【9】梨音・2(2)

 涼子以外の女の子と出かけることにばかり気をとられすぎて、おれは失念していた。行き先がプールだということを。

 やけに天井が高い受付で入場料を払って、更衣室の前で別れることとなり。梨音が水着入れの入ったクリアバッグを振りながら「楽しみにしててね」と女子更衣室に引っ込んで――おれはようやく、次に会うとき彼女は水着姿だということに気づいた。

 頭が真っ白になる。女の子の水着――想像がつかない。

 見たことがないわけじゃない。久鵺高校はプールの授業がないから、中学のときにはなるけれど。でもあんなスクール水着とはわけが違うだろう。あとは何度か目にした雑誌のグラビア。ただ、それもまじまじと見たことはなかった。下着姿のように思えて耐えられなかったのだ。女の子のためにも見ちゃいけない気がした。あれはそういう仕事で、下着と水着とは違う。冷静に考えればわかるのだけど。

 わけのわからないことを悶々と考えるうちに着替えはすっかり終わって、あとは更衣室を出るだけになった。けれど踏ん切りがつかなくて、ロッカーの扉を開けたり閉めたりする。背中の神経がちりちりした。

 いい加減待ってるかもしれない。そう思いようやく外に出る。覚悟はできていなかったけど、これ以上ためらっていたら一生出られなくなりそうだった。

 懐かしい景色が広がった。正面に広がる巨大なプールとそびえ立つスライダー。周囲は別のプールが囲んでいて、大勢の人間が緩やかな流れに身を任せている。改装したのか施設の壁やスライダーの色は記憶と微妙に違っていたが、全体的な佇まいや空気は思い出の中と同じだった。

 夏休み前とはいえなかなかの混みように驚いた。特に男子更衣室の出入り口はやけに混雑している。

 人ごみから抜け出し、梨音を探そうと女子更衣室の出入り口を窺う――が、背後から覚えのある声がした。

「あ、朝希!」

 振り返ると梨音がいた。とっくに準備を終わらせ、男子更衣室前で待っていたらしい。今まさに話しかけようとしている男の人を綺麗に無視し、笑顔で駆けてくる。付近で屯していた男性のほとんどすべての意識がこちらに向くのに気づいて――おれは察した。この混雑は彼女のせいだったのだと。

 正直、梨音はとんでもなく可愛かった。そもそも顔の造形がいいのだ。普段の格好とのギャップがなかったとしても、その姿は目を引くのに十分だった。

 細やかなフリルがついた淡い紫のビキニ。上は紐を首のうしろで結ぶ形になっていて、短い髪から続くうなじを綺麗に見せている。胸から腰まで続くラインは細くて滑らかだ。水着の下は短いながらもスカートのようになっていて、そこから綺麗な足がまっすぐ伸びる。手には水玉模様の浮き輪を抱えていた。

 あまり下着を連想させないデザインだったことに安堵する。下手したら一緒にいられなかったかもしれない。

「ねね、どーお?」

 小さな布地を引っ張りながら感想を求めてくる梨音を促し、その場を離れようとする。彼女は足を止め、不満そうに頬を膨らませた。

「感想くらい聞かせてよお」

 止まられると困る。視線が痛いのだ。早く移動したい。

「ここじゃやだよ」

 梨音はそこで初めて周囲に人が多いのに気づいたみたいだった。きょろきょろ辺りを見回して、からかうような笑みを浮かべる。

「ふたりっきりになれるとこ行きたいって?」

「どこにあるんだよそんなとこ」

 この分ならどこにだって人がいるだろう。そう思ってつい口にしたが、はたと気づく。まるでふたりきりになりたいと言ってるように聞こえる。

「いやっちがくて」

 見れば梨音はにやにや笑いをもっと深めていた。肘で軽く脇をつつかれる。

「探す? ふたりきりになれるとこ」

「いい! いい!」

 早足でプールに向かうと梨音はケタケタ笑いながらついてきた。結局のところ、人から逃げるには人ごみに紛れるしかないのだ。プールに入ってしまうのが一番いい。

 流れるプールの横で、おれが準備運動するのを梨音はじっと見ていた。「梨音もしたほうがいいぞ、危ないし」と言うと首を傾げ、浮き輪を傍らに置いておれのまねを始める。その一連の様子が刷り込みされた雛のようで、なんだかほほえましかった。

 軽く筋を伸ばし終え、屈んでプールに指先をつける。ほどよいぬるさで気持ちがいい。

 そこでいたずら心が湧いた。さっきから散々からかわれてる意趣返しだ。ちょうど梨音はうしろに立っている……。

「ほらっ」

 おれは手に少量の水を掬うと背後に浴びせた。梨音目がけて。

「…………」

「え……」

 何かしらの反応を期待したおれは、梨音がただ呆けたように立ち尽くすのに困惑した。彼女は濡れた腹を見て、おれを見る。その目は妙に丸かった。

「ご、ごめん」

 怒らせたかと思いとっさに謝る。梨音は「ああ」とこぼした。少し低い、どこか間の抜けた声。

「濡れちゃった……」

 声にはすぐ感情が戻った。悲しそうに言うので申し訳なくなり、再度謝ろうとする。しかし肩への衝撃がそれを阻んだ。体が水中に沈む。

「――ッ、ばか!」

 浮かび上がって叫んだ。幸いなことに周囲は無人だった。頭上からは笑い声がする。

「アタシになんかしようなんて百年はやいんだから!」

 見れば梨音が飛び込もうとするところだった。急いで距離を取る。後続の影は遠いからひとまず危険はないはずだ。来るであろう水しぶきに備えて顔を逸らす。

 水面は静かに揺れていた。構えていた衝撃もまったくない。不審に思って見ると、彼女はもう水中にいた。浮き輪を持っているくせに、そんなもの始めからないかのようにこちらへ身を寄せてくる。

「……梨音?」

「なに?」

 目の前で梨音は小首を傾げる。おれは梨音を見て、それから彼女が立ったまま飛び込んだはずのプールサイドを見た。

「今、音した?」

「音?」

 全然しなかった気がする。そもそも、飛び込みは監視員に怒られる。今見える範囲にだってふたりはいる。梨音は確かに飛び込んだのに、彼らはこちらを見もしない――。

「いいじゃんそんなこと」

 近くで聞こえる声にハッとする。視界には梨音の顔が大写しになっていた。小さな手はいつの間にかおれの腕に添えられて、浮き輪は前方に流されつつあった。

 恥ずかしさから梨音の手をどかし浮き輪を取りに行く。置いて行かれると思ったのか、彼女はよりにもよっておれの水着の裾を握って引き留めた。

「ちょっ……そこはダメ!」

 思わず叱ると不思議そうな顔をする。あんなからかい方をするくせに、こんなときだけすっとぼけて。どこまで本気なんだかまったくわからない。

 なんとか浮き輪を捕まえて、もう一方の手で水着を探る。梨音の手を見つけて押さえつけると、予想外にすんなり力が抜けた。おれの指先を探り当て、きゅっと握ってくる。

「ちゃんと浮き輪を持ちなさい」

 その手から指先を抜き、浮き輪の紐を握らせる。梨音は一瞬キョトンとして、すぐに頬を膨らませた。片腕で浮き輪を抱き、もう一方の手でバシャバシャと水をかけてくる。

「こら! なにすんだよ!」

「手握ってくれたと思ったのに!」

 一気に頬が熱くなる。そんなつもりはなかった。でも、そう取られてもおかしくない。だけどそれ以前に――どんなつもりでそんなこと言ってるんだ。

 そこで「握りたかったのか?」なんて聞いて、手を繋ぐ方向へ持っていく――女慣れしてるやつならそんなこともできるんだろう。当然おれにはできなかった。経験値もそうだし、なんだか不誠実な感じもしたから。

 結局おれはふてくされる梨音のうしろをついて回り、浮き輪の紐を引っ張る役を申し出ることで許された。「もっとはやく」「もっとゆっくり」「ちょっと戻って」「この駄馬!」と――最後のは完全にただの罵倒だったが――注文を召使いのように聞いてるうちに、彼女の機嫌もよくなった。たわむれのように背中に水が浴びせられたり、梨音の指先が背筋を伝ったりして、振り返ると楽しそうに笑う。その様子に安堵した。


 しばらく遊んでいると、梨音が「トイレに行きたい」と言いだした。プールから素早く上がり浮き輪の紐をおれに渡す。「ここで待ってて」と言い残し駆けていった。

 ひとりで水中にいる気分でもない。おれもプールサイドに腰かける。浮き輪だけは流れに残し、ぼんやりと景色を眺める。

 あのやけに目立つフロートはなんだろう。ずいぶんと遠くにあるのに、大きさのせいで存在感が段違いだ。壁に引っかかるのか進みがひどく遅い。

 どうやら動物型のようで、イルカにも見えるがサメにも見える。サメだったら趣味が悪い。けど、ちょっと見てみたい気もする。

 今梨音が戻ってきたら、またプールに落とされるかもしれない。こんな無防備に背中を晒してるんだから。彼女は結構いたずら好きみたいだ。

 にしても、女子のトイレってやっぱり長いんだな。涼子はそうでもなかった気がするけど、おれに気を遣って急いでくれたのかな……。

 あっちこっちに思考が飛んで、よくわからないことまで考え始める。そうしているうちに例のフロートが近くまでやってきた。

 サメだった。

「………………」

 おれは振り返る。いくらなんでも遅すぎやしないか。

 立ち上がると浮き輪を引き上げトイレへ急ぐ。周辺に梨音の姿はなかった。まだ出てきてないのかと辺りを見回す。

 この施設はプール内部にもロッカーがある。それぞれの更衣室から出て少し行ったところにひっそりとエリアがあるのだが、男子更衣室側のそこに男性が数人集まっていた。

 嫌な予感がする。違ってほしい――そう思ったが、男たちの体の隙間からは淡い紫の水着がのぞいた。

 本当にバカだ。梨音をひとりにすべきじゃないことなんてわかりきってたのに。

 男は三人いた。大学生か社会人か……とにかく全員、おれよりは年上に見える。細いが締まった体をしていて、なかでも色黒の男はとりわけ力が強そうだった。話してるのは主にこの男で、強い言葉じりで彼女に詰め寄っていた。遮るように「困る」「どいて」と声がするが、意に介した様子もない。

 誰か人を呼ばなきゃ。ひとりじゃ無理だ。

 頭の冷静な部分はそう判断を下す。でもほぼ同時に――口が動いた。

「梨音」

「朝希!」

 呼んで、声が聞こえて――梨音の顔が見えるより速く、三人の男が振り返る。たちまち後悔した。もっと、何か――準備してからにすべきだった。わかってたのに――。

「彼氏?」

 色黒の男が梨音を見る。彼女は「うん」と即答し、肌色の隙間から顔を出した。男たちは“彼氏”のおれを見て失笑する。

「リオンちゃんっていうんだ? 名前も可愛いね」

 男の手が顔に伸び、梨音はさっとそれを払う。男は眉根を寄せおれに向き直った。

「彼氏くん、ちょっとリオンちゃん貸してくれない? さっきから一緒に遊ぼうって誘ってんだけど、全然オッケーしてくんなくて。彼氏くんの許可が出たら付き合ってくれると思うんだよね」

 言葉に詰まる。いいわけない。でも断ったあと――どうなるのか想像もつかない。

「なんなら彼氏くんも一緒に遊ぶ? 見てていいよ」

 男のひとりが言って、三人は下品に笑った。だめだ、このままじゃ――。

「梨音、待ってて。誰か呼んでくるから」

 走り出そうとして、鈍い痛みとともに体が止まった。浅黒い手が右手を掴んでいる。

「すぐ人を頼るなって親に教わんなかったのか? とんでもねえな」

「彼氏くんさあ、彼女ひとり自分で守れないなんて恥ずかしくないの?」

 言われて頬が熱くなる。バカにされたからじゃない。そういう感覚を持ってない自分に気づかされたからだ。

 精通が来てようやく男としての自分を取り戻せた気がしたけど、自認期間が短すぎるおれには普通の男が持つようなプライドがなかった。一緒に遊びにきた女の子が別の男に絡まれて、なんとかしなくちゃならなくても。ためらいなくおれは人に頼るし、それを恥ずかしいとも、情けないとも思わない……。

 茫然としてるうちにおれは男たちの中に取り込まれた。梨音の全身が見え、状況は悪化しているというのにホッとする。梨音もおれを見て安堵の表情を浮かべた。

 しかしすぐに視界を男の腕が遮る。

「あんまり手間かけさせんなよ。めんどくせえな」

 おれの頭は真っ当に動いていなかった。状況を打開する方法を考えなくちゃいけないのに、手間のかからない女の人を誘えばいいのにとか、面倒ならやめたらいいのにとか……浮かぶのはしょうもないことばかりだった。

 額が小突かれる。そこで初めて、自分が男の顔をジッと見ていたことに気づいた。男は指でおれの額をはじく。何度も何度も。

「俺もあんまり我慢強い方じゃねえからさ、さっさと「うん」って言ってくんねえと困るんだよな。更衣室で話すのもだるいだろ?」

 おれと対峙してるのは色黒の男だけだった。あとのふたりは梨音の傍にいて、にやにやとこちらを見ている。ときおり「彼氏くん頑張るねえ」だの「すぐにもっと似合う彼女見つかるよ」だのと茶々が入る。

 頭が揺れて眩暈がした。それが収まるころになると、また次の揺れ。思考能力はほとんどなかった。この場を切り抜ける考えなんか湧くはずもない。

 でもなぜか恐怖はなく、不思議と心は凪いでいた。横を向いて視線を下げる。男の腕の下から梨音の細い手首が見えた。握り締められた小さなこぶし。

 その手を取る。こぶしはほどけ、縋るように指を絡めてくる。強く握り返して、自分の側へと引き寄せた。

「梨音」

 おれの声に男は手を止める。その目を見ながら続ける。

「この人たちと遊びたいか?」

 隣で息をのむ音がした。わずかな沈黙。そして小さな声。

「遊びたく、ない」

 頷くように視線を下げる。何を食べたらこんなになるんだろう。腕は太くて体も厚みがあって……殴られたら痛そうだ。

 でも、死ぬわけじゃない。

「どいてください」

「ああ?」

 男は凄む。迫力はあったけど怖くはなかった。少なくとも、先週よりは。

「梨音もこう言ってるので、おれたちはふたりで遊びます。彼女は貸せません。そもそも、梨音はものじゃない」

 空気が重くなった。まずい言い方をしたかもしれない。だけど後悔はなかった。

 これから何をされてもおれは負けるだろう。そうなったら、大きな声を出して――誰でもいいから助けを求めてやる。それでもダメなら頭のおかしなふりでもすればいい。つい最近、サンプルを間近で見たんだから。

 プライドのなさに自分でも驚く。でもそれで梨音が助かるなら、そっちのほうが絶対マシだ。たとえ情けないと思われたって。

 男が両肩を掴む。力がこもり、おれの身長は数センチ縮む。

「彼氏くん、更衣室行こっか」

 口調はにこやかだが目は笑っていなかった。肩を組み梨音から引きはがされる。それでも男たちが全員来るならと思ったが、男のひとりが「じゃあ俺はリオンちゃんと待ってるわ」と言いだした。

「先に手ェ出したら殺すからな」

「わかってるって」

 身勝手な言葉に視界が狭くなる。男の力は強く、身じろぎしてもなんの抵抗にもならなかった。

 更衣室はダメだ。早くしないと。

 深く息を吸う。いざ叫ぼうとした瞬間――低く枯れた声がした。

「なにしてるんだ」

 いつの間にか、近くに監視員の男性が立っていた。肌はチョコレートに似た色で、顔立ちも日本人とは異なっている。彫りだけでなく刻まれた皺も深く、それなりに歳を取ってるようだ。背は男たちの誰よりも低かったが、彼らの数倍は体格がよく、佇まいは小山を連想させた。首から下げたホイッスルがおもちゃみたいだ。

「なにしてるんだ」

 監視員はもう一度聞いた。彼の声は重い。地を這うようだ。

「いやあ、友だちと話してるだけですよ。どうしました?」

 色黒の男が言う。おれは首を振ろうとしたが、たちまち抑えられた。

「友人には見えない」

「友だちですよ。なあ?」

 がっしりと首を押さえ体を揺すられる。上下に振られた頭は頷いているように見えなくもない。

 しかし監視員は首を振った。

「全員、友人関係としては不自然な鼓動をしている。特に少年少女は脅えている。直接聞く。彼を離すんだ」

 男はおれを連れたまま監視員と対峙した。威圧するように見下ろすが、監視員は微動だにしない。逆に、男を見返す彼には妙な迫力があった。顔つきのせいか目に光が入らず、どこか不気味にすら見える。

 相手が動かないのでこれ以上は無理だと悟ったのか、男は手を離した。腕から逃れてすぐおれは振り返る。

「梨音」

「あさきぃ」

 色黒の男が諦めるのとともに、梨音の傍にいた男も彼女を留めるのを止めていた。男たちのなかから転がり出た梨音はおれの体にすがりつく。

「ごめんな」

 腕の中でぶんぶんと首が振られる。彼女を引き寄せおれは監視員のうしろへ下がった。

 男性がもうふたり駆けてきた。監視員の格好をした彼らは丁寧な言葉で男たちを更衣室へと連れて行く。彼らは始めこそごねたが、客たちの注目が集まっていることに気づくとおとなしく出ていった。

 あとにはおれたちと一人目の監視員が残った。彼は恐らく先輩だろう監視員に「グエンさんは戻っていいよ」と言われていた。駆けつけた彼らも体格はよかったから、ふたりで十分と思われたのかもしれない。

「あの……ありがとうございました」

 監視員――グエンさんはおれを見た。その目にはやっぱり光が入ってなくて、少し不気味な感じがした。でもそれだけだ。おれは彼に親しみを感じていた。なんてったって、助けてくれたのだ。

「いい。仕事だ」

 グエンさんはそれだけ言った。言葉少なな様子ができる男な感じでかっこいい。感動するおれをよそに、梨音は背後からひょっこり顔を出して「心臓の音聞こえるの?」と言った。

「なんの話?」

「だって、不自然な鼓動がするって言ってたから」

「言い間違いだろ」

 外国の人だ、それくらいの間違いはするだろう。むしろ十分うまいと思う。鼓動なんて単語、本の中でしか出てこないんじゃないだろうか。

 グレンさんは梨音を見て「ううん」と唸った。困ってるみたいだ。外見に似合わない可愛らしさがそこにはあって、思わず笑ってしまった。

「聞こえない。挙動と言いたかった。動き。合ってるか?」

 梨音は頷くと破顔する。力の抜けた笑顔だった。そして、どこか泣きそうにも見えた。

「あいつらはまだ建物から出ていない。もうしばらく遊んでいけ」

 言い残し、グレンさんはのそのそと持ち場に戻っていった。ずいぶん遠くから来てくれたらしい。小山のようなシルエットは遠ざかり、ウォータースライダーの根元で止まった。

 おれたちは黙ってそれを見ていた。グレンさんが静止し、持ち場に戻ったと理解できてもなお動かなかった。梨音は強くおれの腕を掴み、体を密着させていた。

「プール、戻ろうか」

 彼女は頷いた。おれが持っていたはずの浮き輪はいつの間にか離れたところに落ちていた。拾いに行こうとすると腕にかかる力が強くなる。

「浮き輪拾いに行くだけだよ」

 梨音はまた頷いた。

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