「部屋で休んでなさい。ご飯できたら呼ぶから」
彼女の気遣いに素直に頷く。でも体は変わらず重くて、言うことを聞かなかった。ぼんやりとソファに目を落とすおれに、母親は「ここで寝てていいよ」と笑った。
それからは早かった。毛布のぬくもりと母親の気配は脳をみるみるほぐしていく。彼女はテレビをつけたし、窓からの日ざしは瞼の裏からでもわかるほど強くなる。でもうるさいとか痛いとか、そんなことは感じなかった。感覚器から入る刺激はまろやかになり、体内に染みる熱に呑まれていく。包丁の音が心音を律する。心地よいリズムだった。
眠っていたのだと思う。一度チャイムの音が鳴って、母親が出ていった。涼子は毎日おれの家に来るけど、さすがに鍵は持っていない。玄関先で話した結果、母親だけが戻ってくる。それを確認し、今度こそ意識はぬくもりの中に沈んだ。
目覚めるとひとりだった。時計は十時を過ぎている。母親は仕事に行ったのだろう。テーブルにはラップのかかった食事が載っていた。空腹だったのでありがたくいただく。
もう寒さはほとんど感じなかった。陽は高く、窓から差し込んだたっぷりの陽光がリビングに溜まっている。体は充分暖まっていた。顔を洗い、歯を磨く余裕すらある。
だが、心は薄ら寒かった。
テーブルには新聞もあった。こんなのわざわざ見なくても、ネットなら一発だ。そう思いつつもいまだ勇気が出ず、ぱらりと紙を捲る。
ニュース目的で開いたのは初めてかもしれない。全国区のニュースはテレビでやるからと母親は地元紙を取っていた。叶市や平坂市や――もちろん久鵺も――その辺りの話題を扱う奥泉(おうせん)新報。一通り目を通したが、目当ての情報はなかった。
発見されていないのだろうか。そんなはずは……。
会場から少し歩けば着く場所だ。屋台で働く格好だったし、急にいなくなって探す人もいただろう。それとも、大人であれば一晩戻らないくらいじゃ問題にならないのか。
……一晩どころじゃないが。あの男は、きっと一生戻らない。
未宇が殺したのだ。
あの白くて細い、女の子然とした手で。
そして、その手でおれの……。
身震いする。毛布に潜り込み考えまいと努力したが、思い出せば呑まれるのは一瞬だった。
いくら官能的に撫でられても全然勃たなかった。当たり前だ。触れる手は直前まで別の男の首に添えられていて、あまつさえそれを折ったのだ。
おれがまったく反応しないので未宇は困っていた。胸と舌も巧みに駆使し、言葉の通り奉仕する。でもおれはもう――ダメだった。少し前なら間違いなく刺激的に感じただろう視覚は恐怖に変換され、慈しむような愛撫は嫌悪を引き起こす。いつしかおれは泣きじゃくりながら未宇にやめてくれと懇願していた。
彼女は聞いてくれなかった。「大丈夫です」「すぐよくなりますから」……優しい言葉と柔らかい声色はいつもの未宇だったが、言いながらも激しくなる水音に、おれは扉のようなものが閉じていくのを感じた。何をしても逃れられない。そのための気力すら湧いてこない。不思議と涙は止まり、合わせて体の震えも治まる。ちらりとこちらを見上げ、未宇は嬉しそうに笑った。
他人の目を通して世界を見ている……そんな気分だった。もちろん目の前で未宇にいいようにされてるのはおれ自身だ。だけど感覚はだんだん鈍くなり、手足はもはや自分の支配下にないように感じる。それが他人の中にいる気持ちに拍車をかけた。吐きたいくらい気分が悪いのに胃液も出ない。内臓の支配権すら奪われていた。
そのうち未宇の手が止まった。おれから視線は外さないが、意識は別に向いている。それで初めて気がついた。人の歩く音がする。迷いなくこちらに近づいてくる。
徐々に大きくなる足音は、沈みかけていた意識を浮上させた。手や足の芯に力が戻り、ついでに胃液も上がってきたのか胸やけがした。
近づいてくる誰かに救いを求める。だが一方で、来てはいけないとも思っていた。あの男の二の舞になるかもしれない。未宇が何をするかわからない。
助かりたい。でも相手に危険を伝えたい。ふたつの気持ちがせめぎ合ったが、結局のところ無意味だった。舌が口蓋に張りついて声は出なかった。
人影が見える。暗闇に慣れきった目では誰かも明確に判別がついた。
梨音だ。
「朝希」
彼女は固い口調でおれを呼んだ。未宇も振り返る。その直前、一瞬だけ覗かせた表情が目に焼きついた。カッと見開いた目と噛みしめられた唇。激情の中に怯えと――なぜか悲しみがあって、気圧されると同時に困惑した。
「どうしたんですか?」
聞こえてくる未宇の声はさらりとしていた。あの顔つきも引っ込めて平然としているのだろう。彼女の浴衣はまだ乱れているはずだった。梨音と対峙しながらそれを整えているのが背後からでもわかった。
「どうしたもこうしたもないでしょ。朝希になにしてんの」
「一緒に花火を見てたんですよ」
「こんな場所で?」
「はい」
始まりは静かだった。……だからだろうか。梨音はすぐに激高した。会話の内容はおれのことだったけど、ほとんど頭に入らなかった。おれのために怒ってくれたのだと思う。でも恐怖に過敏になった心は、その激しさにすら反応した。
怒りが自分に向けられてるという錯覚。恐怖の対象の意識が逸れていること。そしてあの行為を、よりにもよって知り合いに見られたということ。
それらが合わさりぐちゃぐちゃになって、体が動くことに気づいた瞬間――震える足でおれは逃げだした。
追おうとする未宇、それを阻みながらもおれを呼ぶ梨音。よろめきながらも祭りの灯に向かって走り続けるおれ。
気づけばバス停にいて、花火は終わっていた。
「…………うぅ」
蘇った昨夜の記憶に歯ぎしりする。体は毛布の熱になじみ、とろとろとおれをまどろみのなかへ連れ出そうとするのに、頭が冷たく冴えたせいで叶わなかった。
あと一週間ほどで学校が始まる。どんな顔して会えばいいのだろう。梨音とも、未宇とも。
未宇……彼女にもう一度会うときなんてくるのだろうか。今はまだニュースになってなくても、遅かれ早かれ死体は見つかる。そうなったら、彼女は人殺しだ。
「ハハ」
ひとり自嘲する。そうならなくても人殺しだ。未宇は素手で男の骨を折った。手も、首も。信じがたい話だけど。
倒れた男の、普通の人間じゃ曲がらない部分。そこにばかり目がいって死に顔を覚えてないのは幸運だった。そのおかげで記憶が反芻できる。彼の元の顔は知らないが、あの獣じみたものとはまるで違うはずだ。改めて見たって気がつかないほど……。
急に怖くなった。
そもそも、こんな話を誰か信じてくれるのか。女の子が男の首を折ったという一点だけで非現実的だ。そのうえ、おれにはあれが誰だったかわからない。あの異常な表情と暗がりのせいで、おそらく生前の写真を見てもこの人と断ずることはできないだろう。
おまけに――死体がニュースになっていない。
あれは起こったことだ。そのはずだ。なのに今のおれにはそれを証明する手段も、他者を納得させる理屈もない。自分の恐怖――昨夜から今までずっと囚われている感覚の根底が揺らいでいく。別の部分から猛烈な不安が湧き起こる。
「携帯……」
見なきゃ。調べなきゃ。
山のような連絡から目を逸らしたい気持ちは変わらない。でもはっきりさせたい思いのほうが強かった。あれからまた時間が経っている。新聞に載せられる段階まで発見されなかったというだけで、もうネットニュースくらいにはなってるかもしれない。
死体。山の中で見つかった、首の折れた死体。
重い体を持ち上げて毛布から出る。離れるのは心細かったが、持って歩くにはかさばりすぎた。身を縮めながらリビングを出て階段へ向かう。
ぴんぽーん。
一段目に足を乗せたとき、チャイムが鳴った。体が固まる。ドアの一部には磨りガラスが使われていたから、そこからシルエットが見えた。小柄な影。子どものようだ。
もう一度チャイムが鳴る。出る気はなかった。でも外の人物が去るまで動けない。制約が体をこわばらせて足に力がかかる。ギ、と階段が軋んだ。
「朝希」
梨音の声がした。
「朝希、いないの?」
昨夜の光景が蘇る。おれ、死体、未宇……そして梨音。
彼女はあの場にいた。死体を見たはずだ。
誘われるように階段を降りた。小さいながらもトン、と音が鳴る。聞こえたのか、磨りガラスに映る影の形が変わる。室内を覗き込んでいる。
土間に下りて鍵を開ける。扉の外には梨音が立っていた。おれを見て表情を明るくするが、すぐ不安げに眉根を寄せる。
「大丈夫……?」
「……ん」
返事をしたつもりだったが、声は出ていなかった。自分の記憶を確かめたくての行動だったが、いざ彼女を前にすると、あの場を見られた気まずさも蘇る。見てられなくなって視線を落とすと、梨音の手が体を押した。
「入って」
固い声だった。昨夜のような。急な豹変に驚く間もなく家の中に押しこめられる。続いて梨音も入ってきた。後ろ手にドアを閉め鍵をかける。
「り……」
「もう未宇とふたりきりにならないで」
梨音はうつむいていた。前髪で目元が見えない。それが彼女を別人のように錯覚させる。
「あいつダメだよ。危ないよ。わかってるでしょ、自分がなにされたのか?」
前髪の隙間から鋭い目が睨め上げる。気圧されるが、昨日のことに触れられて反射的に声が出た。貼りついた喉を無理に使ったそれは裏返っている。口角が何かをごまかすようにひくつく。
「な、なにって」
「アタシが行かなかったらどうなってたと思ってるの? あんなのレイプだよ。違う?」
レイプ。
その言葉はすとんと胸に落ちる。おれが最後まで見まいとしていたこと。記憶の中ですら、曖昧な言葉でぼかそうとしていたこと。
そう。そうだ。でも。
「おれ……男だし……」
勢いよく顔が上がる。そこには確かに梨音がいた。険しい顔で、厳しい目つきで、おれに詰め寄ってくる。
「意思に反して相手に性行為を強要することがレイプなんじゃないの? そこに性別なんて関係あるの? さすがに犯罪でしょ、こんな――違うの?」
叱られてる子どものような気持ちだった。おれが口ごもるのと対照的に、梨音はますます高ぶっていく。
「どうしてなにも言わないの。平気なの? されて嬉しかった? 未宇をかばってるの?」
「ち……ちが……」
もはや明確に彼女はおれを責めていた。あんな目に遭って泣き寝入りしつつあるおれに対して。
理不尽だ。どうして責められなきゃいけないんだ。あのときだって怖かった。嫌だった。同意のない行為をされることも、女の子の手をもってしても使い物にならない自分の性器を見ることも。
おれのせいじゃない。頭では理解してる。でも心はそう思ってない。おれは結局出来損ないだ。この体は雄として使い物にならない――。
レイプ。死。折れた首。未宇の手。花火。萎びた性器。
恐怖と嫌悪と絶望のなか、確かにあった自分自身への失望と諦観。百人が聞けば全員がおれのせいじゃないと言ってくれる。そう思うのに、おれだけがそう思ってない。そしておれの意見は、おれの中では何よりも強い力を持つのだ。
後じさり、上がり框に踵をぶつける。そのまま床に座りこんだ。体に力が入らない。もやもやとした何かが体中に溜まって、内側からおれを圧迫する。胸が詰まり、呼吸もままならない。吐いて、泣いて、わめきたかった。梨音さえいなかったら、間違いなくそうしていた。
視界に梨音の靴が映る。白のスニーカー。汚れひとつないそれは、煽るように輝いている。
「……アタシがなんで怒ってるか、わかってんの?」
続く声は静かだった。先ほどまでの激情はない。感情を殺した――どこか平坦にすら思える口ぶり。
頭を抱えるおれの手に、柔らかい手がそっと触れる。
「未宇に近づかないで。それが無理なら、ふたりきりにならないで。アタシが一緒にいれたらいいんだけど、そうできないときは……涼子……アイツでいいから、一緒にいるようにして。絶対ふたりきりになっちゃだめ。お願いだから」
しばしの沈黙。そしてささやくように、苦しげな声が降ってくる。
「朝希。こっち見て」
ゆるゆると顔をあげる。思ったより近くに梨音の顔があった。そこに怒りはなかった。ただ悔しそうな、切なそうな表情があるだけだ。
「わかるよね? アタシがなんで、こんなこと言うのか……」
見つからない言葉を探す。震える唇に梨音はそっとキスをした。一度離れて、もう一度。心細い、ひどく寒い――そんな中で与えられた淡い熱は、おれの体を動かなくさせるには十分だった。
体重がかかる。ずっと続くキス。優しく押し倒され、床の冷たさを感じて。だけど覆いかぶさる軽くて柔いぬくもりが、頭の芯をぼうっとさせる。
いいのだろうか、こんなことをしていて。あんなことがあったばかりなのに。
夏休み前は、気持ちには応えられないと……考えていたはずだ。結局言う機会もなくずるずると引き延ばし、あげく彼女とキスをしている。
相手を受け入れている。それが昨日と違う点だった。したいなら好きにすればいい。それについて何かを考える気も起きなかった。
ごちゃごちゃとわけのわからないことを考えるから、何もできないんじゃないのか。ただ感情のまま……望むままにふるまえばいい。あの日プールで言われたのは、そういうことじゃないのか。
だとしたら、おれは何も考えたくない。何もかもがどうでもいい。
ただひとりでいるには……ここはひどく寒い。
「朝希……」
梨音がおれの名前を呼ぶ。少し上ずった声で、何度も何度も。繰り返される軽い口づけは、徐々に深く長く、互いの唇を馴染ませるようになっていく。
舌が唇を割って歯列をなぞる。未知の感触に思考がますます奪われる。舌先をつつく、動きと同じに小さな舌。思わず自らのそれで追うと、今までのは児戯だったかのように絡め取られた。相手の腔内に引きずり込まれる。初めての感覚。
合間に漏れる呼気が耳に響く。おれの頭を抱え込み……逃がさないとでもいうように、息をする暇ももったいないと言わんばかりに、梨音は舌を絡めてくる。あのとき見た赤い舌が、ずっとおれの中にある。裏筋をなぞって、舌先を絡めて。しまいに表面同士をずりずりと擦り合わせられると、背筋をぞくぞくと甘い痺れが走った。
唇が離れ、おれは目を開ける。ずっと触れ合わせていた彼女のそこは真っ赤だった。生々しい紅から目が離せない。
「あはっ」
梨音は笑って身を震わせた。おれの手はいつの間にか彼女の腰に伸びている。スッと伸びた筋肉が、指の下で柔らかく緩んでいく。
口づけが落ちる。ひとつ、ふたつ。いつのまにか閉じられていたおれの瞼は、三つ目のそれがこないことで再びゆるゆると開く。目の前には梨音の瞳。視界の端にある唇は、おれの唇のすぐ上で留まっている。
「朝希……」
梨音は待っている。
何を?
そんなのは決まっている。何も考えなくていいのだ。望まれるままに……それでいい。
おれだって思ってる。何も考えたくないって。おれを受け入れてくれるもののなかで、ずっと目をつぶっていたいって。
暗がり、森、よだれ、血とアンモニアの臭い。帯の上にこぼれた白い乳房と、柔らかい手……肉厚の赤い舌。折れた手、曲がった首。花火。月光。
考えたくない。忘れたいんだ。
片手を梨音の顔に伸ばすと、彼女はそれに頬を寄せる。あどけない膨らみがしっとりと手に吸いつく。
「梨音……」
初めてまともな声が出る。梨音の視線が上がってきて、おれの視線と交わった。
腰に残る手のひらに力がこもる。甘くとろけた瞳。心地いい温度。少し動くだけでいいのだ。それだけで、もっと近くに行ける。
首に力を入れ、わずかに持ち上げる。そのままおれは……梨音に口づけようとした。
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