【11】未宇・2(2)

 未宇の表情は雄弁だった。きょろきょろと屋台を見回し、すれ違う人が持つ食べ物に関心を示す。だが口に出す気はないようで、会話には混ざらずおれの半歩あとをついてきた。

「未宇?」

 声をかけると「どうしましたか、朝希くん」と笑ってみせる。おれでもわかる、心ここにあらずといった様子だ。

「……食べたいものあったら、言ってもいいんだぞ」

「えっ」

 見る間に頬が赤く染まる。ちらちらと背後を気にしながらも前方に意識を向け、小さな声で「あの」とか「でも」とか言う。

「ご、ご迷惑でしょうし……」

 未宇のこういうところ――この考え方自体は、正直わかってしまう。周りが盛り上がってるときに、自分の欲求を押し殺してしまう感覚。たぶん、理解できる人とできない人とがいると思う。輪の中心でなく、周辺にいる人間が抱えるそれ。自分の主張は通らないとさまざまな理由で確信していて、集団の中で口を開くことができない。

 そしてきっと、その感覚を共有できるのはこの中でおれだけだ。

「迷惑って――そんなことないよ。みんなもそう思ってるだろうけど……そうだな。言いづらかったら、おれにだけでも教えて。未宇も――」

 言葉を切ると未宇は小首を傾げる。一瞬迷って、結局おれは思ったことを口にした。

「――初めてだろ? こういうお祭り。あんまり気を遣わないで、楽しんでほしいんだ。未宇が食べたことないものもあると思う。おれも、そういうの未宇に食べてほしいなって思うから」

「え……」

「結構通り過ぎたけど、気になるものなかった? ひとりで食べきれそうになければ一緒に食べよう。おれも半分出すからさ」

 前方では梨音が射的に興味を示し、やるとかやらないとか勝負がどうだとか、そんな話題で盛り上がっている。みんなにはあそこで待っててもらおう。そう考えていると浴衣がきゅっと掴まれた。柔らかな手が袖口を伝い、おれの手のひらの上に落ちる。

 控えめに絡む指先。縋るような強さでおれの手を引く未宇の頬は、先ほど以上に真っ赤だった。見上げる目はなぜか潤んでいて、初めて会ったときを思い出す。りんごみたいなほっぺ。泣き出しそうな瞳。指先から伝わる、離れがたいぬくもり。

「み、未宇?」

 少し顎を引き、見上げるようにして向けられる目。うっすらと盛り上がる涙の膜が今にもこぼれ落ちそうで、未宇がなぜそんな顔をするのか、おれにはわからなかった。

 わかるのは、おれがそこから目を離せないことだけだ。

 未宇は何か言いたげなそぶりを見せたが、結局はごまかすように笑った。それから小さく「わたあめ……が食べてみたいです」と言う。

「あれも食べ物なんですよね?」

 振り返った視線の先――屋台の入り口付近にはわたあめ屋があった。

「蜘蛛の巣みたいな……蚕の繭みたいな。子どもが食べててびっくりしましたけど……甘いって言ってるのが聞こえたから、気になって……」

「そ……そうだね……」

 あれを虫関連のものに例えてなお食べてみたいだなんて、やっぱり未宇は変わってる。でも、そう思うならなおさら食べてほしかった。

「行こっか」

「え……でも……」

 未宇は涼子たちのほうを見やる。彼女の戸惑いを消すべくおれは声を張った。

「涼子! わたあめ買ってくる!」

「え? 朝希は射的やんないの?」

「わかった! ここで待ってるね」

 快諾してくれた涼子にふたりを任せる。始めは困惑していた未宇も、絡んだままの指先を引くと今日一番の笑顔を見せた。つられておれも笑みがこぼれる。

 来た道をふたりで戻りわたあめを買った。記憶の中より高かったが、楽しそうな彼女の前では気にならない。商品が作られていくところを見ながら未宇はしきりに感心し、その懸命さと愛らしさに、店主はやに下がった顔でできたてのわたあめをくれた。

 自分の顔ぐらいの大きさのものを前に、未宇はおれと目の前の塊とを交互に見る。「食べたら?」と促すと、意を決したようにぱくりとかみついた。

「あまい……!」

 ぱっと表情が明るくなる。一生懸命言葉を探し、感動を伝えようとする未宇は子どもみたいだ。

「軽くて、舌の上ですぐ溶けちゃうんです。でもお砂糖の味がする……」

「おいしい?」

「はい!」

 ためらいなく「おいしい」と言い切る未宇が眩しかった。おれはわたあめなんか子どもの食べものだと思っていて、実際最後に食べたのはだいぶ昔のことだ。見た目は軽やかで子ども心を誘うけど、途中で飽きるし腹持ちしない。屋台にはもっと魅力的なものがたくさんあって、いつからかおれはそっちに夢中になっていた。

「朝希くん」

「ん?」

 ほほえましく未宇の様子を眺めていると、おずおずとした視線とかち合う。未宇はおれにそっとわたあめを差しだした。

「朝希くんも、食べませんか?」

「いや、おれは……」

 そこまで好きなわけじゃないし、食べれそうなら全部食べていいよ――浮かんだのはそんなところだったが、言葉にはならなかった。顔を見ればわかる。彼女は、わたあめを全部食べたいわけじゃない。

「……うん。おれも食べたい」

 未宇はまた頬を染め、喜々としておれにふわふわの塊を押しつけてくる。「食べてください、おいしいですよ」と――まるでおれが食べたことがないとでも思ってるみたいに。

 乞われるまま塊を舌に乗せると、瞬く間に溶けてしまう。残るのは甘い味。だけどそれは、今まで感じたことのないものだった。ただの砂糖だ。でも、たまらなくおいしい。

「え? おいしい……」

「ですよね!」

 もういいですか、もっと食べませんかと未宇が言うので、お言葉に甘えてひとつまみもらう。でも上手くちぎれなくて、細い糸でつながったいびつなわたあめを、ふたり顔を近づけて食べた。やっぱり、それはおいしかった。

 味は昔と変わらないはずだ。それなのに、こんなにおいしく感じるのはなぜだろう。

 カケラを食べきると口元が突っ張ってるのに気づいた。口の端についたのが溶けて乾いたのだろう。触ると少しべたべたした。

「どうしたんですか?」

 口元を擦っていると未宇が不思議そうに言う。「ちょっとべたべたしてるんだ」と正直に答え、戻ったら涼子にウェットティッシュをもらおうと考える。甘えてるようで格好悪いが、涼子は絶対に持っているのだ。未宇だってべたついてるだろうし……なんて言い訳を考えながら、無意識に口の端を舐める。

 そこに何かがあった。

「え……!?」

 明らかに自分の皮膚でないものを舐め、ぎょっとして身を引く。傍らには指があった。それと、驚いた顔で固まる未宇。

「あっ……? ごっ、ごめん!」

 未宇の指を舐めたのだ。おれを気にして伸ばした指を――。

 思考が混乱する。未宇は舐められた指先を見つめ動かない。唾液がついてる、汚いから拭かなきゃ――ウェットティッシュ――は涼子が持ってる――ハンカチでもいいだろうか――。

 腰の信玄袋をまさぐりハンカチを取り出す。しわが目立つけど、洗ってあるから綺麗なはずだ。アイロンをかけてないだけで。

 顔をあげると同時に未宇が動いた。見られているのに気づいてないのか、指先をゆっくりと唇に寄せる。

 そして、何気ない様子で口に含んだ。

「え……」

 含みのある口元から、舌が動いているのがわかる。

 ちゅ、と音がした。

 屋台からは注文を取る声がひっきりなしに聞こえる。それに答える男女の会話。みんなが声を張るので、いろんな高さの音が混じる。人々の応酬、赤ん坊の泣き声。叫びに似た子どもたちの笑い。

 その中で、ただ――口から指が離れた音が。

 自分の指をしゃぶるという、ある程度の歳を取った人間がするには下品な行為がもたらす音は、周囲の雑音をものともせず、ずっしりとした重みをもって鼓膜に響いた。

 未宇が見ている。目を逸らさずに――恥ずかしがる様子もなく――こちらを見つめている。赤い唇からのぞく真っ赤な舌は、いまだなごり惜しそうに指先へと乗っている。

「朝希くん」

 未宇がおれを呼ぶ。近づきながら、唾液で濡れた指でわたあめをちぎる。

 ――変だ。

「はい、あーん」

 半開きの口に、未宇はわたあめのかけらを入れる。はみ出た分を指先で押しこめる。

「おいしいですか?」

 未宇の指は――おれが舐めて、未宇がしゃぶって。わたあめを口に入れるのに使われた人差し指は――おれの下唇に留まっていた。そのささやかな重みで口が閉じられない。自然に溢れる唾液が砂糖を溶かす。

 ごくりとつばを飲み込む。それは甘くて――やけに量が多かった。

 変だ――。

「朝希くん?」

 未宇の爪先はまだ下唇にある。赤い顔で、潤んだ目で。距離が近くて、周りにたくさん人がいるのに、ふたりきりのように感じる。

 未宇はおれを見ている。水気と灯できらめく目が、おれだけに向いている。

「あ、いや――」

 女の子が近くにいて――慣れない接触をされるといつも痛いように鳴っていた心臓が、今は恐ろしく静かだ。

 そうだ。変なのは未宇じゃない。おれだ。

 心臓は静かなのに、へその下辺りがやけに重い。未宇の仕草や声や、指先の感触。舌を手から離した時の水音が、重量を持ってそこに溜まっていく。

 未宇の唇から目が離せない。ぽってりとした肉厚の唇。隙間からのぞく小さな歯と舌。

 そこからおれの名前を呼ぶのだ。わたあめなんかより数倍、甘さを含んだ声で――。

 吸い寄せられるように視線をあげると未宇と目が合う。ぱち、と――磁石がくっつくときみたいな感覚があった。そうあることが自然で――そうなったことが互いに理解できる――明らかに――そんな感覚。

 未宇は恥ずかしげに眉根を寄せ、でも目だけはおれから逸らさなかった。顎を引いて、上目遣いに向けられる視線は、同じ感覚を抱いてなお、それを受け入れてることを伝えていた。

 ぎゅ、と心臓が縮まる。だめ押しだった。なんとか耐えていた腰の重みに最後の一撃が加わる。心臓と脳が混じった別の器官ができたみたいだ。存在が無視できない――何かもわからないのに――そこから突き動かされる感情がある。

 触れたい。未宇に。

 赤い頬の温度を確かめたい。柔らかそうな唇の感触を知りたい。

 なんで。どうしてこんな急に。理性はそう叫んでいたけど、おれの体は動いていた。

 赤い頬に指を這わす。未宇は一瞬目を見張ったが――すぐに目尻をとろけさせ、おれの指に頬を擦りつける。受け入れられている。求められている。こんなにもわかりやすく、その事実が目の前にある。

 人の目さえなかったら。

 おれがすることを、未宇は全部許してくれる気がする。まっすぐ……なんのひねりもなく……未宇はおれだけを見てくれる。

 苦しい。変だ。おかしい――。

 体が重くて熱っぽい。この熱をどこかにやらないと、おかしくなりそうな気さえする。未宇も知ってるんだろう。だからこんな顔をするんだ。そんな目でおれを見るんだ。

「朝希くん……」

 おれたちは知っている。

 どうすれば、この熱が消えるのか。

「は……あ……」

 思わずこぼした息は途中で詰まり、荒く吐き出される。それがなんだか“男”みたいで――おれは混乱する。

 頭と体が別々みたいだ。急に降って湧いた感覚に理解が追いつかないのに、ずっと前から知ってたみたいに体は動く。

 のまれてしまいそうだ。空気に――未宇に。おれ自身に。

 頬の指を唇へと滑らせる。未宇が悩ましげに息を吐く。おれの視線はいつの間にか、小さく震える唇に釘づけになっている。

「み――」

「朝希?」

 びくりと身を縮めたのは自然な反応だった。こわばった首を音の方へ回す。そこには楓がいた。片手を軽くあげたポーズで固まっている。

「え……と。だいじょぶ?」

「へ、え……?」

 出てくる声は上擦っており、控えめに言ってめちゃくちゃまぬけだ。楓は未宇とおれとを交互に見て、呆けた調子で「遅かったからさ」と言った。

「ご、ごめん」

「お金足りないのかなと思って。そんなわけないよね」

「う、うん。ちゃんと買えた」

「そか。よかった。じゃあ戻ろうよ。日下辺さんすごいんだよ、撃つ弾全部当たるんだ。ここに当てたら弾が増える、って的があってさ。それに当てまくって、弾倍くらいに増やしちゃって。お店の人から「もうやめてくれませんか」って言われてんの」

 言っているうちに思い出したのか楓はクスクス笑い始める。彼女は自然におれの手を取り、背後へと目をやった。

「矢代さんも。行こ」

 未宇は返事をしなかった。楓は気にした様子もなく、前を向いて歩き始める。手を引かれて歩くおれのうしろをついてくる気配は確かにあった。だけどなんだか気まずくて、おれは振り向けなかった。

 見ておけばよかったのだ。たぶん……このときに。

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