【9】梨音・2(3)

 おれたちはくっついたまま浮き輪を拾って、くっついたままプールに戻った。仲睦まじい恋人のようなシルエットだったけど、間には言葉も笑顔もなかった。

 流れるプールに戻って浮き輪を浮かべる。入るよう促すと「朝希が先に入って」と言われた。断る理由もないので先に入り、梨音が来るのを待つ。

 今度は飛び込むこともなく、彼女は静かに水へ入った。やっぱりほとんど音はない。そのまま浮き輪をスルーしておれの腕に手を乗せる。そこで初めて気づいたが、腕には梨音の指の跡が赤く残っていた。

「浮き輪、乗らないのか? また引っ張るよ」

 梨音は首を振る。しおらしい――梨音じゃないみたいだ。

「なんか、ごめんな。怖かったよな。おれも、もっと……かっこよく助けられたらよかったんだけど。監視員さんが来てくれてよかったよ。梨音にもなにもなくてよかった」

 胴に手が回る。小さな頭が胸に擦りつけられ、一気に心臓が跳ねた。気づくと加速するもので、数秒もしないうちに心音はからだ全体を揺らし始める。聞かれたくはないけど、心細げな梨音を引きはがすのも違う気がして、おれは所在なく両手をさまよわせた。

「謝んないで」

 梨音はバッと顔をあげた。両頬が赤い。

「悪くないのに謝んないで! 朝希はかっこよかったもん! ちゃんと来てくれたし、アタシのこと助けてくれた! 「遊びたいか」って聞かれたときはびっくりしたけど、ちゃんと……ちゃんと言い返してくれたし! それに、アタシのこと、アタシのこと……」

 怒ったように言ってうつむく。また顔が見えなくなった。なんと声をかけるべきか迷っていると、肩が小さく震え、ため息のような声がする。

「ものじゃないって、言ってくれたし……」

「それは、そうだろ……」

 うしろから人が泳いでくるのが見えた。このままだと浮き輪が邪魔だ。紐をたぐり寄せて水中に手ごと沈めると、浮き輪は綺麗におれたちの側に寄った。

 おれの腕が一本沈んでいるのに気づくと、梨音は同じく手を水中に入れ、紐をたどって追いかけてきた。指先がさわさわとこぶしに触れ、おれは顔を背ける。

「なんだよ」

「さっき手握ってくれたじゃん」

 動揺して力が抜ける。それを見逃さず梨音の指が忍びこむ。浮き輪の紐は手のひらに引っ掛かるだけになり、またプールの中央に流れていった。

「こうやってさ」

 細い指が柔らかく絡む。優しく握る仕草がまるで愛おしいものに触れてるようで、ますます鼓動が早まった。

「そんな触りかた、してない……」

 弱々しく言うと、眼前に梨音の顔が来る。先ほどまであんなにしおらしかったのに、表情にはもういつもの調子が戻っていた。楽しそうに「そんなって、どんな?」なんて聞いてくる。

「アタシ、どんな触りかたした?」

 ねえねえ、と鼻先を肌に擦りつける。そこで初めて気づいたかのように目を細めた。

「どきどきしてるね」

 そう――心臓はまだ鳴っている。でも梨音がこれだけ元気になったなら、おれの感情を優先してもいいはずだ。恥ずかしい。耐えられない。

「ほ、ほっとしたからだよ」

 距離が近くて――手のやり場がわからなくて。緊張で心臓をばくばくいわせてたなんて死んでも言えない。いや、死にそうになったら言えるかもしれないけど。

 自由な方の手で距離を取る。またごねられるかと思ったけど、梨音は素直に離れていった。急に熱のなくなった右手がやけに物足りなく感じる。

 梨音は潜り、浮き輪の穴から顔を出した。体重を空気の輪に預け、引っ張られるのを待っている。それに安堵と一抹の寂しさを感じ、もやもやした気分で紐をたぐった。

 どうして物足りないと思うんだろう。あの熱に、もっと傍にあってほしかったのだろうか。心臓の音を聞かれてからかわれるのが、おれはそんなに嫌だったのか。はやく離れてほしいと思うくらいに。

 これ以上からかわれずに済んでホッとした。でも、どこか寂しく思う自分もいる。

 変な気持ちだ。みぞおちの辺りに何か、凝ったものがある気がする。

 こんな気持ちになるなら。こんな気持ちになるんなら、せめて――。

 せめて、抱きしめ返せばよかった。

「――――!」

 ふとよぎった考えに息が詰まる。梨音はおれを待っていた。「運んでくれるんでしょ?」「遊ぼうよ、朝希」――瞳はそう語っている。いつもの梨音に見えたけどやっぱりどこか不自然で、先ほどまでの恐怖を払拭しようと努力しているようにも見えた。

 だからおれは再び梨音の馬を始めた。けれど、内心にはずっと罪悪感があった。

 梨音は怖がっていた。まだ怖がっているのに。おれは妙な考えを――。

 ぼんやりしてるのに気づいたのか、梨音が小さく背中を掻いた。「どしたの」と聞かれ「なんでもないよ」と返す。梨音の顔が見れなかった。白く丸い肩が視界に入ったら、また妙な考えを起こすかもしれない。

 そんなことを思っていると急に浮き輪が軽くなった。振り向くと梨音の姿がない。

「梨音?」

 名前を呼んだ途端、水着が強い力で引っ張られる。慌てて抑えたが既に遅く、尻が半分出てしまった。

 梨音だ。

 咄嗟に水中に沈む。少しでも見られる範囲と時間を狭めたい。

 彼女はやはり水中にいた。潜ってきたおれの正面で笑っている。文句のひとつでも言いかったけど、水中だからそれもできない。

 梨音の手が離れたので焦りつつも水着を引き上げ、解けた腰紐を結び直す。作業に夢中なおれの両肩に彼女はそっと手を置いた。

 顔をあげると梨音と目が合う。綺麗な顔だ。初めて見たときから整っていると思って、今もそれは変わらない。アーモンド型のぱっちりした目。賢そうだけど、いたずらするとき特にきらめく瞳。いつも笑って、楽しそうな口元。

 梨音は今も笑っていた。でも普段の小生意気な、からかうような笑みじゃなく――ずっと大人びた、何かを受け入れようとするほほえみだった。短い髪が水に揺れ、その顔立ちも相まって――おれはなぜか、人じゃないものと出会ったみたいな錯覚に陥った。

 梨音の顔が大写しになる。唇に何かが触れた。

 息を止めるのも忘れたおれの口の端から空気が泡になって漏れる。梨音はその泡を食べるようにして、もう一度おれにキスをした。

 ――キスされた。

 空気が一気に口から溢れ、水も飲んでしまう。水面に顔を出し大きく咳き込むと、プールの縁に手をついた。

 梨音は水中から首だけ出し、丸い目でおれをじっと見る。首から下が不明瞭で――本当に人間じゃないみたいだ。

「なっ……なに……」

「やだった?」

 梨音は小首を傾げる。赤い唇から目が離せない。柔らかそうで――実際柔らかかった。

「そう、じゃなくて」

「じゃあ、よかった?」

 梨音の声は静かだった。唇が、ゆっくり、深く――弧を描く。

「……もっとしたい?」

 したいならいいんだよ、と――梨音の目は、態度は、そう言っていた。また心臓がどきどきしてきて、振り払うように目を逸らす。

「からかうなよ」

 女の子は、からかいで男にキスしたりするのだろうか。

「こういうのは、ちゃんと、好きな人と――」

 同じ台詞を口にしたことがある。あのときの未宇は本気に見えた。今の梨音はどうだろう。もし本気だったら? 本気をからかいと断じてしまうのは、彼女を傷つけることにはならないだろうか。

「それ、前にも聞いた」

 梨音は笑う。そう、前にも言ったのだ。そのときおれと未宇は出会って三時間かそこらだった。梨音もたいして変わらない。二週間かそこらだ。

 好きになるのに時間は関係ない。そんな主張もあるだろう。でも本当のところはわからない。好きじゃない相手とキスする世界があるのかも。おれは知らない。

 梨音が近づいてくる。おれの胸にぴたりと額をつけ「困らせちゃったね」と呟く。それが悲しそうで、切なくて――瞬間、何もかもぶちまけてしまいたいと思った。

 精通がきたのがついこの間なこと。長い間自分は欠陥品だと思っていたから、男としての自信がないこと。女の子と縁がなく、恋愛経験もゼロなこと。だからこういうとき、どうしたらいいかわからないこと。

 話せないこともないのだ。恋愛経験が皆無なのは事実だし、見栄も何もない。なんなら梨音には見透かされている気がする。でも、どの部分を話したって根幹には精通が絡んできて、それを彼女に言うのは難しかった。

 だからおれは、卑怯な手を使った。

「梨音がいやとかじゃなくてさ。おれ、経験が……ないから。それに、ほら……未宇のこともあるし」

「未宇のことが好きってこと?」

「ち、違うよ! そうじゃなくてさ……言ったろ? 突き放したらダメなんじゃないかって。まだおれ、そこも中途半端にしてるし……」

「中途半端なのは認めるんだ」梨音は少し笑う。「じゃあ、未宇のことは好きじゃないの?」

 そう聞かれると困ってしまう。未宇のことは好きだ。でも、それが恋愛感情かと言われるとたちまち判断がつかなくなる。

「……わからない」

 これ以上未宇を言い訳に使うのは無理だった。既に罪悪感がすさまじいのだ。

 梨音がおれを見ている。すべて見透かされてると感じるほど強い瞳なのに、そこには慈愛すらあった。女の子は変だ。さっきまで子どもみたいに笑ってたのに、急にこんな、大人みたいな顔をする――。

「わからないって、なにが?」

 教えて、朝希。

 梨音には何も話してない。だけどその声は心を絡め取る。彼女は答えを持っていて――適切に聞きさえすれば、進む道を示してくれるのだと――錯覚さえ抱かせる。

 抗えずに口を開いた。一度言葉が出てしまえば、歯止めは利かなかった。

「梨音のことは好きだけど……それを言うなら、涼子だって未宇だって好きだ。でも、それが恋愛感情じゃないことくらいおれにもわかる。そんな、何人もの相手に持つものじゃないって。じゃあ、なにがどうしたらそうなのか、って言われると……」

 言っててわけがわからなくなり、どんどんと尻すぼみになる。それらが消える寸前、入れ替わるように梨音が言った。

「触りたいとか……キスしたいとか。そう思ったらじゃないの?」

 ドキッとする。今度は違う意味で。

 さっき――確かにそう思った。梨音のいじらしさに堪らなくなって。でも、未宇にも思ったことがあるのだ。涼子になんて、実際に触れたことがある。

 悪いことをして怒られそうになってるみたいだ。緊張で背筋がぴりぴりする。

 梨音はおれの顔を黙って見ていた。本当は全部バレてるのかもしれない。

「うまいなあ……」

「え?」

 ぽつりとこぼれた言葉に思わず聞き返す。少し低い声。今日、一度だけ耳にした記憶がある。でも普段の彼女からは聞いたことがない。

「うまいって?」

 一瞬驚いた顔をして、それから梨音は小さく笑った。自虐的な――それでいてどこか不敵な笑み。「ふふ」と落ちる声と表情があまりにイメージとかけ離れていて、おれは口を噤んだ。

 何がうまいんだろう。おれの言い訳の話だろうか。うまくこの場を切り抜けている――そう思ったってことだろうか。

 焦燥で妙な汗が出る。梨音はもう一度笑った。今度はいつもの笑い方に近かった。含むものは何もない。明るく、ただ注がれる笑顔。

「わかるまで待ってもいいよ」

 梨音は言った。水中でさまようおれの手をそっと握る。

「その代わり、約束して。ちゃんとアタシのこと見て……アタシのこと考えて。アタシに触りたいとか……キスしたいって思ったら、ちゃんとそうして」

 体が揺れる。心臓の音のせいだ。どんどんと大きくなり、振動を体表まで運ぶ。

「自分に素直になって……我慢しないで」

 いつの間にか水中から引き出された手に、梨音は頬を擦りつける。ぬるく柔らかい肌。赤い頬と、うっとりした目つき。小さな歯がのぞく濡れた唇。その感触を知っている。

 先ほどとは違う痺れが腰からのぼってくる。ざわざわとした感覚が、ノイズみたいに脳に広がる。

「梨音は……」

 言いかけた瞬間、梨音が手のひらにキスした。それでおれはまた言葉を失う。

「あっ!?」

 ぬるついたものが手のひらをなぞり、変な声が出てしまう。手を引こうとしたが、梨音の力は強かった。プールの端にいることもあってほとんど身動きが取れない。

 舌が這って、離れて。プールの水とは違うもので濡れたそこに、すかさず唇が降ってくる。

 頭がぐちゃぐちゃだ。濡れたものが皮膚を伝う感触。そこには確かに不快さがある――なのに、凌駕する何かが全身から力を奪っていく。

 尖った舌先が丁寧に手のしわを広げる。唾液で濡れたそこに、一度、二度と慈しむようにキスされて。唇がちゅ、と音を立てて離れて――途端に立ってられなくなった。

 空いた手を縋るようにプールの縁に置く。にもかかわらず体は沈む。腕と肩を使ってなんとか水面から顔だけ出し、泣きそうになりながら梨音を見る。

 苦しい。怖い。

 切ない――。

 そんなおれに彼女は口角を上げる。手を握ったまま、さっきまで舐めていたところをすりすりと撫で、軽く口づける。

「りおん……」

 おれの声も泣きそうだった。女の子に手を舐められただけで、どうしてこんな――。

「忘れないでね。アタシがしたこと全部……たくさん思い出して。どう感じたのか考えて……アタシとどうしたいか、想像してみてよ。それで、考えたこと……ちゃんとアタシにしにきて」

 首に腕が回される。梨音の顔を目前に、指先までこわばった体は一ミリだって動かせない。それなのに心臓はバカみたいに鳴って、おれの体を震わせる。

 全部が梨音のものだった。場の空気も、おれの一挙一動も。おれをしゃべらせて――黙らせて。心臓の動きすら思うままだ。

 彼女の挙動に振りまわされ――緊張も安堵も与えられ。支配されてる気にさえなるのにそれが心地いい。この泣きたいほどの不安と切なさの理由を知っているなら、意地悪しないで教えてほしい。そんなことすら思うのだ。

 ゆっくりと唇が重なる。

 梨音の舌先が一度下唇を舐め、再度体が震えた。離れていく唇は真っ赤に濡れ光る。あどけなさの残る彼女からは想像もつかないくらいに。

「待ってあげる。でも、それはひとりでちゃんとできるなら。できないんなら――アタシは待たない。朝希がどんなに嫌がっても、ちゃんと理解してもらうから」

 唇の上で「わかった?」とささやく。おれの頭は茹だりきっていた。息も絶え絶えに返す。

「わかった……」

 か細く、高く、力のない、どこから聞いても情けない声。梨音はようやく顔を離し、おれを見てにやにや笑った。

「泣いてんの? 朝希」

 冷たい指先が目尻を拭う。慌てておれも目元を擦った。女の子にキスされて泣いてるだなんて、そんなこと(実際泣きそうだったことは別にしても)、あっていいはずがない。

 あからさまに焦るおれに梨音はケタケタ笑う。さっきまでの妖艶な少女はどこにもいない。それでも、幻かという思いは彼女の瞳が否定した。熟んだ目とかち合った瞬間、唇と舌の感触とが生々しく蘇り――おれの背筋は甘く痺れた。

 あとのことは驚くほどあやふやだ。今度はおれが浮き輪に乗り、梨音に引かれてプールを一周したし、スライダーにも行った。だけどその間に話したこととか、どうして浮き輪に乗ったかとか、スライダーに行ったかとか――会話や行動の流れについてはまるで覚えていなかった。

 じゃあ何を覚えているかというと、梨音の白い背中とか、細い腕とか――たまに振り返り、目が合って笑うときの感じとか――そういうことだけだった。最初は弾けたように笑うのに、見つめていると唇の端に意地悪なものが浮かぶ。目が三日月みたいになって、低い声で笑って。細くて冷たい指先で、おれの頬や唇をくすぐる。

 始めこそされるままでいるけど、人の目が気になってくるとおれは逃げるそぶりを見せる。そしたら彼女はぴたりと手を止め、笑って浮き輪引きに戻るのだ。その背を見てるとだんだん寂しくなり――一度は逃げたその手が、すぐに恋しくなってくる。

 おれは彼女に言われたとおり、彼女のことだけを見て、彼女のことだけを考えた。涼子のことも未宇のことも、一度も頭にのぼらなかった。

 梨音の背に触れたいという思いは何度かおれの胸を掠めた。けれどそれだけだった。ああまで言われたにもかかわらず、おれは何もできなかった。

 そろそろ帰ろうかと梨音が言い、おれたちは更衣室に戻った。体の水気を取って服を着る。肌に布が張りつくのが心地悪かったが、そんな中でも彼女のことを考えた。

 梨音はおれを好き……なのかもしれない。

 他人が相手なら間違いなく好意と捉えるところだ。それが自分になった途端に「かも」がつくのは、自信のなさが浮き彫りの思考で情けない。

(でも、好きって言われたわけじゃないぞ)

(あんなの言ってるようなものだろ。手まで舐められたんだぞ)

(手を舐めたからって、好きだとは限らないじゃないか)

(好きじゃないやつの手なんか舐めないだろ)

(そもそもなんでおれなんか好きなんだよ)

(それはそうなんだよなあ……)

 せっかく生まれたポジティブなおれはすさまじい勢いで消えていく。結局はそこだ。自分で言うのもなんだが、顔立ちは普通だと思う。成績はよくないけれど、そこまで悪いわけでもない。運動神経もそこそこだ。人より秀でたところはなくても、劣っていることはないはずなのだ。なのにおれには、人より劣ってるという意識が強くある。

 未宇の告白も、梨音の告白じみた行為も、矛先が自分だと思うと信じられない。おれじゃ彼女たちと釣り合わない。いや、地球上のどんな女の子とだって釣り合わないのだ。そんな考えが凝り固まって、はねのけることができない。

 おれは男じゃなかったから。

 劣等感の塊だ。みっともないくらいに。

 更衣室を出るころには、今後についての予感があった。おれはたぶん……梨音が望むことを何ひとつしてやれないだろう。彼女のことを考えて、触れたくなったり、触ってほしくなったりしても、病的なまでの劣等感がそれを阻む。

 自信がなかった。精通がきたといっても、その機能はまだ意識の外にある。

 おれが射精したのはあの日が最後だ。いざ性器が機能するとわかって、おれは怖くなった。性的なものに対する閾値はかなり高くなっている。何をどうしても反応しなかったし理解もできなかったから、遠ざかるようになって数年は経っていた。そして今、自分の性器は正常だとわかって――。

 わかってなお、おれは何もしていなかった。性的な意味合いを持ってそれに触れたことがなかったのだ。

 だってそうだろう。もし反応がなかったら? あれは一時の幻で、もう正常に動かなかったら。いやらしい何かをよく解らず見ながら、くたりと微動だにしない息子をしごき続けるむなしさ。二度と経験したくない。またそうなったらと思うと、恐怖でどうにかなりそうだった。

 どこかが壊れている感覚。女の子を見れば可愛いと思うのに、彼女たちに性的な感情を向ける男子に混乱する。言っていることはわかるのに、思考の流れが理解できない。

 でもそのころは精通がきてなかったから、それを『原因』にすることができた。肉体が正常に戻れば――きちんと精通がくれば。おれにも理解できるはず。そんな希望があったのだ。

 精通がきて肉体には問題がなくなった。未宇や梨音に出会い好意を向けられ、胸が苦しくなったり触れたいと思ったり……そんな感覚を理解できるようにもなった。

 それでも。

 上半身と下半身がうまくつながらない。絶縁体でも差し込まれてるみたいにそこでぶつりと途切れている。その感覚が拭えなくて、いまだに試せない。

 肉体的には平気なはずだ。だけど興奮できない――勃起できない――そんなイメージがあまりに強かった。その通りになるんじゃないかという恐怖心も。

 人間として、雄として。他の個体が普通にできることが、おれにはできないのだ。

 ずんと重いものが胸にのしかかる。思考の深みにはまっていた。動きたくない。けれどそう言ってもいられないので、無理矢理に考えを打ち切ると更衣室を出た。

 梨音は既に着替え終わっていた。「朝希」と笑顔で駆け寄る彼女は女の子だった――おれにはもったいないほどの。

「帰ろうか」

 言うと梨音は瞠目した。そのままおれをじっと見つめる。

「朝希?」

「……うん?」

 不思議に思いながら返すと、瞳が一瞬鋭くなった。と思うと大きくため息をつき、おれの左手に指を絡める。

「り、梨音?」

 指の間に細い指先が入り込み、手のひらを親指がすりすりと撫でる。それに彼女の舌を思い出し、肌が粟立った。

「帰ろ」

 三日月の目が見上げてくる。手を離す気はなさそうだった。おれは始めこそ緊張していたが、振り払うこともせず、結局はそれを受け入れた。本来――更衣室での考えに殉ずるなら――早く意思表示しなくちゃだめなのだ。だけど彼女のぬくもりが心地よく、おれは甘えてしまった。

 手を繋いでからは無言だった。妙なぎこちなさも、会話しなければという焦りもない。こうあることが自然なようにふたり寄りそって歩いた。

 公園の中は静かだった。たまに風が木々をさざめかせるだけだ。ひょっとしたらすれ違った人もいたかもしれないが、おれは気づかなかった。

 恋人みたいだと思った。彼女はおれの手を優しく握り、そっと体重を預けていた。触れあったところから熱が溶け、優しく肌を伝った。

 外はまったく涼しくない。陽は傾いていたが、大気には熱がこもっていた。でも梨音には特別な温度があった。優しく包む日だまりとも、じりじり肌を焼く日ざしとも違う。宵闇の残照のような、だんだんと冷えていく空の中にあるのが似つかわしい熱。だからだろうか、触れあっていても不思議と暑さは感じなかった。

 視線も言葉もない。それでもこうしているだけで、互いを肯定していると感じる。隣にいて、それが自然だと受け入れる。梨音がくれる体温はとろりとした粘度なのに、水みたいにおれの中にしみて甘く心を満たした。

 心地いい。確かにそう思った。けれど先へは進めなかった。思考も、肉体も。

 バス停が見えてきたころ、梨音の手が離れていった。遠ざかるぬくもりを目で追う。立ち止まった彼女は今出たばかりの公園を振り返った。

「忘れ物しちゃった」

 視線が宙に浮いている。「戻る?」と尋ねると小さく首が振られた。

「ひとりで戻る」

「いいよ、一緒に戻っても」

 彼女はむくれた顔をおれに向ける。その頬は赤い。

「パンツ忘れたの!」

「えっ……」

 思わず目線を下げてしまった。そんな自分に気づき頬に熱が溜まる。おれの顔も梨音の赤みが移ったようになってるに違いない。いつの間にか視線は地面まで落ちていたけど、そんなごまかしをあざ笑うかのように梨音の足が近づいた。

「朝希がこのままでいいなら、このまま帰るけど」

 ちょっとふてくされたような、それでいてからかうような声。編み上げのサンダルからのぞく小さな爪先が、夕日を浴びて濡れた光を放つ。

「と、取ってきてください、ぜひ……」

 敬語になったおれに、梨音は笑いを含ませた声で「かわい」とこぼした。

「横断歩道渡ったところの、ほら。あそこのコンビニで待っててよ。アイス買って帰ろ」

 梨音はスカートの裾を翻して駆けていった。視界が白い布でいっぱいになって、どきどきと同時にハラハラする。その影が小さくなっても、絶えず翻るスカートから目を離さずにいられなかった。

 彼女の姿が木々の中に消えて、はたと気づく。というより、事実を改めて理解する。

 ふたりきりで手を繋ぎ、公園の中を寄りそって歩いた、蜜みたいな時間。

 あの最中、ずっと梨音は……。

 本日何度目だろう。体中の熱が溜まりゆだりきった頭でおれは公園に背を向けた。足早にコンビニへと向かう。一刻も早く涼しいところへ行かないと、道の真ん中で倒れてしまうかもしれない。

 眩暈がする。梨音はおれを混乱させる天才だった。

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