【9】梨音・2(1)

 教室に戻ると次の授業が始まるところだった。席に着くよう言われてそそくさと戻る。史也は何か言いたげだったが、私語にうるさい教師だったので何ごともなく過ぎた。

 それがその日最後の授業だった。終わると続けて終礼が始まり、掃除の時間になる。席順で班が決まり清掃場所が振られるので、おれと涼子と史也は担当が同じだった。今週は教室。そして――席が前後しているため仕方ないことだが――すぐさま史也に捕まった。

「なんだったんだよさっきの? 宗田さんはともかく矢代さんまでさ」

 空気が少し変わる。いつもなら皆さっさと教室を出ていくのに、今日はやけに動きが遅い。こちらをちらちらと窺う者もいる。

 今度こそ本当に話したくなかった。「関係ないだろ」と口を突いて出そうになる。あんな目にあったことを忘れたいし、他人に知られたくない。だが史也がその感情を理解し、尊重してくれるとは思えなかった。

 悪いやつではない。悪いやつではないのだが、史也は自分の定規しか持っていない。年頃の男子高校生が持つべきノリ、女生徒に対する興味。己の尺度でだけ物事を測り、そこから外れたものがあることを理解しない。彼といるときに感じる息苦しさは、そういうことなのだ。

 言葉に迷っていると、さっと涼子がやってきた。

「土曜日に家族で遠出して、そこで事故を見たのよ。警察の人がそのときのことを聞きに来てたの」

「家族で?」史也はおれたちを交互に見る。「宗田さんや矢代さんは?」

 涼子はにっこりと笑う。「あたしはアキちゃんの家族みたいなものだし。未宇ちゃんはあたしが誘ったの。ドライブでもどうかなって」

 史也の顔がこわばった。涼子の話し始めは最高だったが、これはこれでまずい。

「涼子んち、親が長期出張で家開けてるんだよ。だからおれの家で飯とか食ってて、それで……」

 史也は聞いてるんだか聞いてないんだかわからないような顔をした。そのうちじろりとおれを見て「家族ね」と呟く。おれはその目に気圧されて――やっぱり言わなくて正解だったなと思った。

 史也はそれからおれに触れなかった。涼子の家庭環境に興味津々で、親はいつから家を空けてるのかとか、夜はひとりで寂しくならないかとか、教師みたいなことを延々と尋ねた。おれはそれをBGMのように聞いていたが、史也が「さみしくなったら呼んでよ。いつだってとんでくからさ」と言ったのにぎょっとして、涼子が「アキちゃんがいるから大丈夫!」と返したことで更にぎょっとした。おれはふたりに背を向けていたが、その会話が成された途端、質量のある何かが背を押すのを感じて怖くなった。

 涼子は気づかないのだろうか。普段はあれだけ聡いのに。

「でも、ありがと。どうしてもってなったら連絡するね」

 それで史也はいくらか納得したが、こちらに向けられるとげとげしい雰囲気は変わらなかった。おれは涼子の助けに感謝こそしたけど、もう少しうまくやってくれたらという身勝手な気持ちが湧くのは止められなかった。

 気まずい空気を抱えて掃除を済ます。といっても涼子と史也は楽しげに会話を続けていたから、そんな空気を感じているのはおれだけだった。

 そのうち教室に人が戻ってきた。鞄を取って出て行く姿が目立つ。おれたちもそろそろ終わろうと、代表して涼子が先生を呼びに行った。

 そうして彼女の帰りを待つなか、能天気な声が教室に響いた。

「あっさきぃ」

 廊下に面した窓から梨音が顔を覗かせていた。今日もパーカーを着て、長い袖を大きく振っている。

「りっ……」

 言いかけて口を噤む。ちょうど教室に未宇が入ってきたところで、彼女はおれと梨音に気づいて固まった。背後からは史也の視線も感じる。

「元気ぃ?」

「見たらわかるだろ」

 焦りながらも返すと梨音は意味ありげにおれを見た。と思えば半身を乗り出し、小さく頬を膨らませる。

「ね、なんで遊びにきてくんないの? 1Dだって言ったよね?」

「用もないのに行くわけないだろ」

 先週の今日だ。それに用があったって行きたくない。自分が使う以外の教室は、たとえ去年までいた場所だとしても、排他的な気配がするのだ。

 梨音は不満そうに窓枠に凭れ、腕に半分顔を沈めた。

「日曜行ったのは用があったから?」

 瞬間、何を言われているのかわからなかった。動けないでいると小さく手招きされる。

「日曜って……」

 真っ白な思考のままふらふらと近づき、乾いた口でそれだけ言う。梨音は周囲に視線をやって誰も通らないのを確認すると、おれの耳もとに唇を寄せた。

「いたでしょ、レリーズ」

「なんで……」

「アタシもいたから」

 思わず梨音の肩を掴む。「怪我は」と聞くと彼女は目を見開いた。

「怪我って」

「怪我したりしてないか」

「し、してないけど……」

「そ、そっか。ならいいんだ」

 梨音が目を白黒させるので急いで手を離す。よく考えれば、犯人は男ばかり狙っていたかもしれないのだ。死んだ人の写真も見ている。彼女が襲われた可能性は低い。

 それでも、ごった返す人ごみで怪我をしたかもしれない。心配するのは変じゃないと、おれは自分に言い聞かせた。

 そんなことを考えていると、梨音がふてくされた顔でぽつりと言った。

「……変なの」

「な、なにが?」

「自分の方がずっと大変だったくせにさ」

 うろたえるおれをじろりと睨め上げる。目元が少し赤いように見えた。

 見られてたのか――尋ねようとしたが、涼子が鈴原先生を連れて戻ってきた。ふたりは梨音に気づいたが、気にかけることなくおれを呼ぶ。掃除が終わったら担当教師のチェックを受けて「ありがとうございました」で締めるのが決まりだから、おれだけこうしているわけにいかなかった。「行かなきゃ」と言うと梨音は頷く。そのままいなくなるかと思いきや、彼女は終わるまで待っていた。

「梨音ちゃん来てたんだ」

 挨拶も終わって涼子が言った。梨音は大きく頷き「朝希借りてもいーい?」と、これまた敬意のカケラもない口調で問う。気にしていないのだろう、楽しげに涼子は応える。

「ちゃんと返してね」

「考えとく!」

 ことさら嬉しそうに笑い、梨音はおれを手招いた。指先の届くところまで来るとまとわりついて教室から出す。史也はつまらなそうな顔をしていたし、未宇は不安げにこちらを見ていた。それらが気にはなったが、おれは促されるまま廊下に出た。

 といってもどこかに連れ出されるわけではなく、彼女はそのまま壁にもたれた。おれも隣に立つ。窓はいまだに全開で、教室の中は丸見えだった。向こうからも同様だ。

 梨音は少しずつこちらに寄ってきた。そのうち肩が腕に触れる。

「アタシともどっか行こうよ」

 小さくそんな声が聞こえた。右を見ると彼女の顔がある。大きな目にねだるような光。

「どっかって……」

「あ、プールとかは? そろそろ暑いしさ」

「ぷ、ぷーる?」

「だって、涼子と未宇とだけ遊びに行くのずるいもん。アタシも朝希とどっか行きたい。ねーいいでしょ? お願い!」

「なんでそんな……」

「アタシも行きたい! ねーねー」

 腕を引っ張りぐらぐらと揺らすので、軽く眩暈がした。とりあえずなだめようと「いつかな」とこぼす。それで収まるかと思いきや、揺れはもっと酷くなった。

「いつかじゃやだ! そんなの絶対行かないじゃん! すぐ! 今週!」

「こ、今週?」

 繰り返すと動きはぴたりと止まる。まだ揺れてる気がする視界の中で、梨音は愛らしく唇を尖らす。

「なんか予定あんの?」

「ない、けど」

 彼女は笑った。どこか生意気にも見える普段のそれとは違う。きらきらとして、眩しくて……見覚えのある表情だ。

「じゃあいいよね。約束」

 梨音はおれの手をきゅっと握った。そのぬくもりと乞うような声色に抗えず、おれはこくりと頷いた。


 涼子の嘘は知らぬ間にすりあわせが行われていたようで、次の日になるとおれたち三人は土曜日ドライブへ行ったことになっていた。

 可愛い転校生といち早く仲良くなり、休み時間にはこれまた可愛らしい後輩がときおり教室まで遊びにくる。そのうえ傍らにはいつも大人っぽい幼なじみがいて、かいがいしく世話を焼く……おれが男子とほぼつるまないこともあり、彼らの羨望の視線はどこか憎しみ混じりのものとなっていた。面と向かって言われることはなかったが、遠巻きに噂されたり、避ける空気を感じたりする。そんな中でも史也は変わらず話しかけてくれたが、会話を流されたり強い言葉で弄られたりと、軽視されてると感じることが多くなっていた。

 そして週末。おれと梨音はふたりでプールに来ていた。

 前日からおれは挙動不審だった。母親には心配され、涼子は梨音と出かけることを知っているので、おれの様子を見てケラケラ笑った。

「大丈夫よアキちゃん、そんなに緊張しないで」

 能天気に言い放つ涼子にもやもやする。涼子以外の女の子とふたりでどこかに行くのは初めてなのだ。緊張でどうにかなりそうだったし、なんのためらいもなく送り出す彼女にも悔しさがあった。

 もう少し何か思ってほしい。大丈夫だよとか頑張ってとか、そんなプラスの感情じゃなくて。

 あのときみたいに、寂しいとか嫌だとか――そんなことを思ってほしい。

 だってもし逆の立場だったら、おれは信じられないくらいにもやもやするのだ。大丈夫だよ、なんて口が裂けても言えそうにない。

 わがままで子どもじみた感情だというのはわかってる。だけど涼子は喜々としてデートコーデなんてものを考えようとするから、おれは我慢ならなかった。「どこの世界に他の女子に選んでもらった服でデートに行くやつがいるんだよ!?」と絶叫し、涼子を部屋から追い出す。そしてこれはデートなのかと改めて思い至り、頭を抱えてうめいた。

 そんなこんなで当日を迎え、やけくそじみて家を出た。「楽しんできてね」と涼子が言うので「おれもすごい楽しみだよ」とはち切れそうな心臓で強がってみせたのは、彼女への当てつけもある。しかしそうした強がりは歩を進めるごとに萎んでいき、待ち合わせのバス停(先週と同じところだ)で梨音と会ったころには、いつものふぬけた自分に戻っていた。

「おはよ」

 梨音の格好は普段の印象と違っていて、それもおれをどぎまぎさせた。学校ではずっと薄手のパーカーを着ていたから、てっきりカジュアルな格好が好きだろうと思っていたのだ。しかし彼女は大きな麦わら帽子に白のノースリーブのワンピースと、一目で理解できるほど清楚さを押し出した格好をしていた。白く丸い肩が眩しくて目線に困る。

「似合んない?」

 不安げな声がする。驚いて梨音を見るが、その心細そうな様子にまたやられてしまって、空を見上げる不自然な姿勢のまま上ずった声で否定した。

「ち、違うよ。めちゃめちゃ……似合ってる、けど……カジュアルな感じの私服なのかなと思ってたから、びっくりして……」

 梨音は照れくさそうな声で笑う。「ねーねー」と服の袖を引くので、流れる雲を見つめ始めていた視線をようやく彼女に落とす。己を見るのを待って、梨音はおれの腹をつんとつついた。

「だからそんなカッコしてんの?」

 今日のおれもカジュアル寄りだった。涼子と一緒に買ったものではあるけれど。

「それは、別に……」

 その通りだった。梨音がどんな格好でくるのか、おれは真面目に考えていた。

「あのね、正解」梨音は言った。「ほんとは家でもパーカーとかよく着るんだよ。個性的っていうか……そういうブランドの。でも今日はおしゃれしてきちゃった」

 息が詰まるような気持ちがした。最近ずっとこうだ。理由はもうわかっている。

 自分とプールに行くときに、普段着ないような服を着て、おしゃれしてくる。そのいじらしさがたまらない。もしかしたら梨音も――これをデートだと思ってるのだろうか。

 昨日必死で追い出した考えが再び頭をもたげる。デートじゃない。ただ後輩と遊びに行くだけ。そう思おうとしていたのに。

 バスが来てふたりで乗り込む。促されるまま隣に座って、生身の腕がぶつかって。ぺたりと張りついた柔らかな感触を意識しないよう、梨音との会話に集中した。

 おれたちが向かうのは叶市にあるプールだった。叶ふれあい公園プールはその名のとおり、ふれあい公園内部にある屋内プールだ。素朴な名前をしていながらかなり大きな施設で、ウォータースライダーや流れるプールもあり今の時期は賑わっている。最近はめっきり行ってないが、幼いころは涼子とふたり、よくおれの母親に連れてきてもらっていた。

 バスはレリーズを過ぎて公園へと向かう。先週あんなことがあったのに車窓から見たレリーズはいつも通りで、なんとも言えない気分になった。

 バスを降り、公園内部を歩いて施設へと向かう。木々で覆われた道を梨音は跳ねながら歩き、おれは彼女の背を見ながら考えごとをしていた。

 レリーズでのことだ。そして、梨音のこと。

 おれが大変だったのはあの場にいた人間しか知らない。学内で噂になってないのだからそのはずだ。

「梨音」

 奥には目的地が見えていた。梨音は振り返り「なに?」と笑う。

「あのとき、見てたのか」

 顔がこわばる。「あのときって?」と口は動くが、本心じゃないのは目が語っていた。

「先週の日曜だよ。あのとき、おまえも三階にいたのか?」

 梨音は唇を尖らせた。これから楽しむっていうのに、どうしてそんなこと言うの――そんな感情がありありと見える。

「……いたよ」

 細く言ってうつむく。思わずため息をつくと、小さな肩が跳ねた。

「ごめん。怖かったよな」

 あげられた目は困惑の色をしていた。「なんで朝希が謝るの?」と聞かれ、今度はこっちが困ってしまう。

「今聞くことじゃなかったなって」

「それはそう!」

 茶化すように梨音は笑う。表情はかすかに曇っていた。

「どうした?」

 彼女はめずらしくためらっていた。片手で帽子のつばを下げ、目線を隠す。

「責められるかと思った」

「な、なんで?」

 風が吹いて木の葉を鳴らす。隙間からセミの声が流れる。梨音はしばらく口をつぐみ、やがて諦めたように肩を落とした。

「あのとき……未宇も涼子も、一生懸命朝希のこと助けようとしてたじゃん。アタシはそれも見てたのに、結局なんにもできなかったから。朝希がそれ知ったら、ガッカリするんじゃないかと思って」

 おれは梨音の告白を聞いて、やっぱり何もわからなかった。「なんで?」と再度聞くと、梨音は理解できないといった顔をする。

「そこまで言わせんのは酷くない!?」

 怒った様子の彼女におれは手のひらを向ける。

「いや、だって……なんでそれで責めるんだよ。そりゃあ、目の前に立ってにやにやしてたら、それだけ余裕があるなら助けてくれてもいいだろって思うかもしれないけど……どこにいて、どんな状態だったのかもわからないし、そんなこと思うわけないだろ。あんなことがあったんだ。怖くてあたりまえだよ。おれも結局助かったし、気にしなくていいよ」

 細長く息を吐く。なぜか不満そうな梨音と目が合って、つい笑みがこぼれた。

「でも、あのとき三階にいたなら……梨音に怪我がなくてホントによかった」

 梨音は一瞬強く下唇を噛んだ――気がした。でもすぐにいつもの明るく、小生意気な顔で笑う。頬に少しの照れを滲ませて。

「やっぱ優しいね」

「そ、そう? 普通だろ」

「朝希のそういうとこ、かっこいいと思うよ」

「ええ……?」

 急に褒められて動揺するおれの手を、梨音はさっと取る。「行こ!」と眩しい笑顔を向けられ、彼女の力強さも相まって、問答無用で短くない距離を走らされた。

 木陰は多いが陽も高いので、インドア派にはなかなか堪える。でも楽しそうな梨音を見ていると、不思議と嫌な気はしなかった。

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