【10】涼子・3
「アキちゃーん! おっかえりぃー!」
玄関を開け「ただいま」と言ってすぐ、リビングのドアからとびきり笑顔の涼子が出てきた。料理をしていたのかエプロン姿で、纏う空気は水気を帯びている。
「……ただいま」
「どうだった? 楽しかった?」
「……ん」
「思ったよりはやかったね? ちゃんとお家まで送ってあげた?」
「う……」
涼子の好奇心からなんとか逃れようと目線をあちこちにさまよわせたが、その質問で記憶が蘇り露骨に動揺してしまう。涼子はめざとく気づき、おれの顔を覗き込む。
「んー?」
「ゔぅ……」
おれは梨音を送らなかった。「送ろうか」とは言ったのだ。でも断られてしまった。
おれの手を離そうとして、でもなごり惜しそうに指先だけ絡めて。夕闇の中きらめく瞳でこちらを見上げ、甘えたように梨音は言った。
「送ってもらったらさ。寄ってってほしくなっちゃうから……」
反応できないでいるおれの胸元に頭を寄せ、心臓へささやくように告げる。
「また今度ね」
そのひと言がスイッチになって、またバカみたいに動悸が始まる。それを知ってか知らずか、梨音は照れた笑顔ひとつ残して帰路についた。おれはどうにか鼓動を鎮めて戻ったところだったのだ。
「送らなくていいって言われたんだよ」
「えー、意外! 梨音ちゃんって奥ゆかしいのね」
「おくゆかしい……?」
今日されたことを思い返せば、「奥ゆかしい」という単語は梨音からあまりにも遠い。でもそんな彼女がたまに見せるあどけなさとか、おれを頼ってくれる弱さとか……そういうものに気持ちを掴まれている自分がいるのも確かだった。
まあなんにせよ「奥ゆかしく」はないし、それを含めて涼子に言えるはずもない。
「いろいろあったけど……楽しかったよ」
靴を脱ぎながら言うと、背後から「ふーん」と声がする。それにどこか不満げな音を感じ、心臓が小さく跳ねた。
ずっと思っていたこと。涼子に明るく送り出されて、明るく迎えられて。そんな扱いが嫌だと、内心鬱々としていた。でも、これは……。
涼子も思ってくれたのだろうか。梨音とふたりで出かけて、自分がいない場所で楽しんできたと言うおれに対して。寂しいとか、嫌だとか……そんな嫉妬じみたことを、思ってくれてるってことだろうか。
「涼子……?」
期待と不安が半々で振り返ったおれの前には、普段と変わらない彼女がいた。目が合うと「ん?」と首を傾げる。
「どうしたの? アキちゃん」
「い、いや……」
「今日はアキちゃんの好きなハンバーグだよ! おばさんと一緒に作ったの」
「う、うん」
「疲れたでしょ? お風呂も今湧かしてるからね」
「うん……」
「ご飯食べて、お風呂入って。そのあと、今日のこと教えてね」
「うん」
流れるように返事をしてから、その内容に意識が向く。今日のことで涼子におおっぴらに話せることなんて、どれだけあるっていうんだ?
「き、今日はそんなたいしたことなかったけど……」
「たいしたことなくても聞きたいよ。アキちゃんのことだもん」
向けられる瞳は柔らかで、でも反論を許さない力があって。抗えずおれは頷く。幼いころからずっとこうだ。涼子はいつも優しく、誰よりも関心を持ってくれる。おれはそれに甘えてしまって、彼女に秘密が作れない。
どこまで隠しておけるだろう。
考えることすら無駄な気がした。
「あたしも一緒に行けばよかった」
男たちに絡まれた話が終わると涼子は開口一番そう言った。
「全然たいしたことあるじゃない! あたしのいないところでアキちゃんがそんな危ない目に遭ってたなんて……!」
その憤慨ぶりに苦笑する。涼子があの場にいたらもっとスマートに助けを呼べたのは間違いないが、それ以前にふたりセットで彼らの目に留まっていたに違いなかった。
「涼子がいなくてよかったよ」
「なんでえ!?」
「バカ。梨音、めちゃめちゃ目立ってたんだぞ。涼子までいたら倍注目されたに決まってるだろ」
涼子は一瞬きょとんとして、楽しそうに目を細める。にやにやしながらおれの腕をつつき「アキちゃん」と茶化した声を出す。
「そんな風に言うってことは、アキちゃんはあたしのこと、梨音ちゃん並に可愛いって思ってくれてるってこと?」
今度はおれがきょとんとする番だった。
「あたりまえだろ?」
涼子は背も高いし大人びてるし、系統こそ異なるが梨音に負けず劣らず綺麗な顔をしている。水着になんてなったらふたりで視線を二分してたことは想像に難くない。
何を言ってるんだという気持ちで見れば、涼子は口をぽかんと開けていた。目が合ってもひと言も発さない。呆然と見ていると瞳がせわしなく動き出す。口角はいびつにこわばり、隠すように手が口元を押さえた。
「えっと……?」
めずらしくうろたえた様子に言葉が見つからない。思わず漏れた声に、涼子の瞳が今度こそしっかりとおれを捉えた。気のせいか目元が少し赤い。
「いや、違うの、だって」
口元に手を当てながら言い訳のように言葉を積む。あまりにめずらしい光景におれまで動揺してしまう。そんなに変なことを言っただろうか。
だって、涼子が可愛いのはみんな知っていることだ。梨音も未宇も確かに可愛い。でもそれと並んで見劣りしないくらいには、涼子だって綺麗なのだ。
「いや、おれもごめん、なんか」
「待って、アキちゃんは悪くないから。あたしが――」
「で、でも――」
何か言いたくて、でも思いつかなくて。あたしがおれがと妙な譲り合いをしばらく続けた。そのうち行き場なくさまよう両手を涼子が掴み、おれの膝へと押しつける。
「違うの、ホントに……」
彼女の両手はおれの手と共に膝上にあり、口元がさらけ出されていた。笑っているかのような、我慢しているかのような、いびつな口元。そこから弱った声がこぼれる。
「慣れてないから、びっくりして……」
「……うそだろ?」
そんなことあるはずない。おれの知らない涼子はいる。おれがいないところで男子に好かれて、女子と恋の話をするような涼子が。「可愛い」だなんて、鬱陶しいほど言われているに違いないのに。
涼子の視線が上がってくる。おれを捉える目元はやっぱり赤い。赤みは頬まで広がり、目の縁の白さを際立たせている。
「……言ってくれた記憶ある?」
言われてようやく理解する。
涼子は、可愛いと言われ慣れてないわけじゃない。
「あ……」
おれから、それを聞いたことがないというだけなのだ。
「え……と」
代わって言葉を詰まらせるおれに、涼子はいくらか落ち着きを取り戻して手を離す。もう自由なのに、覚え込まされたかのようにおれの手は膝から動かない。
「急にそんなこと言わないでよね。こっちにも心の準備があるんだから」
少しむくれた様子で言い、両手で顔をパタパタ仰ぐ。いつもこうした軽口をさらりと流す涼子が、どういうわけか露骨に動揺を隠そうとする。それは狼狽を伝播させるには十分だった。落ち着かない感覚が焦燥に変わり、心音が次第に強くなる。
「びっくりしちゃった。でも、そうよね。未宇ちゃんとか梨音ちゃんとか……可愛い子が最近急に増えたから、アキちゃん、可愛さにちょっと過敏になってるのかな。あたしにまでサラッと言っちゃって。そういうこと誰彼構わず言うの、ホントはダメなんだからね」
涼子の言葉にムッとする。おれの意見を軽んじてるような――おまけに、自分が未宇や梨音に比べて劣ってるような――そんな言い方をするから。涼子は外見だってふたりに見劣りしないし、長く一緒にいる分、性格だって抜群にいいって――だからおればかりにかかずらってるもんじゃないって――ずっと思ってたのに。
「別に、言わなくたって思ってたよ。ずっと……」
「そういうのはね。ここぞというときに特別な子に言うのがいいんだから。使うタイミングさえ間違わなければ、強力な武器に――」
「特別な子ってなんだよ」思い切った言葉を軽く流されて、苛立ち混じりの感情をぶつける。「みんなそう言う。どうしたら相手が特別だってわかるんだ? そうしたら、おれにとっての涼子は特別じゃないってことになるのか?」
涼子はハッとした様子で口を噤んだ。畳みかけるようにおれは続ける。
「普通の『好き』じゃダメで、特別な『好き』が要るんだろ。それがないならおれにとってその子は特別な子じゃないのか? 未宇も、梨音も、涼子も」
未宇の力になってあげたい。いろいろあったけど、梨音と遊ぶのは楽しかった。涼子は幼いころから一緒の、大切な幼なじみだ。
みんなそれぞれ特別な女の子だ。でもそれは、おれだけの理屈でしかない。
「どうしたらそれがわかるんだ。相手に触りたいって思ったら? セックスしたいって思ったら? 触れたいなんて誰にでも思う……でも、セックスしたいなんて……誰にも思ったことがない。わかるだろ? じゃあ、どうしたらそれがわかるんだ。その子がおれにとって、本当の意味で特別なんだって……」
涼子は絶句していた。引かれているかもしれない。だけど止められなかった。やけくそだったんだと思う。みんながおれに難しいことを言うから。答えのないことを……理解できないことを。
膝に乗る手をこわばった気持ちで見つめる。そこに見慣れた手が重なった。力なく添えられた重みがぬるい体温を伝える。
「なに……」
「……ごめん」
おれは何も言わなかった。涼子は続ける。
「アキちゃんがせっかく可愛いって言ってくれたのに、粗末に扱って」
「いいよ、別に……」
「嬉しかったんだよ、本当は。それに、アキちゃんが言うことも間違ってない。『特別』にもいろいろあって……あたしにとってもアキちゃんは『特別』な男の子だもん」
弟みたいな意味だろう――そう思ったが、怖くて聞けなかった。
「あたしも同じ。みんなの尺度でそれっぽく語ってるだけ。アキちゃん以外の『特別』があるのか……あったとしてどうやって知るのか。あたしにもわかんない」
自分に言い聞かせるような口ぶり。おれはそれに安心して……どこか寂しくも感じた。
「そういうの、たぶん。今すぐわかんなくていいことなんだよね。ここは狭いから、画一的な価値観を押しつけてくる人もいるけど……って、今はあたしがそのひとりになっちゃってたんだ」
涼子は笑う。そこには表現しがたい痛々しさがあって、腹立たしい気持ちをまるっとどこかへやってしまった。
「あたし、そういうことをアキちゃんと話せるようになりたいって思ってた。好きな人ができたら教えてほしいとは言ったけど……表面的な話じゃなくて。気持ちの揺れや過程のことを相談できるような……そんな関係になりたかったの」
「うん」
「きっと、焦る必要なんてないんだよ。それぞれのペースがあるんだもん。そのうち、わかるタイミングがきて……今はそのときじゃないだけだと思う」
「うん」
「茶化してごめんね」
「……うん」
涼子の言葉はするりと心に入ってきた。梨音といたときはあれほどぐるぐると考え込んでいたことなのに。彼女に肯定されるだけで、このままでいいんだという安心感が湧く。
涼子は正面から隣へと移動する。おれの体に軽く肩をつけ、顔を覗き込んでくる。
「梨音ちゃんと……なんかあったの?」
察しのいい彼女からすると当然の疑問だった。しかしさっきまでならいざ知らず――涼子の気持ちを知って、おれもそうしたいと思っているのに――ここで隠していいのだろうか。一緒に考えようとしてくれるなら、願ってもないことじゃないか?
それが、おれを弟としか見てないことの表れだとしても。
「え……と」
決めきれずにいると、涼子はおれの指先に触れてささやいた。
「告白された?」
首を振ると、触れた肩から力が抜けた気がした。それに気持ちが浮つく。
「されてない……けど。もっと自分のこと考えてほしいとは、言われた」
涼子の頭が傾いで、豊かな髪が肩にかかる。耳もとで笑い混じりの声がした。
「やっぱり。梨音ちゃん、アキちゃんのこと好きだものね」
「そ、そうなのか?」
「すぐわかるよ。未宇ちゃんと同じ。アキちゃんに……誰よりも自分のこと見てほしいって思ってる」
自分では半信半疑だったものの、第三者の――しかも女である涼子から言われると、いやに素直に納得する。更には未宇もそう見えてるのかと恥ずかしくなった。
「でも、ちゃんと考えないとダメだよ。今はそのときじゃなかったとしても……向き合う気があるのか、無理なのかは……しっかり決めて伝えないと」
「うん……」
「無責任かもしれないけど、あたしは断ってもいいと思うよ。だって、今の感じ……まだ時間がほしいって、アキちゃん自身思ってるようにも感じるもの。違うかな……」
涼子の重みが強くなる。それに意味を感じようとする自分がいて嫌になった。
室内は静かになり、互いの呼吸が唯一の音となる。合わせて上下する体はいつしか動きが揃い始める。同じタイミングで息を吸い、吐くのを繰り返していると、ひとつの生命体になったような気がする。肉が癒着し、境界があやふやになり。彼女の呼吸がおれを生かして、おれの鼓動が彼女に息をさせている……そんな、倒錯的な感覚。
「アキちゃん最近モテモテね……」
涼子の声は眠そうだった。おれもそうだ。体がぽかぽかと暖かくて、頭にうっすらもやがかかる。このまま眠ってしまえそうだ。
一緒にいて心地よい。肩肘張らず、素の自分でいられて。ぶつかっても話し合えて、ダメな自分も受け入れてもらえて……。
これ以上の特別が、この世にあるってことだろうか。
メッセージの受信音が鳴った。携帯は机の上にあったが動きたくない。誰だろうと考えて思い出す。今日知り合った女の子。
「そういえば、あの子に会ったよ」
「あの子?」
「レリーズで会った子。おれを助けてくれた……長い黒髪の女の子」
涼子は体を離し、口元に指をあてた。実際に助けられたおれとは違って、あまり記憶にないのかもしれない。彼女にしてはめずらしいけど、あのときはいろいろあったから。
「会えたの?」
「そう。たまたまコンビニで会ってさ。改めてお礼して……この辺の遊べるところ知りたいっていうから、教える約束もした。こっちに越してきたばかりなんだって」
「そうなんだ」涼子は言った。「偶然ね」
男たちのこと、梨音とのこと、楓のこと……だいたい話してしまったなと思う。言いにくいとか隠しておきたいとか、考えていたのはなんだったんだろう。
「あたしも会いたいなあ」涼子は呟く。「アキちゃんのこと、ちゃんとお礼したい」
「そのうち紹介するよ。おれも涼子のこと紹介したいし」
小さく笑うと彼女は膝で立ち上がる。そのまま机まで移動し携帯を取った。「はい」と寄越し元の位置へと戻る。
メッセージは楓からだった。「レリーズの子?」と聞かれて頷く。そこには偶然を喜ぶコメントに加え、今日の約束を期待してるとの言葉が書かれてあった。
それからは紹介できそうなスポットをふたりで考えた。おれたちはずっと久鵺で暮らしてる。ときにはうんざりすることもあるけど、そんなに悪い町じゃない。といっても、年頃の女子が楽しめるものはだいたい叶市にある――ということで意見は一致したけれど。
リストアップしたものを送るとすぐにお礼の返事がきた。「友だちと一緒に考えたから楽しめると思う」と送ると「お礼言っておいて」と返信がくる。「機会があれば紹介したい」と付け加えれば「朝希の友だちでしょ? 私も会ってみたい」と返ってきた。
「……だって」
見せると涼子は爪で軽く画面を叩き、「気が合いそう」と笑った。
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