【9】梨音・2(4)

 コンビニの中は涼しかった。こもった熱が一気に霧散し、ホッと息を吐く。

 自然と足はアイス売り場へ向かう。ガラス窓から夕日がだくだくと注がれ、頭上の白い光は打ち消されていた。熱っぽく唸りをあげる冷蔵庫に目を落とす。狭いスペースに詰め込まれた色とりどりの品。

 欲しいものは浮かばなかった。たいがい優柔不断なのだ。

 アイス売り場の隣には雑誌が置いてある。鮮やかな表紙に惹かれて足が向いた。しかしいざしっかり目にしても、手に取ろうとまでは思わなかった。

 聞き覚えのある雑誌名、見覚えのある漫画。だけど自分から手にしたことはない。読みたいと思ったことも……。

 と、突然日ざしが遮られた。ガラスの向こうに人影がある。梨音かと思ったが、立っていたのは別の少女だった。長い黒髪が肩に落ちている。

 当たり前だ。梨音だとしたらやけに早い。

 別人だとわかっても彼女から目が離せなかった。逆光で顔つきははっきりしないが、姿形に既視感がある。切り揃えられた前髪、力強い目の光。彼女もこっちを凝視していた。見知った顔と会ったときのように。

「あ……」

 少女が小さく肩をすくめて――おれは思い出した。

 彼女だ。

 あのときおれを助けてくれた――。

「待って――」

 少女の動く気配を察知し急いでコンビニを出る。ムッとした空気が全身を包むのと同時に、黒い頭が目の前に来た。

「うわっ」

 立ち止まろうとしたが遅かった。おれたちはどちらも相手を避けようとして、勢いよく半身をぶつけてしまう。それで改めて互いの顔を見て――確信した。

 レリーズで会った子だ。

 死にかけていたおれの手を掴んで、この世に引き戻してくれた……一番の恩人。

「きみ……」

 少女が呆けたように言った。固まっていた表情が、花が咲くみたいに解れていく。

「やっぱりきみだったんだ」

「あ、あの……」

「元気だった?」

 小さく笑うその子からはほのかにいい匂いがする。涼子のものとはまた違う、花の蜜に似た甘い匂い。

 言いたいことはたくさんあるのに、どう切り出せばいいかわからない。頭が真っ白だ。

 駐車場に車が止まり人が降りてきて、おれたちは壁際に移動する。人影がコンビニに入ってようやく、おれは口を開いた。

「お、おれは元気だったよ……きみは?」

 すぐに思い出す。彼女の腹についた痛々しい跡。あれからまだ一週間だ。

「その、お腹とか……」

 おれの視線と言葉に、彼女は不思議そうに首を傾げる。それから「ああ」と小さく言って、ブラウスの裾を持ち上げようとした。

「だっ、大丈夫! 見せてくれなくても――」

 言ってから無責任だったかと思う。おれがつけてしまった跡だ。それなら、経過を見たくないというポーズは不誠実な気はする。でも女の子のお腹は軽々しく見ていいものじゃない気がするし……。

 うろたえたあげく硬直するおれに、少女はあげかけていた裾を降ろした。「ここ外だったね」となんてことないように言う。

 でも、その一瞬で見てしまった。肌を横切る、黄色に変色した跡。それで十分だった。

「ごめん、本当に……」

 彼女は目を丸くして、次いで眉根を寄せた。「どういうこと?」と聞く声には棘が混じっている。

「おれのせいで、そんな……痛い思いさせたから……」

 言葉は尻すぼみになった。彼女は明らかに苛立っていた。理由がわからず、視線はどんどん足元へ落ちる。

「きみのこと助けなければよかったって言ってるの?」

「ち、違うよ!」おれは顔をあげる。「感謝してるよ! きみがいなかったらおれは死んでた。一番の命の恩人だよ。ずっとお礼が言いたかった……会いたいと思ってたんだ」

 少女はおれをにらむとため息を吐いた。

「じゃあ『ありがとう』でいいでしょ。謝らないで。これはあなたのせいじゃない。私が選んでしたことだから。それを『あなたのせい』にされると、私のしたことが軽んじられてるように思える」

 彼女の言葉は正しかった。おれが最初に伝えるべきことは、元気かどうかでも、彼女を気遣う言葉でもない。もちろんそれについて謝ることでもなかった。

「ごめん……」

 再度の謝罪に彼女は小さく肩をすくめる。表情は厳しいままだ。怖じ気づいたけれど、それは言うべきことを言わない理由にはならなかった。

「ありがとう。本当は……それを言いたかったんだ。あの時助けてくれたから、おれは今ここにいられる。きみのおかげだよ」

 不愉快な思いをさせてごめん、指摘させてごめん……謝りたいこともたくさんあって口先まで出かけていたけれど、そっちは懸命に飲み込んだ。

「あれきりだったから……会ってお礼がしたいって、ずっと思ってた。命の恩人なのに、どこの誰かも知らないままだったから……」

 彼女の寄せた眉根が緩んだ。向けられる視線も柔らかいものに戻る。

「楓。緑川楓(みどりかわ・かえで)」

「あっ……おれ、田嶋朝希です……」

「いい名前だね」

「あ、ありがとう。緑川さんも――」

「楓でいいよ」

 緑川さん――楓はさっぱりとした顔で笑った。その姿はおれの周りのどの子とも違っていた。伸びた背筋と、まっすぐ落ちた綺麗な黒髪。落ち着いた雰囲気と、力強い目の光。

 気が強い、という表現は少し違う。等身大の姿の、もっと深く……奥のほうに、譲れない何かがある。そんな意思の強さを感じた。

 夕陽を浴びる楓は綺麗だった。彼女の強い視線が、地上から消える前にひときわ輝く太陽の光とリンクする。あまりにじっと見ていたからか、楓が訝しげに尋ねた。

「呼びたくない?」

「えっ? あっ……全然! かえ、でがいいなら……おれのことも朝希でいいよ」

「ん」

 次いで見せた笑顔に心臓が跳ねた。落ち着きがあり、意志の強そうな……そんな楓が、今度は年頃の少女みたいに笑ったからだ。気持ちの伴う無邪気な笑顔。喜びと照れと高揚とを一緒くたにして。

「朝希はこの辺の人なの?」

「い、いや。久鵺町に住んでる。今日は遊びに来てて……」

「そっか。そういえば今日、日曜だもんね」

「楓は?」

「ん……私はこの辺に住んでる。高校が近くだから」

「そうなんだ。この近くっていったら……山陵か明皇?」

 この近くには高校がふたつある。叶山陵高校と私立明皇高校だ。叶山陵は県内有数の進学校として、私立明皇高校は潤沢な資金により様々な設備が備わっていることで有名だ。特進コースはかなりレベルが高いとも聞く。

 楓のしっかりした態度はどっちに通ってても納得できるものだったが、彼女はなんてことないように「山陵」と答えた。

「すげ……」

 思わず呟きが漏れる。山陵生は特別な存在だ。受かったというだけで隣近所から一目置かれる。しかし、おれの言葉に楓は小さく肩をすくめた。

「すごくないよ。正確にはまだ山陵生じゃないし」

「そうなの?」

「最近こっちに越してきたんだ。勉強は前の学校のほうが進んでるから、転入はキリのいい二学期からでも遅くないだろうって話でさ。それは別にいいんだけど、おかげでみんなが友だちと遊ぶ一ヵ月間、私はずっとひとりぼっち。ひどいと思わない?」

 山陵より進みが早い高校なんてどんなところなんだろうとか、やっぱり転校するならキリのいい時期がいいよなとか。でも勉強が不安ならはやく授業を受け始めた方がいいのかなとか、とはいえ未宇は期末試験こそ受けなかったけど成績はいいはずだよな、とか。

 何気ない言葉からいろんなことを連想し、おれは言葉に詰まる。

 楓は絶対頭がいい。だけどそんなことより、最近やってきた久鵺の転校生――未宇の転校時期のほうが引っかかった。涼子も言ってた気がするけど、やっぱり中途半端じゃないだろうか。彼女ほどの学力があるなら、二学期からの転入で充分間に合うはずだ。

 楓は軽くうつむく。ぬるい風がおれたちの間を抜けていく。おれが何か言うより先に、楓はこちらに視線を向けた。

「あの――さ」

 どこかためらいを感じる声。先ほどまでのはっきりとした物言いとは真逆で、だからこそ強く興味を引かれた。おれに何かあるなら聞きたい――そう思ってしまって、食い気味に「なに?」と返事をする。そんな自分に気づいて恥ずかしくなった。

「私にお礼したいって、思ってたりする?」

 楓は苦笑交じりに言った。反射的に「うん」と返す。それから思考が追いついてきた。お礼って、言葉とは別にということだろうか。

 それはもちろんしたいけど、楓は嫌がるかと思っていた。それにできることなんてたかが知れてる。何をしたって命とは釣り合わない。

 この様子はどっちなんだろう。してもいいのか、されたくないのか。コンビニで奢るくらいなら? でも、自分で稼いでないお金でお礼なんて、それこそ違う気がする。

 言葉が見つからず楓を見つめる。彼女は両手をパンツのポケットに入れて顔をあげた。強く光るのに迷いがあって、まっすぐなのに窺うような――不思議な視線とかち合う。万華鏡みたいなきらめきに目が離せない。

「私と友だちになるとか、嫌かな」

「え――」

「別に、一緒に遊ぼうとか、通話しようとか……そこまではしてくれなくていいからさ。たまにやりとりして……この辺のこととか……ひとりで遊んでも楽しそうな、おすすめの場所とか……教えてくれたらなって思って。私、この辺のことなにも知らないし、知り合いもいないから」

 楓は視線を道路にやった。楓の目が――それまで力強く注がれていた視線が――ほんの一瞬伏せられただけで、やけにそわそわする。この子は自分の足で立って、前を向いて歩く子だ。少し話しただけでそう思える。そんな子に見えた陰りを、おれが晴らせるのなら晴らしてあげたい。

 その傲慢な考えは、自身が理解するよりもはやくおれの首を縦に振らせた。

 楓の視線はいまだ地面に落ちていた。続けざまに「いいよ」と言うと勢いよく顔が上がる。わずかに見開かれた目はきらきらと光って見えた。

 夕陽のせいかもしれない。だって、頬が赤らんでも見える。

「本当?」

「うん」

「ふーん」

 おれとおれの背後を交互に見ながら楓は満足げにうなった。下げていたポーチから携帯を取り出すと「じゃ、連絡先交換しよ」と言う。おれも携帯を出して誘いに応じた。

「ふふふ」

 交換が終わると楓は液晶を眺めてふくみ笑う。「どうかした?」と尋ねると、携帯で口元を隠しておれを見た。

「こっちに来て最初の友だちだなあって思って」

 くすぐったい視線に、照れの混じった笑いを返すことしかできない。「連絡するね」と楓は言い、小さく手を振ると歩き出した。

 長い髪がぬるい風に舞う。甘い残り香を置いて、影が遠ざかっていく。

「――おれも」

 楓は振り返る。薄く影のかかる顔の奥で、瞳が不思議そうに光っている。

「おれも連絡するから」

 楓の顔が嬉しそうにくしゃっと歪む。それを見ただけで、言ってよかったと思った。

 小さくなる背をその場で見ていた。空気は重くまとわりつき、日ざしはいまだ眩しく肌を焼いたが、まるで気にならなかった。

 楓が見えなくなるのと前後して、横断歩道を渡る梨音の姿が見えた。小走りでこちらへ駆けてくる。コンビニ前で立つおれに彼女は驚いた顔をした。

「入って待ってなかったの?」

 曖昧に笑うおれに梨音は目を細めた。「寂しかったんだ?」と楽しげに言うので、ますますごまかすような笑みになる。彼女の嬉しそうな様子は、今までのことについて説明するのをためらわせた。

「アイス買って帰るんだろ?」

 促すと、梨音は「うん」と即答し腕を絡める。そのふるまいは今日を思えば自然だったが、おれは楓のことを考えた。

 おれとセックスしたいと言う未宇。

 恋人のようなスキンシップをする梨音。

 知り合ってからの期間を考えると信じられないほどの好意を寄せるふたりに対し、楓の「友だちになりたい」という申し出は、とても新鮮で――健康的に思えた。

 小さく首を振る。こんなことを考えてるなんて知ったら、きっと梨音は怒るだろう。何よりみんなに失礼だ。

 うつむくと、梨音の潤んだ瞳とかち合った。一心にこちらを見上げる姿は良心をちくちくと刺激する。

「アイス、なに食べたい? おごるよ……」

「ほんと? やった!」

 楓と話していたこの場所にいつまでもいるのは気まずかった。おれの申し出に梨音は跳ねて喜び、コンビニに入ろうと腕を引く。

 そこに、サイレン音が聞こえた。

 先週も聞いた覚えのある、不安を煽る音。それが複数重なって耳に届く。見れば道路の向こうから救急車が三台、心持ち速いスピードで近づいてきた。

 救急車はコンビニの前の角で曲がり、ふれあい公園の方角へと向かう。あっちには公園施設用の駐車場があるはずだ。

 救急車は駐車場の入り口で曲がった。一連の動きにはどこか有無を言わせない空気があって、おれたちは動けなかった。車が見えなくなってようやく、おれはぽつりと呟く。

「なにかあったのかな」

 左腕に力がこもる。梨音がこちらを見上げていた。目が合うとにっこりと笑う。

「さあ?」

 細められた目は先ほどとは違う光を帯びていた――気がした。だけど夕陽のせいだと思って――数度の瞬きで消えたそれに、おれは特別注意を払わなかった。

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