【11】未宇・2(1)

 週明けすぐ夏休みになった。おれへの言いようのない空気は解消されず、むしろ終業式までの数日でますます固着された。梨音は一度だけ教室に来たが、ふたりきりで話す機会はなく、伝えるべきことも宙づりのままだった。

 そうしてさまざまな気がかりを残し、おれは宿題に追われていた。長期休みの前半は毎日机にかじりつく。というのも涼子がいるからで、彼女はいつも夏休み前半で課題を終わらせる。そして信じられないことに、後半は次学期の予習や、興味のあることへの勉強に費やすのだ。それが本来の学生の姿かもしれないが、おれにはまねできなかった。

 とはいえ彼女以外との予定はないので、おれも夏休み後半に入るまでには宿題が終わるようにしていた。中盤から後半にかけては絶対にだれるので、前半でなんとか頑張るというのがおれたちの共通認識だった。

 だが今年は少し違った。涼子が未宇を連れてきたのだ。

 夏休みが始まり数日経った午後のこと。リビングで涼子と宿題をしていると玄関のチャイムが鳴った。急な来客に驚くおれの前で、涼子は我が家のように応対へ出ていく。慌ててあとを追う耳に聞こえたのは「待ってたの! 場所わかった?」と言う涼子の親しげな声と「お邪魔します……」とか細く続く未宇の声だった。

「未宇!?」

「あ、朝希くん……! こんにちは……!」

 緊張にこわばった顔がぱっと明るくなり、おれは照れから「う、うん」と愛想のない返しをする。未宇を中に促す涼子に「聞いてないぞ」と文句を言うと、まったく悪びれない様子で「言うの忘れちゃった」と返ってきた。

 その日は外に出る気もなかったから、格好も適当だし寝癖も直していなかった。だからといって身支度を調えるのも意識していると思われそうで、青少年的な葛藤の末におれはそのまま机へ戻る。未宇がちらちらと服や寝癖を見るのが居たたまれなかったけど、女の子が来たからオシャレしたのが露骨にわかるよりはマシという妙なプライドで我慢した。

 どうやら一緒に宿題をやろうと呼んだらしい。頭がいいから当然というべきか、未宇は進みがはやかった。涼子を余裕で追い越している。「わたしがわかる問題でしたら力になれると思うので」と彼女は控えめに言った。涼子は感心していたが、乱れなく丸が並ぶワークにおれは(未宇がわからない問題ってなんだ……?)と考えた。

 未宇が来たことで空気は締まり、粛々と課題をこなした。きちんと休憩を取り、お茶を飲みながら談笑もする。そんな息抜きを挟んだうえで、その日の成果は目を見張った。このままいけば二週間経たずにすべて終わるのではと思うくらいだ。

 夕方未宇が帰るころ、涼子はようやく「明日から未宇ちゃんも一緒でいい?」とおれに了承を求めた。その日の進捗にハイになっていたおれは、未宇の縋るような目もあり一も二もなく承諾した。彼女は抱きつかんばかりに喜び、おれの母親に挨拶できないのを残念がって帰っていった。

「言っておいてくれよ、ああいうことは」

 未宇がいなくなっておれは言った。「ああいうこと?」と涼子は首を傾げる。

「未宇が来ることだよ。あるだろ、いろいろ……準備とかさ……」

「アハハ! 確かに、今日アキちゃん髪の毛ぼさぼさだもんね」

 涼子は遠慮なくおれの頭を撫でる。そこから汗のにおいを感じ、急いで手を振り払った。心持ち彼女から距離を取る。

「どしたの、急に」

 涼子は目を丸くする。さも意外そうな様子に、思わず口から出そうだった。「いつもは驚くほど察しがいいくせに、たまに驚くほど察しが悪いのはどうしてなんだ」と。

 一日過ごしたあとのにおい。涼子はずっといい匂いがする――むしろ時間が経つほど濃い、魅力的な香りになっていくのに――おれからは汗の臭いしかしない。それを気づかれるのが嫌だった。

 同時に疑問にも思う。一日中涼子と一緒なことなんて珍しくない。それなのに、こんなことを思うのは初めてじゃないだろうか。

「おれも香水買おうかな……」

 苦し紛れに呟けば、涼子は予想外に食いついた。「アキちゃんに似合うと思ってた香水あるのよ!」と携帯を取り出す。おずおずと覗き込めば彼女は写真データを漁っていて、おれに気づくとはたと操作を止めた。

「どうしたんだよ」

 涼子を見上げる。その顔は妙に色がなく見えた。

「いや……」

 彼女はそのまま黙ってしまう。何かしたかと顔色を窺うも、表情を忘れたようにジッとこちらを見るだけだ。

「涼子……?」

 名前を呼ぶとようやく表情が戻る。明らかに困惑したまま彼女は首を振った。

「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」

「いや、いいけどさ……」

「アキちゃんのニオイ好きなのに、香水なんかで上書きしていいのかなって思って……」

 言って涼子は息をのんだ。慌てたように両手を振る。

「違うのよ! いや、違わないんだけど、そうじゃなくて……」

「な、なにそんな焦ってるんだよ……」

 おれなんか、一瞬普通に喜んじゃってたのに。

 浮き沈みの激しい気持ちを抱えたおれをよそに、涼子は顔をぱたぱたと仰ぐ。

「なんかヘンタイっぽいこと言っちゃったから……」

 それを聞いて言葉に詰まった。

「おれは嬉しかったけど」? 「おれも涼子のニオイ好きだしお互い様だよ」? 「ヘンタイでも気にしない」? どれも本心だけど、口に出しちゃだめな気がする。

 涼子に何か言わなきゃ。うまくフォローしたいのに、気持ちばかりが先んじる。涼子も無言だから沈黙が続く。それに焦りを感じ始めたころ、チャイムもなくドアが開いた。

「なにやってんの? あんたたち……」

 めずらしく早く帰った母親は、玄関で立ち尽くすおれたちを奇異な目で見た。互いを縛るような沈黙から解放され、おれたちはわざとらしく笑い合う。そしてかたや食事の準備に、かたやリビングの片づけへと向かった。

 涼子の妙な態度はおれをもやもやとさせた。彼女が好きだと言うおれのにおい。いくら嗅いでもただの自分のにおいで、嫌いにはなれないけど、好きだとは思えそうにない。でも涼子が言った「好きだ」という単語は質量を持って胸の中にいて――その夜は、やけに寝つきが悪かった。


 楓とは連絡を取り合う日々が続いていた。本格的に暇を持て余しているようで、紹介したモールや美術館、映画館に郷土資料館などは一週間ほどで制覇したらしい。遠いからと紹介しなかった温泉にまで足を運んだそうで、他にないかと聞かれたときは困ってしまった。

 叶市は大きい土地だったが、あくまでこの周辺に限った話だ。大都市のようになんでもかんでもあるわけではない。他の特徴といえば心霊スポットが多いことがあったが、そんなことを伝えたらひとりでスポット巡りでもしそうだったので教えなかった。

 彼女は図書館を気に入ったらしく、用がないときはそこで過ごしていた。読んだ本を教えてくれるので、おれは感想を聞いたり、今まで読んだ中のオススメを聞いたりした。

 彼女は久鵺高校のカリキュラムも気にしていて、おれが課題を見せると興味を示した。数学の問題を解きたいと言うので演習問題をいくつか送る。山陵生には物足りないかと思ったが、楓は楽しんでいるようだった。お礼を言いつつ次々と求めてくる。けれど解答が欲しいとは言われなかった。楓は「解く過程が楽しいから正解かどうかはどうでもいい」と言うので、おれは妙に感心した。

 だがそのあとに「私が提出しなきゃいけない課題じゃないし。朝希が解く前に答え探させるのも悪いじゃん」と続いたので、おれは急いで答えを送った。そんなことに気を遣わなくてもいいのだ。どうせおれが演習まで辿りつくのはまだ先なんだから。

 一生懸命写真を撮っているところを涼子に見られ「なににやけてんの」とからかわれたのは別の話だ。

 そんなこんなで二週間が過ぎた。勉強会は続いている。といっても学校の課題をやっているのはおれだけだった。涼子は予定通り二週間で課題を終わらせ、今は投資の本なんて読んでいる。未宇は毎日の参加が午後からにもかかわらず、いち早く宿題を終わらせていた。そのあともおれたちの(主におれの)先生役として家に来ている。何もないときは静かに問題を解いているが、使っているのは大学受験用の教材だった。

 しかしおれの課題も終わりが見えている。休憩時間には遊びの計画も上がり始めた。プールに行ってみたい(これは未宇)、日帰りで比良温泉まで行かないか(これは涼子)、今やってる映画が面白そうだから見に行きたい(これはおれ)。

 そんな中、楓から会いたいと連絡が来た。夏休み中に一度は遊ぼうという話になっていたが、日付も場所も決まらず浮いていた約束がある。どうしようかと話し合ったが、もうすぐ叶市で祭りがあることを思い出した。平山(たいらやま)で毎年開催される納涼祭。屋台がたくさん出て、最後には花火も上がる。

 その話をすると楓は飛びついた。「夜店なんて久しぶり」と行く気満々だ。何か言う間もなくたくさんお礼を言われ、楽しみにしてる、おやすみと――喜びが滲む言葉を浴びせられた、次の日。

「たいら山のお祭り、今年は未宇ちゃんも誘わない? せっかくだしみんなで浴衣着ようよ」

 と朝一番に涼子から言われた。話題自体は自然だった。平山の祭りといえば、涼子と行くのが恒例だったからだ。

 楓と行く約束をしたものの、どうするかは決めあぐねていた。一緒に行くのは当然として、毎年涼子と行く祭りだ。彼女を紹介したいとも考えていたから、三人で行けたらという思いはあったが、楓には伝えそびれていた。

 ふたりで遊ぶ約束はしていない。こっちに知り合いがいないらしいし、友だちを紹介しても嫌な顔はしないだろう。でも最初から何人もとなると、疎外感が湧きはしないだろうか。楓なら大丈夫そうだけど、おれがそういうタイプだから気になってしまう。

 答える間もなく携帯が鳴った。新着のメッセージ。見ればそれは梨音からで。

『今度さ、たいらやまでお祭りあるんでしょ? 一緒にいこーよ』

 何も言わず(言えず、だ)ただ携帯と涼子とを交互に見るおれに、彼女は何かを察したのだろう――意味深な笑みを浮かべた。


「紹介します。おれの友だち……右から涼子、梨音、未宇です」

「宗田涼子です! よろしくー!」

「日下辺梨音。梨音でいいよ~」

「矢代未宇っていいます……よろしくお願いします」

 三者三様の挨拶に、楓は快活に笑って応じる。

「緑川楓です。よろしく」

 同行者が三人増えてもいいかという申し出を楓は快く受け入れた。涼子も梨音も未宇も問題ないとのことだったので、晴れておれたちは五人で祭りへ行くこととなった。

 楓を除くおれたち四人はバスで会場へ向かった。楓は現地集合だ。バスは祭りに向かう人々で混雑し、乗るにも一苦労だった。

 乗車中、おれたちは……というより、おれ以外の三人はひどく目立っていた。梨音と行ったプールを思えば当然だ。だがおれがそれに気づいたのは、恐ろしいことにバス停で皆と合流したあとだった。親が「送っていこうか」と言ってくれたのを断ってのこれだ。脳が機能してないと思われても仕方がない。

 涼子の提案通り全員が浴衣で集合した。楓だけは浴衣を持ってないから普段着とのことだったが、未宇と梨音はこのために浴衣を買ったらしい。

 未宇は淡い桃色の生地に控えめに赤い薔薇の散った浴衣で、袖や首元からひそかにのぞくレースが、こんなときでも変わらずつけているチョーカーやリボンと合っていた。梨音は白地の裾から綺麗な菖蒲が咲く浴衣を纏い、髪は同じ花をかたどった簪で飾っている。短い髪の横で揺れる飾りにはなまめかしさがあった。

 涼子も見慣れない浴衣を着ていて、聞けばレンタルしたと言う。紺地に藤が流れる生地は他のふたりに比べたら派手さには欠けるものの、その落ちついた雰囲気は息をのむほど彼女を大人っぽく見せていた。

 ひとことで言うなら綺麗だったのだ。全員が、とてつもなく。これに混ざって歩くのかとおれは動揺し、先日のような事件が起こらないことを神に祈った。全員が揃ってるならまだいい。でも誰かがはぐれでもしたら、おれひとりでは手に負えない。

 案の定この三人組は多くの注目を浴びていた。ぎゅうぎゅう詰めの車内では注がれる視線に嫌でも気づく。彼女たちに囲まれ壁際にいたおれには車内が一望できており、近くから遠くからと向けられる関心に胸焼けがしそうだった。本人たちが気づいていないのが歯がゆくもあり安心する。せっかく着飾ったのだ、余計なことを気にせず楽しんでほしい。

 彼女たちに興味を示すほとんどの人間にとって、おれは存在しないも同然だった。向いた視線は目の前で止まり、ここまでは届かない。しかしバスの中にはクラスメイトの姿がちらほらとあり、彼らの視線だけは彼女たちを通過しておれを刺した。ともすれば陰鬱な気分になるその針については、気づかないふりをした。

 そして今。平山へ伸びる石段の下で楓と合流し、楽しみと緊張でおれはどうにかなりそうだった。涼子たちと馬が合わなくてもフォローすればいい。そんな気持ちで臨んだが、そっちは心配なさそうだ。ただ浴衣でないとはいえ楓も着飾っており、四人揃った破壊力はすさまじかった。恋人連れの男の視線まで当然のように吸い上げている。

 楓は白のTシャツにジーンズというあっさりした格好だったが、高く結い上げた髪は何か混じっているのか、街灯の光を浴びてきらきらと光った。耳には星形の大きなイヤリング。人によっては滑稽に見えるチープなそれを、当然のように自分のものとしている。どんな表現が適切なのかはわからない。でも、とにかくすごく……キマっている。

「涼子はおれの幼なじみ。未宇と三人で同じクラスなんだ。梨音はひとつ下」

「そうなんだ! みんな綺麗だね」

「でしょ~? 頑張ったモン。誰かさんはさっきからなーんにも言ってくんないけど!」

「えっ?」

 梨音はじろりとこちらをにらむ。素っ頓狂な声をあげるおれに涼子が噴き出して、未宇はおろおろとおれたちを見やる。楓は「私も浴衣買えばよかったかな」と笑った。

 楓は自然におれたちと馴染んだ。ただでさえ人づきあいが上手いうえ、一度会ったことのある涼子と、人好きのする性格の梨音はすぐに彼女と距離を縮めた。前にいた学校のことや、叶市で過ごしたひとりぼっちの夏休みのこと。同情と好奇を交えて話は弾み、その盛り上がりはおれがいなくてもまったく問題ないくらいだった。

 対して未宇は静かにおれのうしろを歩いていた。緊張しているのか、態度はぎこちなく口数も少ない。

 そういえば、と思う。五人で行く承諾は全員から取った。でも未宇だけは涼子を介していて、直接確認してはいなかった。

 少し前を涼子と楓が行き、おれの横を歩く梨音と楽しげに話す。ときおり話を振られて返すものの、おれの意識は未宇に向いていた。楓が問題なかったこともあって、心配は彼女に移っていた。

 五人で幅広い石段を登る。緩やかだが長い階段を登り切って右に折れると、すぐに巨大な広場が現れた。

「わあ……!」

 言ったのは誰だろう。空間を彩る提灯と活気。隙間なく並ぶ屋台は広場だけでなく山の斜面にも並んでいる。奥の方に階段があって、さらに上の道に登れるのだ。

 ヤキソバ、わたあめ、金魚すくいに射的。毎年変わらず、広場に並ぶのはそんな王道の屋台だ。そして斜面には占いにおみくじ、武器や怪しいアイテムの販売店など、マイナーな――だが年頃の子どもを誘うような出店が多く並ぶ。

 広場の向こうにも道路が続くが、コーンとロープで通行止めになっていた。あの向こうは山に敷かれた道路と繋がっている。なのでここまでは車も来れるのだが、祭りの日は屋台を出す人たちが車を使うので、一般客は通行禁止になっていた。

 たいら山納涼祭の中心となる舞台。それが、この平山神社旧社殿前広場だった。

「すごい……こんなに広いの? なにもないのに?」

 楓は周囲を見渡し感嘆の声をあげる。木々に囲まれてポッカリと存在するこのスペースはちょっとした校庭くらいの広さで、駐車場として活用されてもおかしくない。それでもここが広場なのは、駐車したところで周囲に何もないからだった。

「さっきの道。石段はあそこで終わってるけど、道自体はまだ続いててね。まだ上に行けるんだけど、そこをずっと行くと、平山神社……今は山の麓にあるんだけど、その跡地っていうの? 昔のお社があるのよね」

 涼子が山の上を見やる。それにつられておれたちも暗い山を見上げた。

「昔……ほんとに昔は、そのお社の近くに広場があって、神事とかはそこでやってたんですって。でも土砂崩れだかなんだかで、広場がダメになっちゃって。それで下のほう……ここが丁度よく平たかったから、広げて代わりのスペースにして、神事をここでやることにしたらしいの。でも、行ってみたらわかるんだけど、お社とここって結構距離があるのよね。神事のために下りるにも面倒だし、お社自体も遠くって……道も悪くなってたもんだから、参拝者の足も遠ざかるようになったみたいで。結局はお社自体を下に移すことにしたのよ。それでここはただ広いだけの謎スペースになったんだけど、神社でのお祭り自体は古くからやってたから、ここでお祭りをやるっていう慣習だけは残ったの。それがこれってわけ」

 涼子の説明を聞きながら、そうだったなと思いを馳せる。この話を最初に聞いたのは五年くらい前だ。おれたちが小学生のとき、おれと涼子は共同自由研究で平山神社について調べていた。発案者は涼子でおれは乗っただけだったが、当時の担任にすごく褒められたことだけは覚えている。

「昔のお社って結構遠いの?」

「うーん……どうだろ、アキちゃん」

 楓からの質問に涼子はおれを見た。小学校最後の夏、おれたちはひいひい言いながら旧社殿への山道を登った。参拝者が少なくなったのも納得だと当時のおれは思ったが、今はどうだろう。意外とすんなり行けるかもしれない。

 でも、明らかに旧社殿に興味を示している楓に向けて、今言う言葉は決まっていた。

「止めたほうがいいよ……道も悪いし。街灯なんてないから」

 旧社殿に行ってはいけない――日が暮れたら特に。それはたいら山納涼祭に来る子どもたちが、保護者からうんざりするほど言われることでもあった。

 子どもたちも、ある程度成長して向こう見ずになるまではその言葉に逆らおうとすら思わないだろう。熊こそ出ないものの平山は大きく、広く……夜の闇は深かった。

 楓はちらりと来た方角に目をやり「そうだね」と呟いた。それを見ながら、そのうち楓は旧社殿に行くんだろうなと思う。陽の出てるうちに行ってくれるならいいけど。

「古いお社ってさ、もう誰も行かないわけじゃん。なんで壊さないの?」

 隣で梨音が尋ねる。涼子は顎に手を当て考えるそぶりを見せた。

「やっぱり歴史があるからじゃない? ドリームパークがそのままなのとはまた違う理由じゃないかしら」

「ドリームパーク?」

 楓がまた興味を示す。これはよくない――確実に恐れていた方へと向かっている。

「涼子、もう……」

「山の上のほうに廃園になった遊園地があるのよ。バス停が廃止になっちゃったから、歩きとか自転車とか車とか……そういうのでしか行けないんだけど。おばけが出るって噂もあるのよ。なんだか知らないけど、この辺そういうスポット多いのよね。平坂市の共同墓地とか、南平坂の駅とか。三珠には自殺ホテルなんてのもあるし」

「りょーこぉ……!」

 楓は唇を軽くとがらせ「ふーん?」と唸る。目が光っているのは照明のせいだけじゃないだろう。涼子は自分を呼ぶ間抜けな声に「あれ? ダメだった?」と焦りを見せ、楓は楽しさを隠しもせずにおれを軽くにらんでみせた。

「そーんな面白い場所があるのに、教えてくれなかったね」

「ひっ、ひとりで行っても楽しめるところって言ってたろ……! そんなこと教えて楓が心霊スポット巡りなんて始めたら、おれどうしたらいいんだよ!」

「いいじゃん、別に」

「危ないだろ!?」

 間違ったことは言ってないはずだ。貴重な高二の夏休み、こんなに可愛い女の子が、来たばかりの土地でひとりきりの心霊スポット巡りだなんて……。

 危ない。危なすぎる。

 薄暗くひとけのない場所。そんなところをひとり歩いて、ガラの悪い人間に絡まれでもしたら……。

 そこでハッとする。毎日のように行われていた勉強会。その間ずっと、未宇をひとりで帰していたことに気づいたからだ。

 夏休み中の家事手伝いはおれたちの仕事のひとつだ。未宇を送り出してからも、片づけに掃除に夕飯の準備にと、すべきことがいろいろとあった。

 だからって、今まで思いつきもしなかった言い訳にはならない。

 ちらりと背後を見やると未宇は視線に気づいてほほえんだ。憂いを帯びた笑顔がひっかかる。声をかけようとしたが、梨音が浴衣の袖を引いたので注意が逸れた。おれの右腕に体をぶつけ、彼女は頬を膨らます。

「ねー、もう行こうよ」

 異論は出なかった。祭りを前にして、いつまでも入り口で話してたって仕方ない。即座に同意した涼子と楓を先頭に、おれたちは光の奔流へと歩を進めた。

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