【11】未宇・2(4)
広場奥の階段を登り、上の屋台へ続く道に出る。そこは本来広く道幅が確保され、落ちないように設置された柵の側にはベンチもあって、休憩スペースも兼ねていた。しかし今は花火目的の人でごった返し、ベンチも子どもの踏み台となっている。
懐かしい店を通り過ぎ端までいくと、細いけもの道が続いていた。未宇は「こっちです」とおれを促す。
知らない道だ。こんなところがあったのか――。
おれは未宇の手を振り払えないでいた。彼女の力は強い。レリーズで犯人を押しとどめたのも納得だ。加えてこの先に涼子たちがいるのも離れがたい要因のひとつだった。はぐれたというのにふたりから――特に涼子から――連絡がないのは不穏だ。しかしそれ以上に、こんなにも必死さを滲ませる未宇を拒絶することができなかった。
それでも楓が心配なので、空いてる手でメッセージを打つ。「上の屋台の道に来てる。森に入るみたいだ」……通路は混雑していたが、屋台前はさすがに人の通るスペースがあった。激しい抵抗こそ迷惑でも、こういうことをする余裕はある。これで楓も近くまで来れるはずだ。
山に入るのは不安だった。慣れない下駄で足元も危うい。最低でも祭りの灯が見えるうちに止めよう。そう思う。
だが心配は杞憂に終わった。道に入ってそう間を置かず開けた場所に出る。灯は森によって薄まっていたが、見失わない距離に存在していた。
空間は背の低い木々に囲まれていた。月明かりが入るので、それまで歩いた道と比べれば明るく見える。会場の電飾で気づかなかったが、今夜の月は大きかった。それでも森の奥には光が届かず、詳細な広さまではわからなかった。
「え……?」
そして、そこには誰もいなかった。
山に入ってからのおれは抵抗を止めていた。それは涼子がこの先にいるという――未宇の言葉を信じたからだ。
おれの知らない道。それを未宇が知っているはずがないから。
「未宇……?」
熱が離れ、山風が手のひらを冷やす。頼りない月光の中、未宇がゆっくりと振り返る。
「わたしじゃだめなんですか」
そこには黒い顔があった。濃く差す影。闇に塗り潰された表情。
息を呑む。
目が慣れないからだ。これは未宇だ。
「わたしじゃだめなんですか。わたしじゃその気になれませんか」
空が光った。花火の灯はここまで届き、おれたちの輪郭も一瞬淡く照らされる。目の前にいるのが未宇だということを、おれに教えてくれる。
どん、という音。空間を揺らす衝撃は、おれの心臓までも揺さぶる。
「朝希くんとセックスしたいんです。あなたの精子がほしいの」
どん、どん。絶え間なく光る空。未宇はころころと姿を変える。黒塗りの怪物と、必死に訴えかけてくる可憐な少女。だが紡がれる言葉が思考を混乱させる。怪物のほうが本来の姿ではないかと――そんな錯覚に陥る。
おれは後じさる。そうすると“それ”も前に出る。そんなことを繰り返すうち、背中が木にぶつかる。バランスを崩して座りこむ。周囲には丈の高い草。おれの体は草木に囲まれ――もう光は届かない。
「朝希くん」
伸ばされる指は、熱は――覚えのあるものだ。でもその姿は、闇に包まれている。
理解が追いつかない。
柔らかなものが体に当たる。細い指が頬を撫でる。黒い顔が迫ってきて、口に何かを押しつける。思わず声が出そうになり開いた唇の隙間から、濡れた柔いものが入ってくる。
喉の奥で悲鳴が上がる。ぬるぬるしたそれは、明確な意思を持っておれの腔内を蹂躙する。なまめかしく蠢いては舌を引きずり出そうとする。
くちゅくちゅと淫猥な音が脳に響く。甘い味。逃れようと合間に吸う空気さえも甘い。
逃げようにも体が動かない。上に“それ”が乗っている。胸元と腰をくねらせ、おれに擦りつけてくる。
触覚も、聴覚も、嗅覚も味覚も。快だけを伝えている。それなのに視覚だけが――“それ”の顔が見えないという一点だけが――暴力的なまでの恐怖を伝えてきて、残りの感覚もすべて反転させた。
得体の知れないものにまさぐられている。体表から粘膜まで。
「なんだってできます。朝希くんがしたいこと……なにしたっていいんです。どんなことだって……なにをされたってわたし、気持ちいいですから……」
唇の上でささやかれ、手を取られる。皮膚が飲まれるような感触があった。
ようやく目が慣れてくる。目の前には未宇がいる。でももうすべてが遅い。おれにはそれが、未宇の形を模した怪物にしか見えない。
彼女は体を起こす。火照った息を吐きつつ、自らの手を添えたおれの手を、浴衣の襟元に滑らせる。すべすべとした肌の感触。いつの間にか浴衣ははだけられ、豊かな胸が目の前にあった。おれの手でそれを下からすくい上げ、馴染ませるように小刻みに揺する。
「これも全部、あなたのものなんです……はぁ……ね、お願い……しましょ? わたしと……」
行為を想起させるように腰が揺れ、ゆるい刺激が伝わる。おれはそれに嫌悪を抱く。
もっと言うなら、その刺激を快と感じる自分に対して。
「いっぱい……ご奉仕しますから……んっ……朝希くんの赤ちゃんの素、全部……わたしの中に、出してください……」
乱れた浴衣。さらけ出された胸に、恍惚とした表情。顔色はわからないけれど、その頬は赤く、熱くなっているのだろう。触れたら引きずられてしまうだろう熱。
おかしくなりそうだった。半ば強制的に与えられる快。拒絶しろと叫ぶ理性。それを補強する暗闇――。
でも未宇が。未宇を形取った暗闇が、乞うような目でおれを見て。柔らかな肉体の感触と、暗闇でなお白い肌。加えて焦らすような腰つきが、腹の奥に火を灯す。思考の流れの邪魔をする、巨大な破裂音。恐怖と嫌悪の奥で、揺らぐ火が――熱が。徐々に大きくなっていく。
がさり、と音がした。
未宇の背後に誰かが立っていた。月明かりに照らされ姿が見える。
知らない人間だった。Tシャツと作業パンツを身につけた壮年の男。小柄だが鍛えた体つきだ。汚れた服から汗と油のにおいが流れる。焼いたタマネギのような香ばしい香り。どこかの屋台の人だろうか。
見られた――。
だが焦燥はすぐ霧散する。男の様子はおかしかった。おれたちの前に立っているのに、目はこちらを見ていない。半開きの口からは「ウロ……ロ……ロ」と妙な音がこぼれた。
男がこちらに向かってきて、未宇はワンテンポ遅れて振り返った。彼女が危ない――そう思ったが、止める間もなく――というより、何かする間もなく――男は一直線に、おれへと手を伸ばした。
「えっ……?」
声をあげたのは同時だった。両肩を掴まれ持ち上げられる。未宇の体は地面に転がり、熱を失ったおれの両足は気づけば宙に浮いていた。
「なっ……」
男の頭上まで掲げられ、月明かりに照らされた顔を正面から見る。そこには明確な異常があった。焦点の合わない瞳。口角に溜まった泡。獣じみた顔つき。荒く肩を上下させる男の呼気からは、やけに甘ったるいにおいがする。
「朝希くん!」
体が動かない。おかしな話だが、抵抗する気すら湧かなかった。突然のことに、体も心も――全身が麻痺している。
あられもない姿の未宇を無視して、まっすぐおれを狙う男。異常な顔つき、甘ったるいにおい――。
「やめてください! 朝希くんを離して!」
未宇が男の右腕に飛びついた。衝撃が肩まで伝わる。男は手放すまいと力を込め、おれの肩に指先を食い込ませた。彼女を振り払おうと身をよじり、振動でおれの体はがくがく揺れる。
「どうしてみんな邪魔するの! どうして……!」
未宇が叫ぶ。その声は泣いていた。月明かりが潤んだ目元を照らす。
かすかな風、梢の鳴る音。男の荒い息におれのうめき、未宇の叫びに花火の音……様々な音が絶えず鳴り、雑然としていた空間。それがほんの一瞬、静寂に包まれる。
花火と花火の合間。風すら吹くのを忘れた、その隙間を縫って――
ぼきり、と音がした。
男の右手から力が抜ける。急いで肩を引きはがすと、宙づりだった体が地面に落ちる。距離を取ろうとするが浴衣で足がもつれ、おれはほとんど動けず膝をついた。
男は即座に追ってくる。振り返れば太い腕が迫っていた。
「え……?」
言葉を失う。腕は片方しかなかった。もう一方は前腕の途中で折れ、あらぬ方向に曲がっている。男は構わず――一切気にした様子もなく――おれ目がけて手を伸ばす。折れた腕はだらりと垂れ、新たにできた関節が赤黒く腫れていた。
その手を影が遮る。未宇だ。男の前に立ちふさがり、迫る左腕を片手で止める。
男の右腕は見えなかった。おれは尻餅をついたままで、男の姿は未宇の体に隠されほとんど見えない。ふたつの影が同化して、ひとつの生き物になったようにも感じた。
ふたりはしばらく動かなかった。そのうち、未宇の頭上から男の頭頂部が現れる。
闇から生まれる、青白い人の顔。
ひどく不気味だった。白目を剥き、よだれを垂らし、おぞましい表情を浮かべている。
やがて男の生首は完全に生まれ出る。首元には白い手がかかっていた。
「ぎ……ぐぐ……が……ぐううぅ」
こぼれ出る唸りの合間に、獣じみた勢いで歯がガチガチと鳴る。足は地を掻き、未宇を蹴ろうと暴れつつ、ときおりびくんと痙攣した。折れた腕も同様だった。手のひらのついた棒がぐるぐる回転し、未宇の体に何度も叩きつけられる。力任せに振られるせいか、新たな関節からは白いものが飛び出た。
激しい、そしておぞましい抵抗。痛みも何も感じていない、折れた腕すら凶器に使う、常人には理解できない光景。暗くてよかったとおれは思う。もししっかりと見えていたら……捻転する腕や生々しい痙攣を、細かく目に焼きつけねばならなかったとしたら。
こみあげるものに口元を抑える。今だってこうなのだ。きっと嘔吐していただろう。
それほどの抵抗に遭いつつも、未宇は声一つあげなかった。体勢を崩すこともなく、まっすぐに立っている。
先ほどの比にならない音がした。バキンと鋭く――機械じみた速さすら感じるそれが響いた直後、男の首が未宇の上から消えた。体はそのままだ。だが抵抗はぴたりと止まり、右手が力なく垂れ下がる。それは常人のものより長く見えた。
細く水の流れる音がする。漂うアンモニアの臭い。
張り詰めていた空気が解け、未宇の体からも力が抜ける。直後、男の体は地に落ちた。
彼は受け身も取らなかった。重力に任せて地面に落ちる。土の上に倒れて、それだけだった。動かない。動く気配もない。
ゆっくりと未宇が振り返る。瞳はまだ濡れている。ほぅ、と吐く息は扇情的で、欲望を露わにしていた。
未宇と落ちた男を交互に見る。何が起こったんだ。未宇は何をした?
「朝希くん……」
未宇の手が伸びてくる。白く綺麗な手は血塗れだった。いくつもの擦り傷と、肉を抉る深い傷痕。振りまわされていた腕の――関節部が当たったのだろう。男の最後の抵抗。
「み、未宇……」
尻餅をついたまま後じさる。未宇の手が近づくほど体は固くこわばった。しかし彼女は気にした様子もなく、血なまぐさい手でおれの目元を優しく撫でる。
「最初からこうしていればよかった……」
空気が溜まって血の臭いが濃い。覚えのあるアンモニア臭。人のぬくもり。甘い香り。
未宇がしなだれかかってくる。柔らかな胸を押しつけて、愛おしげにキスをする。顔の輪郭を指の甲で撫で、首筋を伝って胸板へと手を這わす。
「朝希くんはなにもしなくていいです。わたしに任せて……」
ついばむような口づけ。かと思えば舌を差し込まれ、深く舌先を吸われる。粘膜を擦り合わせて、耳穴を擽られて。未宇の声と唾液の音が、耳に出入りする指先で信じられないほど増幅される。頭全体に響く音。強制的に脳を侵食する。
未宇の手が腹を辿る。浴衣の合せをまさぐり、前をくつろげて。
指先が、下着の中に入ってくる。
「――――!」
どん。どん。どん。
おれは声をあげる。あげたはずだ。
それなのに、聞こえるのは鼓動すらかき消す破裂音と、卑猥な水音だけで。
悲鳴も疑問も戦慄も。未宇の唇のなかに、すべて飲み込まれてしまった。
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